俺としおりが正式に付き合い始めてから、三週間が過ぎていた。
あれほど複雑だった白野との騒動も終わり、俺たちの関係はようやく「普通の恋人同士」というスタートラインに立っている。
でも、正直なところ、まだぎこちない。
学校で顔を合わせるときも、放課後に一緒に帰るときも、どこかで「これで合ってるのかな」という不安が頭の片隅にある。偽の恋人関係から始まった俺たちにとって、「本当の恋人らしさ」がどんなものなのか、まだ手探り状態だった。
「ヒロくん、今度の土曜日、空いてる?」
昨日の放課後、しおりがそう言ってきたとき、俺は思わず緊張した。
「え、ああ、空いてるけど……」
「じゃあ、普通のデートしない?」
「普通のデート?」
「うん。映画見て、ご飯食べて、ちょっとお買い物して……みんながしてるような、何でもないデート」
しおりの提案は、確かに「普通」だった。これまでの俺たちは、白野の件で振り回されたり、過去の問題を解決したりと、忙しなかったからな。
「いいな、それ」
「じゃあ、駅前のモールで待ち合わせしよ。十時くらいでどう?」
「分かった」
そして今日、土曜日の朝。
俺は九時半にはもう駅前にいた。早すぎる到着に自分でも呆れるが、どうしても落ち着かなくて、家にいられなかった。
今日のしおりは、どんな服を着てくるんだろう。いつもの制服姿しか知らない俺にとって、彼女の私服は未知の領域だった。
待ち合わせ場所の駅前広場で、俺はベンチに座ってスマホの時間を確認する。九時四十五分。まだ十五分もある。
周りを見回すと、俺と同じように待ち合わせをしているらしいカップルがちらほら見える。みんな自然に話しているのに、俺はひとりでそわそわしている。
情けないな、と思いながらも、やっぱり緊張は収まらなかった。
「ヒロくーん!」
聞き慣れた声に振り返ると、しおりが手を振りながら駆け寄ってくる。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
薄いピンクのワンピースに白いカーディガン。髪はいつもよりふんわりと巻いていて、小さなリボンのピアスが揺れている。可愛い、という言葉では足りないくらい、彼女は輝いて見えた。
「お、おはよう……」
「おはよう! 早く来すぎちゃった?」
「いや、俺のほうが早かったから……」
近づいてくるしおりから、ほのかに香水の匂いがした。甘くて優しい匂いに、また心臓が跳ねる。
「ヒロくんも、すごくかっこいいよ」
「え?」
「その服、似合ってる。ちょっと大人っぽい感じ」
俺は慌てて自分の服装を見下ろした。昨夜、クローゼットの前で一時間も悩んで選んだネイビーのカーディガンと白いシャツ。別に特別なものじゃないのに、しおりに褒められると急に特別に思えてくる。
「ありがとう……お前も、すごく可愛い」
「ほんと? 嬉しい」
しおりは満面の笑みを浮かべて、俺の腕にそっと手を添えた。
「じゃあ、行こっか」
「ああ」
並んで歩き始める。いつもの通学路とは違う、休日の街。少し肩が触れ合うくらいの距離で歩いていると、本当にデートをしているんだという実感が湧いてきた。
モールの入り口に着くと、しおりが俺を見上げた。
「ねえ、今日は何から始める?」
「しおりの好きなようにしていいよ」
「じゃあまずはお洋服見ない? ヒロくんにも似合いそうなの、探してみたい」
「俺に?」
「うん。彼氏のコーディネート、してみたいの」
その言葉に、また顔が熱くなった。「彼氏」という響きに、まだ慣れない自分がいる。
「分かった。付き合うよ」
「やった! じゃあ、あのお店から見てみよ」
しおりは嬉しそうに手を引いて、俺をモールの中へと導いていく。
これが俺たちの、初めての「普通のデート」の始まりだった。
モールの中は週末の賑わいで溢れていた。家族連れやカップル、友達同士のグループなど、様々な人たちが思い思いに買い物を楽しんでいる。
しおりが最初に向かったのは、若い女性向けのファッションブランドの店だった。色とりどりの服が並ぶ店内を見回しながら、俺は少し戸惑っていた。
