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第72話 普通のデート②

 目当てのカフェに着くと、予想以上に混雑していた。


「あー、けっこう並んでるね」


「他のとこにする?」


 しおりは少し考えてから答えた。


「うーん、でもせっかくだし……ちょっと待ってみない?」


「分かった」


 待つ間、俺たちは他愛のない話をした。映画の感想や、モールで見つけた気になるお店のことなど。手をつないでいるせいか、会話もいつもより自然に感じられた。


 ところが、十五分ほど待っても順番は回ってこなかった。


「うーん、思ったより時間かかりそうだね」


 しおりは申し訳なさそうに言った。


「別に急ぐことないよ」


「でも、ヒロくんお腹すいてない?」


 言われてみれば、確かに空腹を感じていた。でも、しおりが楽しみにしているなら待つつもりだった。


「フードコートでもいいよ。そっちの方が選択肢多いし」


「ほんと? でも、せっかくのデートなのに……」


「関係ないよ。お前と一緒なら、どこで食べても楽しい」


 その言葉に、しおりは嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。じゃあ、フードコートにしよっか」


 結局、俺たちはカフェを諦めてフードコートに向かった。でも、その判断は正解だったかもしれない。フードコートなら気軽に話せるし、何より、しおりが気を遣わずに済む。


「何食べよう?」


「お前の好きなものでいいよ」


「じゃあ……パスタとかどう?」


「いいね」


 イタリアンのお店で注文を済ませ、空いているテーブルに座る。ようやく手を離したが、向かい合って座ると、また違った緊張感があった。


「改めて見ると、ヒロくんって男らしい手してるね」


「そうか?」


「うん。あたしの手、すっぽり包まれちゃった」


 何気ない会話なのに、俺は顔が熱くなった。しおりは本当に、さらっとそういうことを言う。


「お前の手も……柔らかかった」


「ふふ、ありがと」


 料理が運ばれてくると、俺たちは並んで食事を始めた。フードコートの賑やかな雰囲気の中で、ふたりだけの時間を過ごす。意外と悪くない、と思った。


 この時は、これから起こる小さなトラブルを、俺はまだ知らなかった。


 フードコートで注文したパスタは、見た目以上にボリュームがあった。しおりはトマトベースのパスタ、俺はカルボナーラを選んでいた。


「おいしそう」


 しおりは嬉しそうにフォークを手に取り、パスタを巻き始めた。その仕草を見ていると、なんだか微笑ましくなる。


「一口ちょうだい」


「え?」


「ヒロくんのカルボナーラ、気になる」


 しおりの提案に、俺は少し戸惑った。間接キス、という言葉が頭をよぎる。でも、断る理由もない。


「……いいよ」


 フォークにパスタを巻いて、しおりの方に差し出す。彼女は迷わずそれを口に運んだ。


「おいしい! クリーミーで濃厚」


「そう言ってもらえると嬉しいよ」


「あたしのも食べてみて」


 今度はしおりが俺にトマトパスタを差し出してくる。さっき自分がしたことを、今度は彼女にされる。なんだか妙にドキドキした。


「……うん、こっちもおいしい」


「でしょ? 今度お家で作ってみようかな」


「お前、料理できるの?」


「一応ね。基本的なものなら。今度作ってあげる」


 手料理、という響きにまた胸が温かくなった。俺たちの関係は確実に進歩している。


 食事をしながら、俺たちは他愛のない話を続けた。好きな映画のジャンルや、子供の頃の思い出、将来の話など。こうして向かい合って話していると、しおりの新しい一面を発見できて楽しかった。


