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第67話 特別な日

 それからさらにしばらく、俺たちは言葉少なにホットミルクを飲みながら、ソファに並んで座っていた。


 テレビもスマホもつけていない。ただ、暖房の低い唸りと、ときどき通る車の音だけが部屋の静けさを区切っていた。


「ねえ、ヒロくん」


 しおりがふいに口を開いた。


「ん?」


「あたしさ、こうやって何もしないでヒロくんと過ごすの、ほんと好き」


「俺も。なんか、すげぇ落ち着く」


「うん……家族でも、友達でもない、“恋人”って関係だからこその距離っていうか、安心感っていうか……伝わる?」


「……ちゃんと、伝わってる」


 そう言って、しおりはまた肩を俺に預けてきた。こんなにも無防備に、信頼しきった様子を見せられると、こっちのほうが照れてしまう。


「ヒロくん」


「なんだよ」


「今度さ、旅行とか行ってみたいね」


「旅行?」


「うん、遠出じゃなくてもいいの。日帰りでいいから、電車に揺られてどっかの町に行って、知らない店とか入って、ふたりで歩いて、変なもの食べて、笑って……」


 しおりの声は、どこか夢見がちで、それでいて現実的だった。


「寒いから温泉街とか……商店街のコロッケ食べたり、足湯入ったり……」


「……楽しそうだな」


「でしょ? ヒロくんとなら、どこに行っても楽しいって思える」


「よし、考えとく。今度の連休とか、狙ってみるか」


「ほんと!? やったぁ……」


 しおりは嬉しそうに俺の腕にぎゅっとしがみついてきた。


 心なしか、頬が耳に当たる距離で、ちょっとくすぐったい。


「でもさ、旅行先でケンカとかしちゃったりしないかな」


「しねーよ。……たぶん」


「え、たぶん?」


「だって、なんかで道間違えたり、乗り遅れたりしてテンパったら、もしかしたら……」


「じゃあそのときは、あたしがヒロくんの手、引っ張ってあげる」


「頼むわ」


「うん。任せて」


 そこからはまた、次はどこの町がいいか、雪が見える場所にしようか、それとも海が近いところにするか、そんな話を延々と続けた。


 お互いに調べたこともない土地の名前を並べては、「それ行ったことある」「ない」などと無意味な情報交換をしながら、ひたすら笑い合った。


 気づけば時間はもう六時を過ぎていた。


「そろそろ帰らないと、暗くなるな」


「……そっか」


 しおりは少しだけ、寂しそうに笑った。


「今夜、寒いらしいし、気をつけてね」


「おう」


「……あ、待って。玄関まで送る」


 玄関に向かうあいだも、しおりは俺の袖をつまんだままだった。


「……ありがとな、今日。すげー楽しかった」


「うん。あたしも。ほんとに」


「またすぐ会えるけどな」


「それでも、今この瞬間が、惜しいなって思うの」


 外に出ると、すでに風は冷たく、空には星がちらちらと瞬き始めていた。


 門の前で、俺はしおりに振り返る。


「……しおり」


「なに?」


「次にお前の家に来るとき、なんか“特別な日”にしような」


「……それって、どういう意味?」


「まだ内緒。でも、楽しみにしとけ」


 しおりはぱちぱちと瞬きをして、それから、ふわっと笑った。


「うん。あたし、すっごく期待しちゃうかも」


「期待しとけ。裏切らないから」


 その笑顔を胸に焼き付けて、俺は帰路についた。


 次に会う日を思い描きながら。


 *


 しおりとの“特別な日”をどうするか、俺は帰り道を歩きながら、ずっと考えていた。


 別に記念日ってわけじゃない。誕生日でもなければ、バレンタインやクリスマスでもない。ただ──ただ、しおりに「嬉しい」って思ってほしい、それだけだった。


 それで思い立ったのが、次の土曜日。学校は午前授業で終わるし、午後はまるまる時間が使える。


 そして当日。


 午前の授業を終えて校門を出ると、しおりが制服のまま駅前で待っていた。コートのフードをかぶり、手には小さな紙袋を提げている。


「ヒロくん〜。やっと出てきた」


「悪い、ちょっと掃除長引いてさ」


「いいよ、許す。今日は“特別な日”だもんね?」


「……よく覚えてたな」


「覚えてるに決まってるでしょ。言った本人が忘れてたら怒るとこだよ」


 冗談めかして笑うその姿に、俺の胸の奥がふっと温かくなる。


「じゃ、行こうか」


「うん。どこ行くの?」


「駅まで黙ってついてきて」


 電車に揺られて約30分。着いた先は、郊外の古い商店街が残る小さな町だった。


 雪がうっすら積もった石畳の道に、湯気の立ちのぼる饅頭屋の屋台、昭和レトロな喫茶店やこじんまりした足湯──ぜんぶ、下調べ済み。


「ここ、温泉街?」


「まあ、ミニ温泉街って感じかな。ちょっとだけ散歩して、足湯でも入ろうぜ」


「わぁ……あたしこういうとこ初めて!」


 目をきらきらさせて、しおりが店先の湯気に顔を寄せている。


「ほら、これ食べてみ」


「なにこれ……あんバターまんじゅう?」


「甘いの好きだろ」


「うん! ヒロくん、よくわかってる〜!」


 熱々の饅頭をふたりで半分こして、ふぅふぅしながら歩いた。


 次に立ち寄ったのは、無料で使える足湯のコーナー。木のベンチにタオルを敷いて、しおりと並んで足を湯につける。


「はぁ〜〜……しあわせ」


「冷えた足先がとけるな」


「うん……でも、ヒロくんといるからもっとあったかい」


「お前ほんと、最近甘ったるいこと言うよな」


「だって本音だもん。ヒロくんのこと、すごく好きだよ」


 顔を真っ赤にしながら言われて、俺もそれを笑ってごまかすしかなかった。


「……俺も、しおりのことが、すげぇ好きだ」


「うん。知ってる」


「言わせといて、それかよ」


「言われると安心するの」


 そのあと、小さなギフトショップでしおりがブックカバーを見つけて、俺が「じゃあそれ買ってやる」と言ったら、「ヒロくんが読む本に使ってよ」と返されて、なんとなく、それだけで胸が詰まる。


 帰り道。電車の中で並んで座って、しおりが俺の肩にもたれながら目を閉じた。


「今日は、ほんとにほんとに、特別な日だった」


「まだ終わってねえけどな」


「じゃあ、帰るまでずっと“特別”ね」


「わかった」


 外はすっかり暗くなっていて、車窓に映るふたりの姿が、まるで映画のワンシーンみたいだった。


 こんなにも、誰かと過ごす時間が愛しいと思えたのは、きっと初めてだった。

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