1月の晴れた日曜、風は冷たいけど、陽射しだけはやけに眩しかった。
駅前で待ち合わせていた俺たちは、並んで歩きながら、自然と指をつないでいた。
「手、冷たくない?」
「ヒロくんの手があるから平気」
しおりはそう言って、俺の手をぎゅっと握る。
細くて、柔らかくて、だけどちゃんとあったかい。そのぬくもりが、冬の冷気のなかで妙に頼もしく感じた。
「今日はどこ行きたい?」
「うーん……映画でも見たいな。甘いやつ」
「甘いやつ?」
「恋愛もの。ヒロくんと並んで観たらきっとドキドキするやつ」
「観る前からドキドキしてるのお前だけだろ」
「なにそれひどい。じゃあドキドキさせてよ、ヒロくん」
そんなことを言いながら、しおりはマフラーに顔をうずめて笑った。
駅ビルの映画館に入り、チケットを取って、飲み物とポップコーンを買う。しおりはキャラメル味を選んで、「ヒロくん、甘いの苦手なら隣で食べるからね」とやたら気を使ってくる。
「気にすんな。お前の“美味しそうな顔”のほうが気になるわ」
「え……もう、ヒロくん、今のちょっと反則」
ほんの少し赤くなった頬を隠すように、しおりは視線をそらす。
上映中、俺たちは会話もないまま、ただ手だけはしっかりとつないでいた。
物語が盛り上がるたびに、しおりの指がきゅっと握ってくる。エンドロールが流れる頃には、彼女の目がうっすら潤んでいた。
「……いい映画だったね」
「ああ。お前が感情移入してて面白かった」
「うるさいな、もう」
館を出ると、もう夕方近くになっていて、街は少しだけ賑わい始めていた。
「ねえ、ヒロくん。あたしさ……こういう日、ずっと続いたらいいのになって思う」
「続くよ。俺がお前といる限り」
「……ヒロくんってさ、たまにすっごいこと言うよね」
「たまにじゃない。毎日お前のこと考えてる」
「う……やっぱ反則……」
そう言ってまた顔を赤くして、俺の袖をつまんでくる。
この温度、この距離、この時間。
全部、俺たちだけのものだった。
映画館を出てすぐ、駅前の小さなカフェに入った。
店内は暖房がしっかり効いていて、外の寒さが嘘みたいに思える。
窓際の二人掛けの席で、しおりは手袋を脱ぎながら俺を見た。
「ヒロくん、ホットチョコ頼んでいい?」
「ああ、いいよ。俺はブレンドで」
注文を済ませて席に戻ると、しおりはコートのポケットから何かを取り出した。
「はい、これ」
「ん? 何だこれ……メモ帳?」
「“彼氏としたいことリスト”!」
「……また妙なの作ったな」
「ふふっ。映画とかカフェとか、ひとつずつ叶えてくの。付き合ってくれない?」
「全部付き合ってやるよ」
しおりがくすっと笑う。
「じゃあ……次は動物園ね。冬の動物って可愛いんだって」
「寒そうだけどな」
「ヒロくんがいるから大丈夫」
そう言って、彼女は両手でカップを包みながら俺の目をまっすぐ見つめた。
「……ねえ、ヒロくん。あたし、最近思うんだ」
「何を?」
「好きって気持ち、ずっと続くのかなって。でも、こうしてヒロくんの顔見てるとさ、止まるどころか、増えてく感じする」
「俺も、同じ」
「ほんと?」
「お前が目の前にいるだけで、俺、すげぇ安心する」
「……嬉しい」
そのまましばらく、ふたりで黙ってチョコとコーヒーを味わいながら、ゆっくりとした時間が流れていく。
冬の陽がガラス越しに差し込み、彼女の髪にやわらかく反射していた。
*
カフェを出る頃には、空がすっかりオレンジ色に染まっていた。
駅前の人通りも少しずつ増えてきて、街が夜の顔に切り替わろうとしている。
しおりは、俺の隣で鼻先をマフラーに埋めながら、ちらっと俺を見上げた。
「ねえ、ヒロくん。今日はさ……もうちょっとだけ、一緒にいたい」
「まだ帰らないのか?」
「だって……なんか、まだ帰りたくない気分」
しおりはちょっとだけ困ったように笑って、俺の袖をそっとつまんだ。
「いいよ。どこ行きたい?」
「うーん……寒いし、あんまり遠くは嫌。でも、歩きながら話したい」
「じゃあ、川沿いの遊歩道でも行くか」
「うん!」
並んで歩く遊歩道。川の水面が、街灯の明かりを受けてゆらゆらと揺れている。寒さで頬がピリつくほどなのに、しおりの手のぬくもりがそれをすべて打ち消してくれる。
「……ヒロくん」
「ん」
「こうやって並んで歩くの、ほんとに好き」
「俺も。お前が横にいると、世界が静かに見える」
「詩人みたいなこと言うね」
「お前限定な」
「……あたしも、ヒロくん限定で甘ったれになるから」
しおりはそう言って、小さく笑った。
ふと、川辺にあるベンチが空いているのを見つけた。
「少しだけ座っていこうか」
「うん」
ふたりで並んで座ると、しおりは俺の肩に寄りかかってきた。
「寒いね」
「俺のマフラー、半分使うか?」
「ほんと? ……じゃあ、もらう」
ひとつのマフラーをふたりで巻く。距離が一気にゼロになる。
頬が触れ合いそうなほど近くて、しおりの吐息が耳元で小さく震える。
「ねえ、ヒロくん……キス、してもいい?」
言葉が落ちる前に、俺はそっとしおりの頬に手を添えていた。
彼女はゆっくり目を閉じる。
冬の冷たい空気の中で、ぬくもりだけが交差する一瞬。
触れるだけのキス。それだけなのに、心の奥が溶けるようだった。
「……ありがとう」
「何がだよ」
「今日、こんなに幸せにしてくれて」
「俺のほうこそ、ありがとう」
そのまましばらく、ふたりは肩を寄せ合って空を見上げていた。
オレンジの空が、ゆっくりと群青に変わっていく。
この日が終わってしまうのが惜しくて、俺はしおりの手をぎゅっと握り直した。
しおりを家の前まで送ったあと、俺はそのまましばらく門の前に立っていた。
彼女が「じゃあね、また明日」と手を振る瞬間まで、俺はその笑顔を一秒でも長く見ていたかった。
帰り道、ポケットの中のスマホが震える。
通知を見ると、しおりからのメッセージだった。
『今日のヒロくん、すごく優しかった。ずっとくっついてたくなったよ』
すぐに返信する。
『俺も、ずっとくっついてたいと思ってた』
『じゃあ今度は、もっと長く一緒にいられる日つくろ?』
『作ろう。お前が望むだけ、俺は応えるから』
既読がついた後、少し間を置いてからハートのスタンプが一つだけ返ってきた。
布団に入っても、今日の余韻が身体に残っていて、なかなか眠れそうにない。
だけどそれすら、幸せなことだと思えた。
──次に会える日が、もう待ち遠しい。