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第56話 納得できない

 俺とリセはマンションを後にした。夜の空気が冷たく、俺たちの息が白い霧となって消えていく。水原の言葉が頭から離れない。


「こんなの納得できるわけないだろ」


 俺は歯を食いしばった。リセは黙って俺の横を歩いていた。


「ヒロ、本当にこのままでいいの?」


「よくねえよ。水原が本気であんなことを望むわけない」


「でも、水原先輩があんなに言うなら……」


「白野に何か弱みを握ってるに違いない」


 言いながら、自分でもその確信が揺らいでいるのを感じていた。あの時、水原の表情には確かに覚悟があった。俺を拒絶する痛みを、引き受けた者の顔をしていた。


「私、悔しいよ」


 不意にリセがつぶやいた。歩くスピードを緩め、俺の前に立ち塞がる。


「水原先輩とヒロの間に、入る隙間なんてもうないって思ってた。でも、今のは違う。ヒロのこと、手放したがってる顔だった。あんなの、見たくなかった」


「……」


「それなのに、ヒロまで諦めるの? まだ何も話してないのに。理由も聞いてないのに」


 リセの目に涙がにじんでいた。怒りと悲しみと、それ以上に、どうしようもない無力感が混ざった顔。


「私は、ヒロのことが好き。たとえヒロが誰かを選んでも、それでもずっと応援できるくらいには。でも、今みたいに、誰かの策略でヒロが何かを諦めるなんて、そんなの嫌だよ」


 言葉が胸に刺さった。


 リセの気持ちは、痛いほどわかる。俺だって、水原が本当に俺のことを突き放したとは思っていない。あいつの目は、泣きそうだった。俺に“行け”って言ってるようで、でもどこかで“助けて”って訴えているようにも見えた。


「……会いに行くよ」


「え?」


「もう一度、水原と話す。あいつが何を抱えてるのか、ちゃんと聞いてみる」


 リセは微かに安堵したように笑って、小さく頷いた。


「よかった……ヒロがヒロのままでいてくれて」


 吐く息が白く揺れて、夜空に消えた。


 リセと別れた後、俺はそのまま駅には向かわず、ふらふらと宛もなく街を歩いていた。


 夜の空気は乾いていて、街路樹が風に揺れるたびに細かい枝の音が耳に届く。背筋を撫でるような冷気は、気を抜けばそのまま心の奥にまで染み込んでしまいそうだった。


 ──水原は、何を隠している? 


 白野の存在がすべての鍵を握っている気がした。あいつは言った。「しおりには別の一面がある」だの、「執着が異常」だの。だが、それを言う資格が白野にあるとも思えなかった。自分が彼女を追い詰めてきた過去を、あいつはまるでなかったことのように語る。


 なのに、水原は何も否定しなかった。反論も、弁明も──


 まるで、「それすらも受け入れる」と言わんばかりに。


 そのことが、俺を引っかけたまま離さなかった。


 誰かが彼女を苦しめている。過去の何かが、彼女の足を掴んで、前に進もうとする気持ちを引きずり戻している。それが何なのか。俺が知るべきなのは、その答えだった。


 そして、俺にできることは、それを暴き出すことだ。


「……図書館、行ってみるか」


 思わず独り言が漏れた。携帯の時計を確認する。時間はまだ二十一時を少し回ったところ。中央図書館の閲覧室なら、平日はギリギリまで開いていたはずだ。


 俺は踵を返し、駅前通りを歩いていく。街はもう静まりかけていたが、カフェやチェーンの居酒屋からは人々の喧騒が漏れてくる。


 そういう場所の騒がしさが、今はやけに遠い存在に思えた。

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