俺と水原しおりが正式に付き合い始めてから、約一ヶ月が過ぎていた。
俺たちの関係は確実に前に進んでいる。でも、まだまだぎこちない部分も多くて、時々「恋人らしいことって、どんなことなんだろう」と考えてしまう。
金曜日の放課後。いつものように一緒に帰る道すがら、しおりがふと立ち止まった。
「ねえ、ヒロくん」
「ん?」
「あたしたち、付き合ってるけどまだ恋人らしいことって、あんまりしてないよね」
その言葉に、俺はちょっと戸惑った。確かに、手をつなぐのもまだ慣れないし、二人でいる時間も学校の行き帰りが多かった。
「恋人らしいことって、たとえば?」
「うーん……テレビとか映画で見るカップルがしてることかな。プリクラ撮ったり、膝枕したり、ずっと手をつないで歩いたり」
しおりは少し照れながら指を数えた。
「なんか、そういうの一度はやってみたくない? 恋人の特権っていうか……」
「別に、無理してやることでもないんじゃないか?」
「そうかもしれないけど……でも、ちょっと気になるの。あたしたち、どこまで恋人らしくなれるのかなって」
しおりの素直な言葉に、俺も興味を持ち始めた。確かに、普通のカップルがすることを一通り体験してみるのも悪くない。
「じゃあ、今度の休日にでもやってみるか?」
「ほんと?」
「ああ。やりたいことリストアップしてくれれば、それに付き合うよ」
しおりの顔がぱっと明るくなった。
「やった! じゃあ、『恋人チャレンジデー』にしよう」
「恋人チャレンジデー?」
「うん。一日かけて、恋人らしいことを一つずつチャレンジしてみるの」
なんだか大げさな名前だが、しおりの嬉しそうな表情を見ていると、断る理由もなかった。
「分かった。じゃあ、明日計画立てよう」
「うん! すっごく楽しみ」
その夜、俺はベッドの上で天井を見つめながら考えていた。恋人らしいこと、か。正直、まだよく分からない部分も多いけれど、しおりと一緒なら きっと楽しい一日になるだろう。
スマホが震えて、しおりからメッセージが届いた。
『今日はありがとう。明日のチャレンジリスト考えてる♪』
俺も返信する。
『俺も楽しみにしてる。でも、無理はしなくていいからな』
『大丈夫! ヒロくんと一緒なら何でもできる気がする』
そのメッセージを読んで、俺も少し勇気が湧いてきた。明日はどんな一日になるんだろう。
土曜日の朝。俺は約束の時間より十分早く駅に着いていた。今日のしおりは、どんなチャレンジを用意してくるんだろう。考えるだけで、緊張と期待が入り混じった気持ちになる。
「ヒロくーん!」
振り返ると、白いブラウスに薄いピンクのスカートを着たしおりが手を振りながら駆け寄ってくる。今日の彼女は、いつもより少し気合が入った服装をしている気がした。
「おはよう。今日はよろしくお願いします」
そう言って、しおりは丁寧にお辞儀をした。
「そんなかしこまらなくても……」
「だって、今日は特別な日だもん。『恋人チャレンジデー』だよ」
改めて聞くと、やっぱり恥ずかしい名前だった。でも、しおりの真剣さが伝わってきて、俺も気を引き締めることにした。
「で、今日はどんなチャレンジを?」
「えっとね……」
しおりは小さなメモ帳を取り出した。几帳面に書かれたリストには、「手つなぎ」「お互いの好きなもの話」「プリクラ」「膝枕」「お参り」「ハグ」と項目が並んでいる。
「こんな感じでどうかな?」
「……膝枕?」
「だ、だめ?」
「いや、だめじゃないけど……」
正直、人前で膝枕は恥ずかしい。でも、しおりがここまで考えてくれたなら、頑張ってみようと思った。
「分かった。全部やってみよう」
「ほんと? やった!」
しおりは嬉しそうにメモ帳をしまった。
「じゃあ、まずは第一のチャレンジから始めよう」
「第一のチャレンジ?」
「手つなぎ。今日は最初から最後まで、ちゃんと手をつないで歩いてみる」
言われてみれば、俺たちはまだ自然に手をつなぐことができていない。いつも恥ずかしくて、気がつくと離してしまっている。
「やってみよう」
俺は勇気を出して、しおりに手を差し出した。彼女も少し照れながら、俺の手を握り返す。
「……あったかい」
「お前もな」
そうして、俺たちの「恋人チャレンジデー」が始まった。
手をつないで駅の改札を抜ける時、俺は周りの視線が気になって仕方なかった。別に誰も俺たちを見ているわけではないのに、やけに意識してしまう。
「緊張してる?」
しおりが俺の顔を覗き込んできた。
「ちょっとな。まだ慣れない」
「あたしも。でも、だんだん慣れるよ、きっと」
電車の中でも、俺たちは手をつないだままだった。座席に並んで座り、つないだ手を膝の上に置く。こうしていると、確かに恋人らしい感じがする。
「ねえ、今度はどこ行く?」