「ヒロくん、こっち来て」
しおりに呼ばれて近づくと、彼女は男性向けのコーナーに立っていた。
「この色、ヒロくんに似合いそう」
手に取っているのは、落ち着いたグレーのニット。確かに悪くない色だと思う。
「試着してみない?」
「え、いや、俺は別に……」
「だめ。せっかくのデートなんだから、新しい一面を見せてよ」
しおりの熱心な眼差しに押し切られて、俺は試着室に向かった。
鏡の前でニットを着てみると、思っていたより悪くない。普段は無難な色ばかり選んでいたが、このグレーは顔色を明るく見せてくれる気がした。
「どう?」
試着室から出ると、しおりが待っていた。
「わあ、すごくいい! やっぱり似合う」
「そうか……?」
「うん、絶対に。その色、ヒロくんの雰囲気に合ってる」
しおりの嬉しそうな表情を見ていると、買わないという選択肢はなくなっていた。
「じゃあ、これにするよ」
「やった! 今度それ着て、また出かけよ」
会計を済ませながら、しおりは隣の女性向けコーナーを眺めていた。
「お前も何か見てみたら?」
「うーん、でも今日は見るだけでいいかな。ヒロくんのお買い物の方が楽しい」
「そんなこと言わずに……俺も、お前の服選び、手伝いたい」
その言葉にしおりの目がきらりと光った。
「ほんと? じゃあ、ちょっとだけ見てみる」
彼女が手に取ったのは、淡いブルーのブラウス。シンプルだが上品なデザインで、確かにしおりに似合いそうだった。
「それ、いいんじゃない?」
「ヒロくんがそう言うなら……でも、今日はやっぱりやめとく。今度一緒に選んでもらうから」
「分かった」
服を見た後、ふたりでアクセサリーコーナーを回った。キーホルダーやストラップが並ぶ棚を見ていると、しおりが小さく声を上げた。
「あ、これ可愛い」
手に取ったのは、月と星のモチーフがセットになったキーホルダー。月が青色、星が黄色で、どちらもパステルカラーの優しい色合いだった。
「お揃いにしない?」
「お揃い?」
「うん。ヒロくんが月で、あたしが星。どう?」
恥ずかしいような、でも嬉しいような複雑な気持ちになった。お揃いのものを持つなんて、カップルらしいことをするのは初めてだった。
「……いいんじゃない」
「やった! じゃあ決まり」
しおりは嬉しそうに月と星のキーホルダーを手に取り、レジに向かった。
「はい、ヒロくんの分」
月のキーホルダーを受け取りながら、俺はまた照れてしまった。
「ありがとう」
「こちらこそ。これで、いつでもお揃いだね」
自分のスマホに星のキーホルダーを付けるしおりを見ていると、なんだか胸の奥が温かくなった。
服屋を出てモールの通路を歩いていると、しおりが俺の腕に軽く寄りかかってきた。
「ねえ、次は何する?」
「映画でも見るか? 確か、面白そうなのやってたよな」
「映画! いいね。でも、何見る?」
「お前が見たいのでいいよ」
「じゃあ……恋愛映画、見てみたい」
恋愛映画、と聞いて俺は少し身構えた。正直、そういう映画は見慣れていない。でも、しおりが見たいと言うなら、付き合うつもりだった。
「分かった。行こう」
映画館のチケット売り場で、しおりは上映時間を確認しながら作品を選んでいた。
「これなんてどう? 『四二年の約束』って映画。評判いいんだって」
ポスターを見ると、桜の舞い散る中で手をつなぐカップルが描かれている。まさに恋愛映画という感じで、俺には縁遠い世界に思えた。
「……まあ、いいんじゃない」
「ありがとう。あたし、ヒロくんと一緒に見る初めての映画だから、記念になるの欲しかったの」
その言葉を聞いて、俺の心境も少し変わった。確かに、これは俺たちにとって記念すべき映画になる。
「じゃあ、それにしよう」
チケットを買って上映時間まで少し余裕があったので、ふたりでモール内のベンチに座って話をした。
「ヒロくん、映画好き?」
「そうだな……アクション映画とかは時々見るけど」
「恋愛映画は?」
「あんまり見たことない」
「そっか。じゃあ、今日が初体験ね」
しおりはくすくすと笑いながら言った。
「なんか、緊張するな」
