二人は水原の家に向かった。だが、インターホンを押しても返事はなかった。
「おかしいな」
「ヒロ、あの人……」
振り返ると、少し離れたところに古風な着物姿の老婦人が立っていた。
「あなたたち、しおりちゃんを探してるの?」
「はい。知り合いなんですか?」
「お隣に住んでるのよ。しおりちゃんなら、今朝車で出かけていったわ。お父さんと一緒に」
「いつ戻るか言ってませんでした?」
「さあ、荷物も多かったし、しばらく帰ってこないんじゃないかしら」
俺とリセは顔を見合わせた。
「ありがとうございます」
老婦人が去ったあと、俺は思わず壁を殴りそうになった。
「くそっ……」
「ヒロ、落ち着いて」
「どうして姿を消すんだ? 白野の言ってることが本当だから?」
「それはわからないよ。水原先輩には水原先輩の事情があるかも」
俺はスマホを取り出し、再度水原に電話した。今度は留守電になった。
「水原、俺だ。白野から聞いたことがある。話し合いたい。連絡してくれ」
電話を切ると、リセが心配そうに俺を見ていた。
「ヒロ、どうする?」
「……わからない」
俺の中では怒りと悲しみが入り混じっていた。水原への信頼が揺らいでいる。でも、まだ彼女の言い分を聞いていない。判断はそれからだ。
「リセ、今日はもう帰ろう」
「うん」
アパートに戻ると、俺はベッドに倒れ込んだ。頭が混乱している。
俺は母さんに電話をかけた。
「ヒロ?」
「母さんの勤めてた会社、水原グループに買収されたって本当か?」
電話の向こうで、母親が驚いたように息を呑む音が聞こえた。
「どうしてそれを……?」
「知り合いから聞いた。母さんはその時解雇されたんだよな?」
「……そうよ。突然の解雇だった。でも、それが何か?」
「その後、母さんの生活が苦しくなって、ギャンブルに手を出すようになったんだろ?」
「ヒロ……」
母親の声が震えていた。
「誰かがあなたに話したのね」
「答えてくれ」
「その通りよ。解雇されて収入が激減して、精神的にも追い詰められてた。だから、友達に誘われるまま……そこから歯止めが効かなくなった」
俺の胸に痛みが走る。白野の言葉は本当だった。
「母さん、水原グループの社長のことは?」
「水原洋介ね。冷酷な人だった。効率化の名の下に、多くの社員を切った」
「そうか……」
「でも、どうしてこんなことを?」
「いや、ちょっとな」
俺は電話を切った後、壁を見つめた。水原の父親が母親を解雇し、それが原因で母親はギャンブルに走り、借金を抱えた。そして水原は、そんな俺の家庭環境を知った上で近づいてきた。
「なんてこった……」
夜も更け、俺はなかなか眠れなかった。頭の中は水原のことでいっぱいだった。
翌朝、目が覚めるとスマホに通知が入っていた。水原からのメッセージだ。
『川崎くん、話したいことがあります。今日の午後2時、いつもの公園で待ってます』
短い文面。そして敬語。それだけで、何か大きな変化を感じた。
返信はシンプルに。
『わかった。行く』
時間までまだあったので、俺はシャワーを浴び、着替えた。そして、リセにも連絡を入れておいた。
午後2時前、俺は指定された公園に着いた。水原はブランコに座って、足を揺らしていた。いつもの明るい水原ではなく、どこか大人びた雰囲気が漂っていた。
「水原」
「あ、川崎くん……」
水原はゆっくりと立ち上がり、俺に向き合った。その目には覚悟のようなものが見えた。
「昨日はごめんなさい。突然連絡取れなくなって」
「水原、もう隠し事はやめよう。白野から聞いたことがある」
俺の直球の問いかけに、水原の表情が一瞬で強張った。そして、うつむいて唇を噛む。
「……何を、聞いたの?」
水原の声は、いつもの明るさはなかった。震えるような、小さな声。
「母さんの会社が水原グループに買収されて、解雇されたこと。そしてそれがきっかけで母さんがギャンブルに手を出して、借金を抱えるようになったってこと」
水原の肩が小さく震える。そして、長い沈黙の後。
「……ごめんなさい」
「知ってたのか? 全部」
水原はゆっくりと顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。
「うん……。でも、話の順番を間違えないでほしい」
「順番?」
「川崎くんが思ってるのと違うの」
水原は震える手で涙を拭った。
「買収したのは事実。お母さんが解雇されたのも事実。でも……あたしはその後に川崎くんのことを知ったの」
俺は水原の顔をじっと見た。嘘をついているようには見えない。