「まずはカフェかな。ゆっくり話せるところがいい」
「うん、いいね」
電車が揺れるたび、つないだ手にほんの少し力が入る。最初は意識的だったが、だんだん自然になってきた。
目的の駅に着いて電車を降りる時、俺たちは手を離そうとして、でも離さずにそのまま歩き続けた。
「あ、手離さなかった」
「そうだな」
しおりが嬉しそうに笑う。確かに、さっきまでは電車を降りる時に自然と手を離していたのに、今回は意識せずにつないだままでいられた。
「進歩してる?」
「してると思う」
駅から歩いて五分ほどのところにある、こじんまりとしたカフェに向かう。土曜日の午前中ということもあって、街には穏やかな空気が流れていた。
「あ、あそこのお店可愛い」
しおりが指差した雑貨屋の前で、俺たちは少し立ち止まった。ショーウィンドウに並ぶ小物たちを眺めながら、何気ない会話をする。
「今度、あそこも覗いてみたいね」
「いいな。お前の好みがもっと分かりそうだ」
「ヒロくんは、あたしの好みどう思う?」
「可愛いものが好きで、色は淡い色を選ぶことが多い。あと、実用性より見た目重視」
「えー、そんなにバレバレ?」
「お前の持ち物見てたら分かるよ」
しおりは少し恥ずかしそうに笑った。
そんな風に話しながら歩いていると、手をつないでいることが当たり前のように感じられてきた。これが慣れるということなんだろう。
「着いた」
目当てのカフェは、アンティーク調の内装で落ち着いた雰囲気だった。窓際の二人掛けテーブルに案内されて、俺たちはようやく手を離した。
「お疲れさま、手つなぎチャレンジ」
「お疲れさま」
互いに手を見つめて、小さく笑い合う。
「どうだった?」
「思ったより、すぐ慣れた」
「でしょ? 最初はドキドキしたけど、だんだん自然になったよね」
確かに、最初の緊張が嘘のように、最後の方は普通に手をつないで歩けていた。
「次のチャレンジは?」
「お互いの好きなものについて話すこと。恋人同士なら、相手の好みをもっと知ってるべきでしょ?」
「なるほど」
メニューを見ながら、俺は少し考えた。確かに、まだしおりについて知らないことはたくさんある。今日はそれを聞く良い機会かもしれない。
「じゃあ、注文してからゆっくり話そう」
「うん。何頼む?」
「俺はブレンドコーヒーで。お前は?」
「カフェラテにしようかな。あ、ケーキセットにする?」
「いいね。シェアしよう」
注文を済ませて、俺たちは向かい合って座った。手をつないでいない今、少し距離を感じるのが不思議だった。
「じゃあ、まずは好きな食べ物から聞かせて」
「えーっと、甘いものが好きなのは知ってるでしょ?」
「ああ。他には?」
「意外かもしれないけど、辛いものも好きなの。激辛料理とか、けっこう平気」
「え、そうなの?」
これは意外だった。しおりの見た目からは想像できない。
「今度一緒に韓国料理食べに行こうよ」
「いいな、それ」
運ばれてきたコーヒーとケーキを前に、俺たちの「好きなもの」について語る時間が始まった。普段は話さないような小さなことまで、今日は特別に話してみることにした。
イチゴショートケーキを半分ずつに分けて、俺たちは向かい合って座った。カフェの中は適度に静かで、ゆっくり話をするのにちょうどいい雰囲気だった。
「じゃあ改めて、好きなもの聞かせ合いっこしよう」
しおりはコーヒーカップを両手で包みながら言った。
「何から話す?」
「うーん、好きな音楽とか?」
「音楽か……俺、そんなに詳しくないけど」
「大丈夫。詳しくなくても、何となく好きな感じとかあるでしょ?」
確かに、特別音楽に詳しいわけではないが、好みはある。
「ロックとかポップスかな。激しすぎないやつ」
「へえ、どんなアーティスト?」
「えーっと……」
具体的な名前を挙げようとして、俺は困った。普段はなんとなく聞いているだけで、アーティスト名までちゃんと覚えていない。
「あー、俺って意外と音楽のこと知らないかも」
「ふふ、可愛い。じゃあ今度一緒に好きな曲探そ」
「それはいいな」
しおりの提案に、俺は素直に嬉しくなった。一緒に音楽を探すなんて、確かに恋人らしいことかもしれない。
「しおりは?」
「あたしはJ-POPが好き。特に恋愛の歌」
「やっぱりって感じだな」
「やっぱりって何さ」
しおりは少し頬を膨らませて抗議した。
「いや、お前らしいなって思っただけ」
「もう、ひどい」
でも彼女は笑っていた。こういう他愛のないやりとりが、なんだか自然で心地よい。
「じゃあ、好きな本とか?」
「本……あたし、そんなに読まないかも」
「そうなの?」
「雑誌は読むけど、小説とかはたまにしか。ヒロくんは読書家だよね」
「まあ、好きな方かな」
「どんな本読むの?」