「そういえば、ヒロくんの趣味って何?」


「趣味? 特にこれといったものは……読書とか、たまにゲームするくらいかな」


「読書! どんな本読むの?」


「ミステリーが多いかな。推理小説とか」


「へえ、意外。もっと真面目な本ばっかり読んでるのかと思ってた」


「そんなことないよ。お前は?」


「あたしは雑誌が多いかな。ファッション雑誌とか。でも最近は恋愛小説も読むようになった」


「恋愛小説?」


「うん。今まで興味なかったんだけど、ヒロくんと付き合うようになってから、なんとなく読みたくなって」


 その言葉に、俺は照れてしまった。しおりが俺との関係を意識して読書の傾向まで変わっているということが、なんだか嬉しかった。


 食事も終盤になった頃、しおりが飲み物を取りに行くと言って席を立った。


「ちょっとジュース買ってくるね」


「俺も一緒に……」


「大丈夫、すぐ戻るから」


 そう言って、しおりは飲み物の自動販売機に向かった。俺は席に残って、彼女の後ろ姿を見ていた。


 しばらくして、しおりが戻ってきた。手には二つのペットボトルを持っている。


「お疲れさま」


「ありがとう」


 オレンジジュースを受け取りながら、俺はしおりの表情がどこか慌てているのに気づいた。


「どうした?」


「えっと……実は……」


 しおりは申し訳なさそうに俯いた。よく見ると、彼女のワンピースの胸元に小さなシミができている。


「飲み物こぼしちゃった……」


「ああ、それか」


 俺はほっとした。てっきり何か大変なことが起こったのかと思ったが、服が汚れただけなら大したことではない。


「ごめん、せっかくのデートなのに……」


「気にしなくていいよ。そんなの、誰にでもあることだし」


「でも……」


 しおりは本当に申し訳なさそうにしていた。彼女なりに、今日のデートを完璧にしたいと思っていたのかもしれない。


「おしぼりある?」


「うん」


 俺はおしぼりを受け取ると、しおりの前に立った。


「ちょっと失礼」


 そっと彼女の胸元のシミを拭き取る。至近距離での作業に、心臓がドキドキしたが、今は彼女をフォローすることの方が大切だった。


「ありがとう……」


「まだちょっと湿ってるけど、乾けば全然分からないよ」


「本当?」


「本当。心配しなくていい」


 俺の言葉に、しおりはようやく安心した表情を見せた。


「ヒロくんって、優しいね」


「そんなことないよ」


「ううん、優しい。こんなドジなあたしにも、怒らないで手助けしてくれる」


「怒るわけないだろ。お前のそういうところも含めて……」


 そこまで言いかけて、俺は慌てて口を閉じた。「好きだ」という言葉が出そうになったのだ。


「含めて?」


「……大切に思ってる」


 遠回しな表現だったが、しおりには伝わったようだった。彼女の頬がほんのり赤くなる。


「あたしも、ヒロくんのこと大切に思ってる」


 そんな会話を交わしながら、俺たちは食事を終えた。


 小さなトラブルだったが、それがかえって俺たちの距離を縮めてくれた気がした。完璧なデートよりも、こういう自然体の時間の方が、俺たちらしいのかもしれない。


「次はどこ行く?」


「そうだな……ゲームセンターでもいくか?」


「ゲームセンター?」


 しおりは少し意外そうな顔をした。


「嫌だった?」


「ううん、全然。でも、ヒロくんがゲームセンター好きだなんて知らなかった」


「まあ、たまに行くくらいだな。好きなの取ってやるよ」


 思わず格好つけて言ってしまった。実際のところ、俺もUFOキャッチャーは得意ではない。でも、しおりのために頑張ってみたかった。


「ほんと? 期待してもいい?」


「任せろ」


 内心では不安だったが、しおりの嬉しそうな表情を見ていると、やる気が湧いてきた。


 モールの最上階にあるゲームセンターは、平日とは打って変わって多くの客で賑わっていた。カップルや友達同士、家族連れなど、様々な人たちがゲームを楽しんでいる。


「わあ、けっこう広いんだね」


 しおりは興味深そうに店内を見回していた。音楽ゲームやシューティングゲーム、クレーンゲームなど、所狭しと並ぶゲーム機に目を輝かせている。


「何からやる?」


「やっぱりUFOキャッチャーかな」


 約束通り、俺たちはまずクレーンゲームコーナーに向かった。ぬいぐるみや雑貨、お菓子など、様々な景品が並んでいる。


「どれがいい?」


 しおりは少し悩んでから、小さなくまのぬいぐるみを指差した。


「あれ、可愛い」


 薄いピンク色のくまで、確かに可愛らしい。位置的にも、それほど難しくなさそうに見えた。


「分かった。取ってみる」


 百円玉を投入し、クレーンを操作する。最初の一回目は、惜しくも失敗。くまは少し動いたが、落下口まで届かなかった。


