それからさらにしばらく、俺たちは言葉少なにホットミルクを飲みながら、ソファに並んで座っていた。
テレビもスマホもつけていない。ただ、暖房の低い唸りと、ときどき通る車の音だけが部屋の静けさを区切っていた。
「ねえ、ヒロくん」
しおりがふいに口を開いた。
「ん?」
「あたしさ、こうやって何もしないでヒロくんと過ごすの、ほんと好き」
「俺も。なんか、すげぇ落ち着く」
「うん……家族でも、友達でもない、“恋人”って関係だからこその距離っていうか、安心感っていうか……伝わる?」
「……ちゃんと、伝わってる」
そう言って、しおりはまた肩を俺に預けてきた。こんなにも無防備に、信頼しきった様子を見せられると、こっちのほうが照れてしまう。
「ヒロくん」
「なんだよ」
「今度さ、旅行とか行ってみたいね」
「旅行?」
「うん、遠出じゃなくてもいいの。日帰りでいいから、電車に揺られてどっかの町に行って、知らない店とか入って、ふたりで歩いて、変なもの食べて、笑って……」
しおりの声は、どこか夢見がちで、それでいて現実的だった。
「寒いから温泉街とか……商店街のコロッケ食べたり、足湯入ったり……」
「……楽しそうだな」
「でしょ? ヒロくんとなら、どこに行っても楽しいって思える」
「よし、考えとく。今度の連休とか、狙ってみるか」
「ほんと!? やったぁ……」
しおりは嬉しそうに俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。
心なしか、頬が耳に当たる距離で、ちょっとくすぐったい。
「でもさ、旅行先でケンカとかしちゃったりしないかな」
「しねーよ。……たぶん」
「え、たぶん?」
「だって、なんかで道間違えたり、乗り遅れたりしてテンパったら、もしかしたら……」
「じゃあそのときは、あたしがヒロくんの手、引っ張ってあげる」
「頼むわ」
「うん。任せて」
そこからはまた、次はどこの町がいいか、雪が見える場所にしようか、それとも海が近いところにするか、そんな話を延々と続けた。
お互いに調べたこともない土地の名前を並べては、「それ行ったことある」「ない」などと無意味な情報交換をしながら、ひたすら笑い合った。
気づけば時間はもう六時を過ぎていた。
「そろそろ帰らないと、暗くなるな」
「……そっか」
しおりは少しだけ、寂しそうに笑った。
「今夜、寒いらしいし、気をつけてね」
「おう」
「……あ、待って。玄関まで送る」
玄関に向かうあいだも、しおりは俺の袖をつまんだままだった。
「……ありがとな、今日。すげー楽しかった」
「うん。あたしも。ほんとに」
「またすぐ会えるけどな」
「それでも、今この瞬間が、惜しいなって思うの」
外に出ると、すでに風は冷たく、空には星がちらちらと瞬き始めていた。
門の前で、俺はしおりに振り返る。
「……しおり」
「なに?」
「次にお前の家に来るとき、なんか“特別な日”にしような」
「……それって、どういう意味?」
「まだ内緒。でも、楽しみにしとけ」
しおりはぱちぱちと瞬きをして、それから、ふわっと笑った。
「うん。あたし、すっごく期待しちゃうかも」
「期待しとけ。裏切らないから」
その笑顔を胸に焼き付けて、俺は帰路についた。
次に会う日を思い描きながら。
*
しおりとの“特別な日”をどうするか、俺は帰り道を歩きながら、ずっと考えていた。
別に記念日ってわけじゃない。誕生日でもなければ、バレンタインやクリスマスでもない。ただ──ただ、しおりに「嬉しい」って思ってほしい、それだけだった。
それで思い立ったのが、次の土曜日。学校は午前授業で終わるし、午後はまるまる時間が使える。
そして当日。
午前の授業を終えて校門を出ると、しおりが制服のまま駅前で待っていた。コートのフードをかぶり、手には小さな紙袋を提げている。
「ヒロくん〜。やっと出てきた」
「悪い、ちょっと掃除長引いてさ」
「いいよ、許す。今日は“特別な日”だもんね?」
「……よく覚えてたな」
「覚えてるに決まってるでしょ。言った本人が忘れてたら怒るとこだよ」
冗談めかして笑うその姿に、俺の胸の奥がふっと温かくなる。
「じゃ、行こうか」
「うん。どこ行くの?」
「駅まで黙ってついてきて」
電車に揺られて約30分。着いた先は、郊外の古い商店街が残る小さな町だった。
雪がうっすら積もった石畳の道に、湯気の立ちのぼる饅頭屋の屋台、昭和レトロな喫茶店やこじんまりした足湯──ぜんぶ、下調べ済み。
「ここ、温泉街?」
「まあ、ミニ温泉街って感じかな。ちょっとだけ散歩して、足湯でも入ろうぜ」
「わぁ……あたしこういうとこ初めて!」
目をきらきらさせて、しおりが店先の湯気に顔を寄せている。
「ほら、これ食べてみ」
「なにこれ……あんバターまんじゅう?」
「甘いの好きだろ」
「うん! ヒロくん、よくわかってる〜!」
熱々の饅頭をふたりで半分こして、ふぅふぅしながら歩いた。
次に立ち寄ったのは、無料で使える足湯のコーナー。木のベンチにタオルを敷いて、しおりと並んで足を湯につける。
「はぁ〜〜……しあわせ」
「冷えた足先がとけるな」
「うん……でも、ヒロくんといるからもっとあったかい」
「お前ほんと、最近甘ったるいこと言うよな」
「だって本音だもん。ヒロくんのこと、すごく好きだよ」
顔を真っ赤にしながら言われて、俺もそれを笑ってごまかすしかなかった。
「……俺も、しおりのことが、すげぇ好きだ」
「うん。知ってる」
「言わせといて、それかよ」
「言われると安心するの」
そのあと、小さなギフトショップでしおりがブックカバーを見つけて、俺が「じゃあそれ買ってやる」と言ったら、「ヒロくんが読む本に使ってよ」と返されて、なんとなく、それだけで胸が詰まる。
帰り道。電車の中で並んで座って、しおりが俺の肩にもたれながら目を閉じた。
「今日は、ほんとにほんとに、特別な日だった」
「まだ終わってねえけどな」
「じゃあ、帰るまでずっと“特別”ね」
「わかった」
外はすっかり暗くなっていて、車窓に映るふたりの姿が、まるで映画のワンシーンみたいだった。
こんなにも、誰かと過ごす時間が愛しいと思えたのは、きっと初めてだった。