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第66話 幸せ

 しおりが腕に頬を寄せてきたまま、しばらくのあいだ、俺たちはただ黙っていた。


 ストーブの音と、窓の外を通り抜ける風の音だけが響いている。


 しおりの髪が、ふわりと揺れて俺の袖に触れるたび、心臓が跳ねた。


 この距離は、近い。けれど、心地いい。


 しおりが俺を信頼している証拠のようで、何よりも大切な感触だった。


「ヒロくん」


「ん」


「おなか、すかない?」


「そう言うと思った」


「お昼、なにか作ろっか?」


「お前が?」


「なによ、その“地雷踏みそう”みたいな顔」


「いや、別に……手伝うよ」


「よろしい。じゃあ、ヒロくんは米といで」


「……やっぱ地雷じゃねーか」


 笑いながらキッチンに移動して、ふたりで昼食の支度を始めた。


 冷蔵庫には昨日の残り物と卵、ベーコン、冷凍のブロッコリー。それにしおりが「実は買ってあった」と出してきたカレーのルウ。


「これで簡単オムカレーにしよ!」


「発想は悪くない。けどそれ、簡単なのか?」


「簡単“風”だから!」


 しおりがフライパンで卵を焼くあいだ、俺はルウを溶かして煮込みを担当。


「ヒロくん、これどう? 焦げてない?」


「ギリセーフ」


「ひどいっ」


「ほら、貸せ。火強すぎ」


「うぅ、プロ……」


「プロじゃねぇよ」


 慌ただしくも楽しい時間のあと、ようやく昼食が完成した。


「いただきます」


「いただきまーす」


 オムレツは少し形が崩れていたけれど、カレーの香りがしっかり食欲をそそってきた。


 一口食べて、しおりが「ふふっ」と笑う。


「美味しいね、これ」


「カレーの味しかしないけどな」


「それでいいの」


 にこにこと笑いながらスプーンを口に運ぶ彼女の横顔を見ていると、食事中だというのに視線がそらせなかった。


「なに?」


「……いや、やっぱりお前のこと好きだなって思って」


 自分でも、口に出した瞬間に恥ずかしさが爆発した。


 しおりがスプーンを止め、目をぱちぱちと瞬かせる。


「……今、急に、なに?」


「忘れてくれ」


「やだ」


 そして突然、しおりはスプーンを置いて、すっと身を乗り出してきた。


 おでこが俺の額に、そっと触れる。


「……あたしも好きだよ、ヒロくん」


「……ん」


「今日だけじゃないからね。これからも、ずっと一緒にいたいって思ってる」


 額を離したあとも、しおりの頬は赤く染まっていた。


「ご飯、冷めちゃうよ」


「お前のせいだろ」


「ふふ……それなら、責任取ってあっためて」


「やっぱバカだろ、お前」


「うん、ヒロくんの前だとバカになる」


 そのやりとりだけで、午後の時間がどこまでも甘く染まっていくのを感じた。


 食後、ふたりでコタツに戻り、気づけばうたた寝していた。


 目を覚ましたとき、しおりの髪が俺の胸元にふわりとかかっていた。


 穏やかな寝顔。


 俺はそっとその頭を撫でた。


 この日常が、永遠に続けばいい──そう思った。


 *


 食後のうたた寝から目覚めたしおりは、寝ぼけ眼のまま、俺の胸に額を押しつけてきた。


「……ん、ヒロくん……何時……?」


「三時過ぎ。ちょっと寝すぎたな」


「そっか……でも、あったかかった……」


「俺は湯たんぽか何かか」


「そうだよ? 世界で一番好きな湯たんぽ」


 そんなセリフを当然のように口にして、彼女はふにゃりと笑う。


 起き上がったあとも、しおりはまだ眠そうにしていた。髪が少し跳ねていて、俺は思わず手を伸ばして直してやる。


「寝癖、ついてるぞ」


「やだぁ、恥ずかしい……ヒロくんが直して」


「もう直した」


「ありがと」


 そう言って、しおりはまた俺の方へ寄ってきた。今度は肩に寄りかかるように、ぴったりとくっついて座る。


「なあ、そろそろ真面目に課題やらないとマズいんじゃないか?」


「うぅ……でもヒロくんの肩、気持ちよすぎて動きたくない……」


「お前なぁ……」


 俺は苦笑しながらも、結局そのまま肩を貸していた。


 それからようやく腰を上げて、再び英語の課題を広げる。途中、しおりが問題を読み間違えたり、変なメモを書いたりしては笑い合い、何度も「集中して」と言いながらも、俺のほうも気が抜けてしまう。


 それでも、少しずつ進めていくうちに、時間はあっという間に過ぎていった。


 夕方。窓の外が少しだけ暗くなり始めたころ、キッチンからしおりがカップをふたつ持って戻ってくる。


「はい、ホットミルク」


「サンキュ」


「ミルクって落ち着くよね。甘くて、あったかくて」


「お前、甘いもの好きだよな」


「うん。ヒロくんの優しさも含めて、全部甘やかされてる気がする」


「それはどうかと思うけどな……」


「でもさ、ヒロくんってさ、こうやって一緒にいてくれるだけで、あたし安心するんだよ」


 カップを両手で包んだまま、しおりはぽつりと呟いた。


「前は、どこかで“嫌われたくない”って思ってばっかだったけど。今は違う。ちゃんと向き合ってる気がする」


「俺も、同じだよ。昔のお前のこと、ちゃんと全部知ってるわけじゃないけど……今のお前が好きだ」


「ふふ……それ、さっきも言ってたよ」


「……何回言っても足りないから」


 しおりの頬がほんのり赤く染まって、それを隠すようにカップを口元に寄せた。


「……あたしも、何度でも聞きたい」


「じゃあ、言ってやるよ」


「え?」


「好きだよ、しおり。お前の全部が、俺には特別なんだ」


 今度は、照れた表情のまま、しおりがそっと俺の肩に顔を埋めた。


「……バカ」


「バカでもいい」


「ヒロくんのバカ、好き」


 外はもう、すっかり冬の夕暮れの色に染まっていた。


 部屋の中のぬくもりと、カップの熱さ、そして隣の彼女の存在。


 それらすべてが、俺にとってなによりの幸せだった。

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