「どういうことだ?」
「あたしね、白野先輩と本当に許嫁だったの。家同士のしがらみで、嫌でも結婚させられるつもりだった。その当時、出会ったのが川崎くんだった」
水原は少し微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻る。
「あたし、川崎くんに一目惚れした。でも、許嫁がいて身動きとれなくて。だから川崎くんの学校に転入できるよう、父さんに頼んだの。父さんも珍しく簡単に許してくれて。それで転入して……」
「だから、白野が見せたSNSの投稿は本当なんだな」
「うん。でも、それはただ、好きな人に会いたかっただけ」
水原は再び涙をこぼした。
「だけど、転入してしばらく経って知ったの。川崎くんのお母さんがお父さんの会社で解雇された人だってこと」
「どうやって?」
「会社の資料を見てた時、たまたま目に入った。解雇された社員リストに『川崎美樹』の名前があって。確認したら、本当に川崎くんのお母さんだった」
水原は震える声で続けた。
「その時すごく驚いた。そして、罪悪感も感じた。だって、川崎くんのお母さんを解雇したのは、あたしの父さんだったから」
「……」
「あたし、川崎くんのことをもっと知りたくて、調べるようになった。そうしたら、お母さんが解雇されてから生活が苦しくなって、ギャンブルに手を出して、借金まで抱えるようになったって知って……もっと罪悪感が強くなった」
水原の話を聞きながら、俺の中の怒りが少しずつ冷めていくのを感じた。
「それで、借金を肩代わりしようと思ったんだな」
「うん。父さんに頼んで、あたしの名義で借金を肩代わりできるようにしてもらった。それが、あたしにできる唯一の償いだと思って」
「なんで最初から言わなかった?」
水原は少し俯いた。
「言えなかった……。だって、川崎くんがあたしのお父さんを恨むかもしれないと思ったから。そうしたら、川崎くんもあたしのことを嫌いになるかもしれないって……それが怖かった」
「だから契約という形にした?」
「うん。そうすれば、たとえ川崎くんがあたしを好きになれなくても、お金のためなら側にいてくれるって……最低の考えだよね」
水原は自嘲するように笑った。
「だけど、川崎くんと一緒にいるうちにどんどん好きになっていった」
水原は顔を上げ、俺をまっすぐに見つめた。
「だから、お願い。信じてほしい。あたしは川崎くんを利用したわけじゃない。ただ、罪悪感と、好きという気持ちの間で揺れていただけ」
俺は水原の話を聞いて、深く息を吐いた。彼女の言葉は嘘には聞こえない。しかし、まだ一つの疑問が残っていた。
「白野は、水原が俺のアパートを盗撮したって言ってたけど」
水原は首を振った。
「嘘。あたしはそんなことしてない。白野先輩がどこでその写真を手に入れたのか、あたしにもわからない。でも、あれはあたしじゃない」
「じゃあ、なんで白野はお前を陥れようとしてる?」
「白野先輩は、あたしを自分のものにしたいんだと思う。昔から束縛が強くて、あたしが他の人に心を奪われるのが許せないの。特に、白野先輩が『格下』と思ってる人には」
「格下?」
「白野先輩の感覚では、家柄や地位が全てなの。川崎くんが、あたしを奪うなんて許せないんだと思う」
俺は水原の言葉を咀嚼しながら、ベンチに腰かけた。水原も隣に座る。
「昨日、姿を消したのはどうして?」
「お父さんに相談するために、実家に戻ってた。あたし、もう全部正直に話そうって決めたの。だから、お父さんにも白野先輩のことも、川崎くんとの関係も、全部話した」
「それで?」
「お父さん……思ったより理解してくれた。あたしの気持ちを尊重してくれて。そして……」
水原は少し照れくさそうに微笑んだ。
「川崎くんとお母さんに直接謝りたいって」
「謝りたい?」
「うん。お母さんを解雇したこととか、全部」
俺は複雑な感情に包まれながら、空を見上げた。水原の言葉が本当なら、彼女は確かに最初は俺に対して罪悪感から近づいたのかもしれない。けれど、それは本当の気持ちを偽っていたわけではないのだろう。
「わかった。信じる」
水原の目が大きく見開かれる。
「……本当?」
「ああ。話を聞いて、それが真実だと思う」
水原の目から涙が溢れ出した。安堵と喜びが混ざった涙。
「ありがとう……! 川崎くん、ありがとう!」
彼女は俺に飛びつくように抱きついた。小さな体が震えている。
「ただ、まだ一つ片付けないといけないことがある──」
そう言って立ち上がった俺たちは、公園を後にした。