「ミステリーが多いかな。推理小説とか」
「へえ、難しそう」
「慣れれば面白いよ。犯人を推理しながら読むのが楽しい」
「今度、初心者でも読みやすいのおすすめして」
「いいよ。お前が読めそうなやつ選んでみる」
そんな風に話していると、時間があっという間に過ぎていった。好きな色、好きな季節、好きな食べ物、子供の頃の思い出……普段は話さないような小さなことも、今日は特別に話してみた。
「意外と知らないことばっかりだったね」
「そうだな。まだまだお互いのこと、分からないことだらけだ」
「でも、それって楽しいかも。これから少しずつ知っていけるんだもん」
しおりの前向きな言葉に、俺も同じ気持ちになった。確かに、相手のことを知っていく過程も、恋愛の楽しみの一つなのかもしれない。
「そろそろ次のチャレンジに行く?」
「そうだね。次は……プリクラ」
「プリクラか」
正直、プリクラは俺にとって未知の領域だった。でも、しおりが楽しみにしているなら、頑張ってみよう。
「大丈夫? 嫌だったら……」
「嫌じゃない。ただ、うまくできるかどうか」
「大丈夫、あたしが教えてあげる」
カフェを出て、再び手をつなぐ。今度は最初からスムーズに手を重ねることができた。
「やっぱり、手つなぎは成功だったね」
「ああ。もう慣れた」
確かに、もう手をつなぐことに特別な緊張は感じなくなっていた。これも一つの成長だろう。
ゲームセンターに向かう道すがら、俺はプリクラについて少し不安になっていた。でも、しおりと一緒なら、きっと楽しい思い出になるはずだ。
ゲームセンターの一角にあるプリクラコーナーは、色とりどりの機械が並んでいて、女子高生のグループが楽しそうに撮影している。俺は明らかに場違いな感じがして、少し腰が引けてしまった。
「大丈夫?」
しおりが俺の表情を見て心配そうに声をかけてきた。
「ああ、ちょっと緊張してるだけ」
「あたしも実は緊張してる。男の子と一緒にプリクラ撮るの、初めてだから」
その言葉を聞いて、俺は少し安心した。しおりも初めてなら、お互い様だ。
「どの機械にする?」
「えーっと……」
しおりは機械の前を歩きながら、サンプル写真を確認している。どれも似たように見える俺には、違いがよく分からなかった。
「これなんてどう? 背景が可愛いし、美肌効果もあるって」
「美肌効果?」
「うん、肌がきれいに映るの。男の子にもいいと思う」
「お前に任せる」
お金を入れて、いよいよ撮影開始。狭いボックスの中で、俺たちは並んで立った。
「えーっと、まずは普通に並んで撮ろう」
しおりの指示に従って、俺は彼女の隣に立つ。カメラの位置を確認して、姿勢を正す。
「はい、チーズ!」
パシャッという音と共に、フラッシュが光った。
「次は……ちょっとポーズつけてみない?」
「ポーズ?」
「えーっと、Vサインとか?」
言われるままに、俺は照れながらVサインをした。しおりも同じようにVサインをして、今度は笑顔で撮影。
「今度は……」
何枚か撮影しているうちに、だんだん緊張がほぐれてきた。しおりの楽しそうな表情を見ていると、俺も自然に笑顔になれる。
「最後は、ちょっと近づいて撮ろう」
「近づいて?」
「こんな感じ」
しおりは俺の腕に軽く寄りかかってきた。急に距離が縮まって、心臓がドキドキする。
「これでいい?」
「ああ……」
最後の一枚は、二人が寄り添った形で撮影された。終了音が鳴って、俺たちはボックスから出た。
「次は落書きタイム」
「落書き?」
「写真に文字とかスタンプとか入れるの」
隣の編集スペースに移動して、さっき撮った写真がモニターに表示された。
「うわ、俺の顔……」
「可愛く映ってるよ。ほら、美肌効果」
確かに、普通に写真を撮った時より肌がきれいに見える。プリクラの技術はすごいものだ。
「何か文字入れる?」
「えーっと……日付とか?」
「いいね。『恋人チャレンジデー』って入れよう」
しおりが器用にタッチペンを使って文字を書いていく。俺も見よう見まねで、小さなハートのスタンプを押してみた。
「上手じゃん」
「これくらいなら」
編集作業も、しおりと一緒だと楽しかった。二人で画面を覗き込みながら、あれこれ相談する時間が、なんだか特別に感じられる。
「完成!」
数分後、プリクラが印刷されて出てきた。シールになった写真を見て、俺は少し照れてしまった。
「記念すべき初プリクラ」
「そうだな」
「半分こしよう」
しおりがプリクラシールを器用に半分に分けて、俺に渡してくれた。
「ありがとう」
「こちらこそ。楽しかった」
財布にプリクラシールをしまいながら、俺は今日という日の特別さを実感していた。こんな小さなことでも、しおりと一緒だと大切な思い出になる。
「次のチャレンジは?」
「膝枕」