「惜しい!」


 しおりが応援してくれる。その声援に背中を押されて、もう一度挑戦する。


 二回目、三回目と続けるうちに、くまは少しずつ落下口に近づいていく。でも、なかなか最後の一押しが決まらない。


「うーん、意外と難しいな」


「大丈夫、ヒロくん頑張って」


 四回目、五回目……気がつくと、もう五百円も使っていた。さすがに申し訳なくなってくる。


「ごめん、思ったより苦戦してる」


「全然気にしないで。見てるだけでも楽しいから」


 しおりの優しい言葉に励まされて、もう一度挑戦する。


 六回目。今度こそと思って慎重にクレーンを操作すると、ついにくまが落下口に落ちた。


「やった!」


「すごい! ヒロくん!」


 しおりは手を叩いて喜んでくれた。その嬉しそうな表情を見ていると、六百円使った甲斐があったと思えた。


「はい、どうぞ」


 取れたくまのぬいぐるみをしおりに渡すと、彼女は大切そうに抱きしめた。


「ありがとう。すごく嬉しい」


「よかった」


「このくまちゃん、『ヒロくん』って名前にしよう」


「恥ずかしいからやめてくれ」


「やだ、絶対そうする」


 しおりはくすくす笑いながら、ぬいぐるみをバッグにしまった。


「次は何やる?」


「しおりが好きなのをやってみたら?」


「じゃあ……あれやってみない?」


 しおりが指差したのは、リズムゲームの筐体だった。画面には可愛いキャラクターが踊っていて、音楽に合わせてボタンを押すゲームのようだった。


「お前、そういうの得意?」


「ちょっとね。やってみる」


 しおりは自信ありげに筐体の前に立った。コインを入れて、曲を選ぶ。選んだのは、アップテンポなポップスだった。


 ゲームが始まると、しおりの指が軽やかにボタンを叩いていく。リズムに合わせて体も自然に動いていて、見ていて気持ちがよかった。


「すげえ……」


 俺は思わず声に出していた。しおりのプレイは、思っていた以上に上手だった。難しそうな譜面を、まるで楽しそうにこなしていく。


 最終的に、ハイスコアを出して終了した。


「どうだった?」


「すごいじゃん。全然知らなかった」


「ふふ、意外でしょ? 実は音ゲー、けっこう好きなの」


 普段のしおりからは想像できない一面を見ることができて、俺は嬉しくなった。まだまだ知らないことがたくさんあるんだな、と思った。


「ヒロくんもやってみない?」


「俺は無理だよ。今の見てたら、とてもじゃないけど……」


「大丈夫、簡単な曲から始めれば。一緒にやろう?」


 しおりの誘いを断ることはできなかった。


「分かった。でも、恥ずかしくても責任取れないぞ」


「ふふ、大丈夫。失敗しても可愛いから」


 俺は隣の筐体に立ち、同じ曲の簡単バージョンを選んだ。しおりは俺の様子を見ながら、優しくアドバイスをしてくれる。


「そうそう、リズムに合わせて」


「むずかしいな、これ」


「慣れよ慣れ。ほら、もう少し力抜いて」


 最初はぎこちなかったが、だんだんコツを掴んできた。しおりと一緒にプレイしていると、うまくできなくても楽しかった。


 その後、俺たちは格闘ゲームにも挑戦した。これは俺の方が得意だったので、今度は俺がしおりに教える番だった。


「ボタンはこれとこれを同時に押して……」


「えーっと、これ?」


「そうそう。で、レバーをこう動かすと必殺技が出る」


「むずかしい……でも面白い」


 お互いに得意なゲームを教え合っているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。


 最後に、ふたりでエアホッケーをやった。これは完全に初心者同士の戦いで、パックがテーブルの上を予想もつかない方向に飛び回る。


「あー、入っちゃった」


「やった、1点」


「くやしい、もう一回」


 勝負よりも、一緒に笑っていることの方が楽しかった。


 ゲームセンターを出る頃には、もう夕方近くになっていた。


「楽しかったね」


「ああ。お前の意外な一面が見れて良かった」


「ヒロくんもゲーム上手だったよ。教えるのも上手だったし」


「そうかな」


「うん。今度また一緒に来よう」


「いいな、それ」


 ふたりでモールの外に出ると、西日が長い影を作っていた。


「もう夕方かあ」


「時間経つの早いな」


「でも、まだ帰りたくない」


 しおりのその言葉に、俺も同じ気持ちだった。


「じゃあ、もう少しどこか散歩でもする?」


「うん、しよう」


 俺たちは手をつないで、近くの公園に向かった。今日一日で、俺たちの距離は確実に縮まった気がしていた。


 モールから歩いて十分ほどのところにある市民公園は、夕方の穏やかな空気に包まれていた。ジョギングをする人や犬の散歩をする人、ベンチで読書をする人など、思い思いに時を過ごしている。


