しおりが腕に頬を寄せてきたまま、しばらくのあいだ、俺たちはただ黙っていた。
ストーブの音と、窓の外を通り抜ける風の音だけが響いている。
しおりの髪が、ふわりと揺れて俺の袖に触れるたび、心臓が跳ねた。
この距離は、近い。けれど、心地いい。
しおりが俺を信頼している証拠のようで、何よりも大切な感触だった。
「ヒロくん」
「ん」
「おなか、すかない?」
「そう言うと思った」
「お昼、なにか作ろっか?」
「お前が?」
「なによ、その“地雷踏みそう”みたいな顔」
「いや、別に……手伝うよ」
「よろしい。じゃあ、ヒロくんは米といで」
「……やっぱ地雷じゃねーか」
笑いながらキッチンに移動して、ふたりで昼食の支度を始めた。
冷蔵庫には昨日の残り物と卵、ベーコン、冷凍のブロッコリー。それにしおりが「実は買ってあった」と出してきたカレーのルウ。
「これで簡単オムカレーにしよ!」
「発想は悪くない。けどそれ、簡単なのか?」
「簡単“風”だから!」
しおりがフライパンで卵を焼くあいだ、俺はルウを溶かして煮込みを担当。
「ヒロくん、これどう? 焦げてない?」
「ギリセーフ」
「ひどいっ」
「ほら、貸せ。火強すぎ」
「うぅ、プロ……」
「プロじゃねぇよ」
慌ただしくも楽しい時間のあと、ようやく昼食が完成した。
「いただきます」
「いただきまーす」
オムレツは少し形が崩れていたけれど、カレーの香りがしっかり食欲をそそってきた。
一口食べて、しおりが「ふふっ」と笑う。
「美味しいね、これ」
「カレーの味しかしないけどな」
「それでいいの」
にこにこと笑いながらスプーンを口に運ぶ彼女の横顔を見ていると、食事中だというのに視線がそらせなかった。
「なに?」
「……いや、やっぱりお前のこと好きだなって思って」
自分でも、口に出した瞬間に恥ずかしさが爆発した。
しおりがスプーンを止め、目をぱちぱちと瞬かせる。
「……今、急に、なに?」
「忘れてくれ」
「やだ」
そして突然、しおりはスプーンを置いて、すっと身を乗り出してきた。
おでこが俺の額に、そっと触れる。
「……あたしも好きだよ、ヒロくん」
「……ん」
「今日だけじゃないからね。これからも、ずっと一緒にいたいって思ってる」
額を離したあとも、しおりの頬は赤く染まっていた。
「ご飯、冷めちゃうよ」
「お前のせいだろ」
「ふふ……それなら、責任取ってあっためて」
「やっぱバカだろ、お前」
「うん、ヒロくんの前だとバカになる」
そのやりとりだけで、午後の時間がどこまでも甘く染まっていくのを感じた。
食後、ふたりでコタツに戻り、気づけばうたた寝していた。
目を覚ましたとき、しおりの髪が俺の胸元にふわりとかかっていた。
穏やかな寝顔。
俺はそっとその頭を撫でた。
この日常が、永遠に続けばいい──そう思った。
*
食後のうたた寝から目覚めたしおりは、寝ぼけ眼のまま、俺の胸に額を押しつけてきた。
「……ん、ヒロくん……何時……?」
「三時過ぎ。ちょっと寝すぎたな」
「そっか……でも、あったかかった……」
「俺は湯たんぽか何かか」
「そうだよ? 世界で一番好きな湯たんぽ」
そんなセリフを当然のように口にして、彼女はふにゃりと笑う。
起き上がったあとも、しおりはまだ眠そうにしていた。髪が少し跳ねていて、俺は思わず手を伸ばして直してやる。
「寝癖、ついてるぞ」
「やだぁ、恥ずかしい……ヒロくんが直して」
「もう直した」
「ありがと」
そう言って、しおりはまた俺の方へ寄ってきた。今度は肩に寄りかかるように、ぴったりとくっついて座る。
「なあ、そろそろ真面目に課題やらないとマズいんじゃないか?」
「うぅ……でもヒロくんの肩、気持ちよすぎて動きたくない……」
「お前なぁ……」
俺は苦笑しながらも、結局そのまま肩を貸していた。
それからようやく腰を上げて、再び英語の課題を広げる。途中、しおりが問題を読み間違えたり、変なメモを書いたりしては笑い合い、何度も「集中して」と言いながらも、俺のほうも気が抜けてしまう。
それでも、少しずつ進めていくうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
夕方。窓の外が少しだけ暗くなり始めたころ、キッチンからしおりがカップをふたつ持って戻ってくる。
「はい、ホットミルク」
「サンキュ」
「ミルクって落ち着くよね。甘くて、あったかくて」
「お前、甘いもの好きだよな」
「うん。ヒロくんの優しさも含めて、全部甘やかされてる気がする」
「それはどうかと思うけどな……」
「でもさ、ヒロくんってさ、こうやって一緒にいてくれるだけで、あたし安心するんだよ」
カップを両手で包んだまま、しおりはぽつりと呟いた。
「前は、どこかで“嫌われたくない”って思ってばっかだったけど。今は違う。ちゃんと向き合ってる気がする」
「俺も、同じだよ。昔のお前のこと、ちゃんと全部知ってるわけじゃないけど……今のお前が好きだ」
「ふふ……それ、さっきも言ってたよ」
「……何回言っても足りないから」
しおりの頬がほんのり赤く染まって、それを隠すようにカップを口元に寄せた。
「……あたしも、何度でも聞きたい」
「じゃあ、言ってやるよ」
「え?」
「好きだよ、しおり。お前の全部が、俺には特別なんだ」
今度は、照れた表情のまま、しおりがそっと俺の肩に顔を埋めた。
「……バカ」
「バカでもいい」
「ヒロくんのバカ、好き」
外はもう、すっかり冬の夕暮れの色に染まっていた。
部屋の中のぬくもりと、カップの熱さ、そして隣の彼女の存在。
それらすべてが、俺にとってなによりの幸せだった。