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第69話 手

 1月の晴れた日曜、風は冷たいけど、陽射しだけはやけに眩しかった。


 駅前で待ち合わせていた俺たちは、並んで歩きながら、自然と指をつないでいた。


「手、冷たくない?」


「ヒロくんの手があるから平気」


 しおりはそう言って、俺の手をぎゅっと握る。


 細くて、柔らかくて、だけどちゃんとあったかい。そのぬくもりが、冬の冷気のなかで妙に頼もしく感じた。


「今日はどこ行きたい?」


「うーん……映画でも見たいな。甘いやつ」


「甘いやつ?」


「恋愛もの。ヒロくんと並んで観たらきっとドキドキするやつ」


「観る前からドキドキしてるのお前だけだろ」


「なにそれひどい。じゃあドキドキさせてよ、ヒロくん」


 そんなことを言いながら、しおりはマフラーに顔をうずめて笑った。


 駅ビルの映画館に入り、チケットを取って、飲み物とポップコーンを買う。しおりはキャラメル味を選んで、「ヒロくん、甘いの苦手なら隣で食べるからね」とやたら気を使ってくる。


「気にすんな。お前の“美味しそうな顔”のほうが気になるわ」


「え……もう、ヒロくん、今のちょっと反則」


 ほんの少し赤くなった頬を隠すように、しおりは視線をそらす。


 上映中、俺たちは会話もないまま、ただ手だけはしっかりとつないでいた。


 物語が盛り上がるたびに、しおりの指がきゅっと握ってくる。エンドロールが流れる頃には、彼女の目がうっすら潤んでいた。


「……いい映画だったね」


「ああ。お前が感情移入してて面白かった」


「うるさいな、もう」


 館を出ると、もう夕方近くになっていて、街は少しだけ賑わい始めていた。


「ねえ、ヒロくん。あたしさ……こういう日、ずっと続いたらいいのになって思う」


「続くよ。俺がお前といる限り」


「……ヒロくんってさ、たまにすっごいこと言うよね」


「たまにじゃない。毎日お前のこと考えてる」


「う……やっぱ反則……」


 そう言ってまた顔を赤くして、俺の袖をつまんでくる。


 この温度、この距離、この時間。


 全部、俺たちだけのものだった。


 映画館を出てすぐ、駅前の小さなカフェに入った。


 店内は暖房がしっかり効いていて、外の寒さが嘘みたいに思える。


 窓際の二人掛けの席で、しおりは手袋を脱ぎながら俺を見た。


「ヒロくん、ホットチョコ頼んでいい?」


「ああ、いいよ。俺はブレンドで」


 注文を済ませて席に戻ると、しおりはコートのポケットから何かを取り出した。


「はい、これ」


「ん? 何だこれ……メモ帳?」


「“彼氏としたいことリスト”!」


「……また妙なの作ったな」


「ふふっ。映画とかカフェとか、ひとつずつ叶えてくの。付き合ってくれない?」


「全部付き合ってやるよ」


 しおりがくすっと笑う。


「じゃあ……次は動物園ね。冬の動物って可愛いんだって」


「寒そうだけどな」


「ヒロくんがいるから大丈夫」


 そう言って、彼女は両手でカップを包みながら俺の目をまっすぐ見つめた。


「……ねえ、ヒロくん。あたし、最近思うんだ」


「何を?」


「好きって気持ち、ずっと続くのかなって。でも、こうしてヒロくんの顔見てるとさ、止まるどころか、増えてく感じする」


「俺も、同じ」


「ほんと?」


「お前が目の前にいるだけで、俺、すげぇ安心する」


「……嬉しい」


 そのまましばらく、ふたりで黙ってチョコとコーヒーを味わいながら、ゆっくりとした時間が流れていく。


 冬の陽がガラス越しに差し込み、彼女の髪にやわらかく反射していた。


 *


 カフェを出る頃には、空がすっかりオレンジ色に染まっていた。


 駅前の人通りも少しずつ増えてきて、街が夜の顔に切り替わろうとしている。


 しおりは、俺の隣で鼻先をマフラーに埋めながら、ちらっと俺を見上げた。


「ねえ、ヒロくん。今日はさ……もうちょっとだけ、一緒にいたい」


「まだ帰らないのか?」


「だって……なんか、まだ帰りたくない気分」


 しおりはちょっとだけ困ったように笑って、俺の袖をそっとつまんだ。


「いいよ。どこ行きたい?」


「うーん……寒いし、あんまり遠くは嫌。でも、歩きながら話したい」


「じゃあ、川沿いの遊歩道でも行くか」


「うん!」


 並んで歩く遊歩道。川の水面が、街灯の明かりを受けてゆらゆらと揺れている。寒さで頬がピリつくほどなのに、しおりの手のぬくもりがそれをすべて打ち消してくれる。


「……ヒロくん」


「ん」


「こうやって並んで歩くの、ほんとに好き」


「俺も。お前が横にいると、世界が静かに見える」


「詩人みたいなこと言うね」


「お前限定な」


「……あたしも、ヒロくん限定で甘ったれになるから」


 しおりはそう言って、小さく笑った。


 ふと、川辺にあるベンチが空いているのを見つけた。


「少しだけ座っていこうか」


「うん」


 ふたりで並んで座ると、しおりは俺の肩に寄りかかってきた。


「寒いね」


「俺のマフラー、半分使うか?」


「ほんと? ……じゃあ、もらう」


 ひとつのマフラーをふたりで巻く。距離が一気にゼロになる。


 頬が触れ合いそうなほど近くて、しおりの吐息が耳元で小さく震える。


「ねえ、ヒロくん……キス、してもいい?」


 言葉が落ちる前に、俺はそっとしおりの頬に手を添えていた。


 彼女はゆっくり目を閉じる。


 冬の冷たい空気の中で、ぬくもりだけが交差する一瞬。


 触れるだけのキス。それだけなのに、心の奥が溶けるようだった。


「……ありがとう」


「何がだよ」


「今日、こんなに幸せにしてくれて」


「俺のほうこそ、ありがとう」


 そのまましばらく、ふたりは肩を寄せ合って空を見上げていた。


 オレンジの空が、ゆっくりと群青に変わっていく。


 この日が終わってしまうのが惜しくて、俺はしおりの手をぎゅっと握り直した。


 しおりを家の前まで送ったあと、俺はそのまましばらく門の前に立っていた。


 彼女が「じゃあね、また明日」と手を振る瞬間まで、俺はその笑顔を一秒でも長く見ていたかった。


 帰り道、ポケットの中のスマホが震える。


 通知を見ると、しおりからのメッセージだった。


『今日のヒロくん、すごく優しかった。ずっとくっついてたくなったよ』


 すぐに返信する。


『俺も、ずっとくっついてたいと思ってた』


『じゃあ今度は、もっと長く一緒にいられる日つくろ?』


『作ろう。お前が望むだけ、俺は応えるから』


 既読がついた後、少し間を置いてからハートのスタンプが一つだけ返ってきた。


 布団に入っても、今日の余韻が身体に残っていて、なかなか眠れそうにない。


 だけどそれすら、幸せなことだと思えた。


 ──次に会える日が、もう待ち遠しい。

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