白野が喫茶店を去ってから、しばらく誰も何も言わなかった。
カップの中のコーヒーは冷めきっていた。
水原は、視線を落としたまま口を開いた。
「……あれが、あの人の本心だったのかな」
「きっとそうだ。けど、それはもう俺たちには関係ない」
水原は小さく息を吐いた。
「ねえ川崎くん……こんなふうになるって、思ってた?」
「思ってたら、もっと早く止めてた」
俺は苦笑して応じた。
けれど、どこかでわかっていた。
この結末は、最初から避けられないものだったんだ。
誰かが誰かを縛ろうとして、傷つけ合って、それでも前に進もうとする。
それが、俺たちの“青春”だった。
*
翌日、俺はリセに会いに行った。
直接、顔を見て話したかった。
あの時、俺が彼女にかけた言葉は、あまりにも残酷だった。
校門の前で待っていると、リセがゆっくりと近づいてきた。
「……話があるんだよね?」
「ああ。時間くれるか」
「……いいよ」
人通りの少ない中庭のベンチに座る。
リセは、俺の顔を見ずに言った。
「ヒロ、水原先輩と、うまくいってるんでしょ」
「うまくいってる、かどうかは、まだ分からない。けど……信じられた。信じたいって思えた」
「そっか……」
リセの手が、小さく握られていた。
「正直、悔しかった。私じゃないんだって、何度も思った。でも……ヒロがちゃんと自分で選んだのなら、私はそれを責めたりしない」
「ありがとう。……本当に、ごめん」
「ううん。謝らないで。好きになった人に好きな人がいるって、ただそれだけのことだから」
リセの声は、震えていた。
それでも彼女は笑った。
「それでも、私はヒロのこと、好きでいられるから」
「……俺は、リセに救われたよ。何度も」
「知ってる。だから、私もちゃんと前に進まなきゃね」
ベンチに、静かな風が吹いた。
別れの言葉は、必要なかった。
それぞれが、自分の足で立つための時間だった。
*
数日後、ようやく平穏な日常が戻ってきた。
あの嵐のような数週間が嘘みたいに。
放課後の帰り道、水原──いや、今はまだ「水原」と呼んでしまうけれど──その隣を歩いているだけで、不思議な満足感があった。
並んで歩く距離が、少しずつ近づいている。
前は、こんなふうに並んで歩いていても、お互いに踏み込めなかった。何かを恐れていた。けれど今は、その沈黙すら、心地いい。
「ねえ、川崎くん」
水原が、ふと立ち止まった。
「ん?」
「……その、あたしのこと、名前で呼んでみてよ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「え?」
「だから……“しおり”って」
そう言って微笑む彼女の顔が、夕陽に照らされて、ほんのり赤くなっていた。
俺も顔が熱くなるのを感じながら、視線を逸らす。
「……しおり」
たどたどしく口にしたその名前。
彼女は少し驚いたように目を見開いて、それから、ふわりと笑った。
「うん、いいね」
心臓が、跳ねた。
「じゃあ、そっちも変えないとおかしいだろ」
「うん?」
「……名前」
彼女は少しだけ躊躇って、それから、小さく呟くように言った。
「……ヒロ、くん」
「“くん”いる?」
「い、いる……っかも」
慌てたように言い直すしおりが可愛くて、思わず笑ってしまった。
彼女も、それにつられて笑った。
なんてことのない会話。
でも、それが何よりも大切で、嬉しかった。