「大丈夫。つまらなかったら途中で出てもいいから」
「いや、最後まで見るよ。お前が選んだ映画だし」
「嬉しい。ありがとう」
そうこうしているうちに、上映時間が近づいてきた。
「そろそろ行こうか」
「うん」
映画館の入り口で、しおりが俺の袖を軽く引いた。
「ねえ、ちょっと恥ずかしいけど……手、つないでもいい?」
その控えめな提案に、俺の心臓が跳ねた。
「……ああ、もちろん」
ゆっくりと手を差し出すと、しおりの小さな手が俺の手を包んだ。温かくて柔らかい感触に、映画が始まる前からドキドキが止まらなかった。
「じゃあ、行こう」
手をつないでシアターに向かう。これから二時間、この手をつないだまま映画を見ることになる。考えただけで、鼓動が早くなった。
でも、悪い気分じゃなかった。むしろ、初めて「恋人らしいこと」をしているという実感が、俺を嬉しくさせていた。
暗いシアターの中で、俺たちの新しい時間が始まろうとしていた。
シアター内は程よい暗さで、平日の昼間よりもずっと多くの観客がいた。俺としおりは中央やや後方の席に座り、手をつないだまま上映開始を待っていた。
予告編が始まると、しおりは俺の手をぎゅっと握った。
「楽しみ」
小さくささやく声が、俺の耳に届く。この距離の近さが、まだ新鮮で、心臓の音が聞こえそうなほどドキドキしていた。
本編が始まると、画面には桜並木を歩く男女が映し出された。大学生のカップルが主人公らしく、等身大の恋愛模様が丁寧に描かれていく。
正直、最初は「ちょっと甘すぎるかな」と思っていた。でも、見ているうちに段々と引き込まれていく。主人公の男性が恋人に対して不器用ながらも一生懸命な姿が、どこか俺自身と重なって見えたからかもしれない。
映画の中で、男性が女性の手を初めて握るシーンがあった。その瞬間、しおりの手にほんの少し力が入る。俺も無意識に握り返していた。
画面の中のカップルが初めてキスをするシーンでは、隣のしおりが小さくため息をついた。俺はつい横目でしおりの表情を盗み見る。彼女は画面に集中していて、時々微笑んだり、切ない表情を浮かべたりしていた。
そんなしおりの表情を見ていると、映画の内容よりもそちらの方が気になってくる。
―― 俺たちも、画面の中のカップルみたいになれるのかな。
そんなことを考えているうちに、映画はクライマックスに向かっていた。主人公たちが一度すれ違ってしまう展開に、しおりは俺の手をさらに強く握った。
「大丈夫、きっとうまくいくから」
俺が小さく声をかけると、しおりはこちらを向いて微笑んだ。暗闇の中でも分かるその笑顔に、また胸が締め付けられる。
最終的に主人公たちが再び結ばれるハッピーエンドに、しおりは安堵の表情を浮かべた。
「よかった……」
エンドロールが流れ始めると、しおりは俺の手を握ったまま振り返った。
「どうだった?」
「……思ってたより、良かった」
「でしょ? 恋愛映画も悪くないよね」
「ああ。ただ……」
「ただ?」
「映画より、隣にいるお前のことが気になって、集中できなかった」
正直に言うと、しおりの頬がほんのり赤くなった。
「もう、ヒロくんったら……」
「事実だよ」
「……あたしも、ちょっと同じこと思ってた」
「え?」
「映画のカップルより、ヒロくんとの距離の方がドキドキした」
その告白に、俺の方が照れてしまった。
シアターを出ると、明るいロビーの光に目を細める。手はまだつないだままだった。
なんとなく、手を離すタイミングを失っていた。でも、しおりも離そうとしていないようだったので、俺もそのままにしておく。
「次は何する?」
「お昼にしない? もうけっこう時間経ったし」
時計を見ると、もう十二時を回っていた。
「そうだな。何食べたい?」
「んー、ちょっと歩き回ったし、座ってゆっくりできるところがいいな」
「じゃあ、上の階にあるカフェはどう?」
「いいね! 行ってみよう」
手をつないだまま、エスカレーターで上の階に向かう。他のカップルたちも自然に手をつないでいるのを見て、俺たちもちゃんとカップルらしく見えているんだな、と実感した。