「ここ、初めて来た」


「俺もたまにしか来ないけど、夕方は特にいい感じなんだ」


 芝生の上を歩きながら、俺たちは池のほとりのベンチに向かった。池には数羽のカモが泳いでいて、時々水面を乱している。


「疲れない?」


「全然。でも、ちょっと座ろうか」


 ベンチに並んで座ると、夕日が池の水面にオレンジ色の光を投げかけていた。


「きれいね」


「そうだな」


 しばらく無言で夕景を眺めていた。一日中話していたのに、この静寂も心地よかった。


「ねえ、ヒロくん」


「ん?」


「今日、すごく楽しかった」


「俺も」


「映画も、ゲームセンターも、全部新鮮だった。特に、ヒロくんといろんなことができて」


 しおりは膝の上に置いたバッグから、さっきのくまのぬいぐるみを取り出した。


「このくまちゃんを見るたび、今日のこと思い出すと思う」


「そんな大げさな……」


「大げさじゃないよ。あたし、今日みたいな日がずっと続けばいいなって思う」


 しおりの素直な言葉に、俺の胸も温かくなった。


「俺もそう思う。でも……」


「でも?」


「毎回同じじゃつまらないだろ。今度は違うところに行こう」


「どこ?」


「まだ決めてないけど、お前が行きたいところがあったら言ってくれ」


「うーん……水族館とか行ってみたい」


「水族館か。いいな」


「あ、それか遊園地も」


「遊園地? お前、絶叫系大丈夫?」


「わからない。でも、ヒロくんと一緒なら平気かも」


 その言葉に、また照れてしまう。しおりは本当に、何気なく俺をドキドキさせることを言う。


「分かった。今度調べてみる」


「やった」


 そんな話をしているうちに、空の色は徐々にオレンジから紫へと変わっていった。


「そろそろ帰ろうか」


「うん」


 立ち上がろうとした時、しおりが俺の袖を軽く引いた。


「あの……お疲れさまのハグ、してもいい?」


「ハグ?」


「映画で見たの。カップルが一日の終わりにハグするシーン」


 公園にはまだ何人か人がいたが、夕暮れの薄明かりもあって、そこまで人目につくこともないだろう。


「……いいよ」


 俺は恥ずかしながらも腕を開いた。しおりは嬉しそうに俺の胸に顔を埋めた。


 彼女の柔らかい髪に頬が触れて、香水のほのかな匂いが鼻をくすぐる。この距離の近さに、心臓が早鐘を打った。


「あったかい」


 小さくつぶやくしおりの声が、胸元に響く。


「お前もあったかいよ」


 数秒間のハグだったが、とても長く感じられた。離れる時、しおりの頬がほんのり赤くなっているのが見えた。


「ありがとう」


「こちらこそ」


 手をつないで公園を後にする。夜が近づいてきて、街灯がぽつぽつと点き始めていた。


「今日は本当に楽しかった」


「俺も。こんなに充実した一日は久しぶりだった」


「また明日から学校だね」


「そうだな。でも、今度は恋人同士として普通に会えるのが嬉しい」


「普通に、か。あたしたち、やっと普通のカップルになれたのかな」


「なれたんじゃない? 今日みたいな日を過ごせるなら」


 しおりは満足そうに微笑んだ。


「そうだね。じゃあ、これからもっといろんなところに行こう」


「ああ、約束する」


 駅に向かう道すがら、俺たちは今日の思い出を振り返りながら歩いた。大きな出来事は何もなかったけれど、それが却って良かった。普通の恋人として普通にデートする。それがこんなにも幸せなことだとは思わなかった。


