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第61話 名前

 白野が喫茶店を去ってから、しばらく誰も何も言わなかった。


 カップの中のコーヒーは冷めきっていた。


 水原は、視線を落としたまま口を開いた。


「……あれが、あの人の本心だったのかな」


「きっとそうだ。けど、それはもう俺たちには関係ない」


 水原は小さく息を吐いた。


「ねえ川崎くん……こんなふうになるって、思ってた?」


「思ってたら、もっと早く止めてた」


 俺は苦笑して応じた。


 けれど、どこかでわかっていた。


 この結末は、最初から避けられないものだったんだ。


 誰かが誰かを縛ろうとして、傷つけ合って、それでも前に進もうとする。


 それが、俺たちの“青春”だった。


 *


 翌日、俺はリセに会いに行った。


 直接、顔を見て話したかった。


 あの時、俺が彼女にかけた言葉は、あまりにも残酷だった。


 校門の前で待っていると、リセがゆっくりと近づいてきた。


「……話があるんだよね?」


「ああ。時間くれるか」


「……いいよ」


 人通りの少ない中庭のベンチに座る。


 リセは、俺の顔を見ずに言った。


「ヒロ、水原先輩と、うまくいってるんでしょ」


「うまくいってる、かどうかは、まだ分からない。けど……信じられた。信じたいって思えた」


「そっか……」


 リセの手が、小さく握られていた。


「正直、悔しかった。私じゃないんだって、何度も思った。でも……ヒロがちゃんと自分で選んだのなら、私はそれを責めたりしない」


「ありがとう。……本当に、ごめん」


「ううん。謝らないで。好きになった人に好きな人がいるって、ただそれだけのことだから」


 リセの声は、震えていた。


 それでも彼女は笑った。


「それでも、私はヒロのこと、好きでいられるから」


「……俺は、リセに救われたよ。何度も」


「知ってる。だから、私もちゃんと前に進まなきゃね」


 ベンチに、静かな風が吹いた。


 別れの言葉は、必要なかった。


 それぞれが、自分の足で立つための時間だった。


 *


 数日後、ようやく平穏な日常が戻ってきた。


 あの嵐のような数週間が嘘みたいに。


 放課後の帰り道、水原──いや、今はまだ「水原」と呼んでしまうけれど──その隣を歩いているだけで、不思議な満足感があった。


 並んで歩く距離が、少しずつ近づいている。


 前は、こんなふうに並んで歩いていても、お互いに踏み込めなかった。何かを恐れていた。けれど今は、その沈黙すら、心地いい。


「ねえ、川崎くん」


 水原が、ふと立ち止まった。


「ん?」


「……その、あたしのこと、名前で呼んでみてよ」


 一瞬、聞き間違いかと思った。


「え?」


「だから……“しおり”って」


 そう言って微笑む彼女の顔が、夕陽に照らされて、ほんのり赤くなっていた。


 俺も顔が熱くなるのを感じながら、視線を逸らす。


「……しおり」


 たどたどしく口にしたその名前。


 彼女は少し驚いたように目を見開いて、それから、ふわりと笑った。


「うん、いいね」


 心臓が、跳ねた。


「じゃあ、そっちも変えないとおかしいだろ」


「うん?」


「……名前」


 彼女は少しだけ躊躇って、それから、小さく呟くように言った。


「……ヒロ、くん」


「“くん”いる?」


「い、いる……っかも」


 慌てたように言い直すしおりが可愛くて、思わず笑ってしまった。


 彼女も、それにつられて笑った。


 なんてことのない会話。


 でも、それが何よりも大切で、嬉しかった。

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