 駅前に着いた時、俺は少し寂しさを感じていた。楽しい時間が終わってしまうのが惜しかった。


 駅前の人込みの中で、俺としおりは改札の前に立っていた。ここで電車の方向が分かれるため、お別れの時間だった。


「今日は本当にありがとう」


 しおりは両手でバッグのストラップを握りながら言った。


「こちらこそ。楽しかった」


「ヒロくんにくまちゃん取ってもらったり、一緒にゲームしたり……全部初めてのことばかりで、すごくドキドキした」


「俺も同じだ。お前と過ごした時間、全部が新鮮だった」


 周りには同じように別れを惜しむカップルがちらほらいて、俺たちも自然にその輪の中にいるような気がした。


 しおりは安心したように微笑んだ。でも、まだ何か言いたげな表情をしている。


「どうした?」


「えっと……あの……」


 珍しく言いよどむしおりを見て、俺はなんとなく彼女が何を望んでいるのか分かった気がした。


 今日一日、手をつないだり、ハグをしたりはしたけれど、まだしていないことがひとつある。


 俺は思い切って、しおりの肩に手を置いた。


「しおり」


「え?」


 名前を呼ばれて、しおりは顔を上げた。その瞬間、俺は彼女の頬にそっと唇を寄せた。


 軽く、でも確実に。頬にキスをした。


 しおりは目を見開いて、それから嬉しそうに頬を押さえた。


「ヒロくん……」


「今日のお礼」


「お礼って……」


「素敵な一日をありがとう、っていう意味」


 俺の言葉に、しおりの目が潤んだ。


「あたしの方こそ、ありがとう。今日は最高の日だった」


「良かった」


 改札の向こうから電車のアナウンスが聞こえてきた。そろそろ時間だった。


「じゃあ、また明日」


「うん、また明日」


 最後にもう一度手を握り合ってから、俺たちはそれぞれの電車に向かった。


 電車の中で、俺は今日一日を振り返っていた。映画館での手つなぎ、ランチでの小さなトラブル、ゲームセンターでのお互いの意外な一面、夕暮れの公園でのハグ、そして最後のキス。


 どれも小さな出来事だったけれど、すべてが俺たちにとって大切な思い出になった。


 ポケットの中の月のキーホルダーを触りながら、俺は次のデートのことを考え始めていた。今度はどこに行こうか。水族館もいいし、遊園地も楽しそうだ。


 でも何より、またしおりと一緒に過ごせることが嬉しかった。


 電車が俺の最寄り駅に着く頃、スマホに通知が届いた。


『今日は本当に楽しかった。くまちゃんと一緒にお家帰ります!』


 メッセージと一緒に、くまのぬいぐるみを持ったしおりの写真が送られてきていた。


 俺も返信する。


『俺も楽しかった』


 送信してすぐに既読がついて、ハートのスタンプが返ってきた。


 家に帰る道すがら、俺は空を見上げた。星がいくつか見えて、今日という日を静かに見守ってくれているような気がした。


 これが俺たちの最初の「普通のデート」だった。大きな事件も、ドラマチックな展開もなかったけれど、それが却って俺たちらしくて良かった。


 明日からまた日常が始まる。でも、今度は本当の恋人同士として。その事実が、俺を幸せな気持ちで満たしていた。


 月のキーホルダーが街灯の光に小さく光って、今日の思い出を静かに物語っていた。

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