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2-1 あの日、君に・・・。


 幼い頃。霊障の影響を受けやすい体質のせいか、なにかに取り憑かれてしまったり、何日も高熱で寝込んでしまうことが多々あった。


 それを心配した母が丞相に相談したところ、ひと月だけあるひとの許で修練をすることになった。それが、あの子との出会いのきっかけ。


 華峰ファフォン山。神仙が住んでいると噂される場所。どうやら噂は本当だったようで、連れられて行った先で、彼らに出会った。


 華峰ファフォン山の頂上に質素な居を構え、その神仙は幼い子どもとふたりで生活しているのだという。彼の後ろに隠れているその子は、まるで女の子のようだったが、どうやら男の子らしい。


 自分よりも三歳年下のその子は、道士になるために修行中なんだとか。まだ七歳なのに厳しい修行に耐えているなんて、自分とは住むセカイが違うのだろう。


 第三皇子として甘やかされて育った皓懍ハオリェンは、こんな場所でひと月も生きていけるか不安になった。周りは谷や瀧や林ばかり。食べ物も最小限しかなく、もちろんお菓子なんてあるはずもない。


 あの体質がここで過ごすことで治るならと期待もしているが、修練っていったいどんなことをするんだろう。


「この方が皓懍ハオリェン様だ。話した通り少し厄介な体質でな。どうにかして治して欲しいというのが麗思リースー様の要望だ。まあ、この山は神聖な場所だし、聖なる気で内功を満たせば良くなるのではないかと。物は試しというやつだが、やってみる価値はありそうだ」


「そうですね。その体質は気の流れも関係していそうですから、改善されることを期待しましょう」


 皓懍ハオリェンの横で丞相がここに来た目的を話していた。不老不死といわれる神仙を目の前にして気さくに話している丞相。知り合いというのは本当らしい。


「はじめまして、皓懍ハオリェン。私は嗚嵐ウーラン。この華峰ファフォン山に住む神仙です。少しの間ですが、あなたの師として修練の手伝いをさせていただきます。あ、この子は私の弟子の暁玲シャオリンです」


「はじめまして、です」


 暁玲シャオリンという名のその子は、嗚嵐ウーランの後ろに隠れたままこちらを窺うように挨拶をしてきた。皇子である皓懍ハオリェンはそのような雑な挨拶をされたのははじめてで、逆に新鮮だった。


皓懍ハオリェンだ。嗚嵐ウーラン様、暁玲シャオリン、ひと月の間ではあるがよろしく頼む」


 嗚嵐ウーランを敬うのは必要かと思うが、皇子としてのふるまいに慣れていたこともあり、簡易的な拱手礼をしながら挨拶を交わした。それに対して嗚嵐ウーランは特になにか言うでもなく、「こちらこそです」と穏やかな笑みを浮かべてくれた。


 白髪なのに見た目はそれに反してだいぶ若く、二十代後半くらいの青年のように見えるが、やはりまとっている雰囲気は神秘的。王宮でも稀にみるほどの眉目秀麗な面立ちも、どこか浮世離れしている気がする。


「では皓懍ハオリェン様、私はこれで失礼します。ひと月後に迎えに参りますので、怪我などなさいませんように、お気を付けてお過ごしください」


 丞相は挨拶もそこそこにして、去って行った。麓で待機させている護衛官や従者たちと共に王宮に戻るのだろう。彼は忙しい身だ。皓懍ハオリェンには従者もなく、自分のことは自分でするしかない環境に置かれることとなる。


 この山は神聖な場所であり、嗚嵐ウーランの領域。ここではこの神仙のいうことが絶対となる。故に、部外者は立ち入れない決まりらしい。


暁玲シャオリン、必要なことは君が彼に教えてあげてくださいね? 一応先輩という立場になるわけですから」


「は、はい、です」


 ぱっと嗚嵐ウーランの道袍の裾からようやく手を離し、その子は変に緊張しているのかカチコチと挙動が不自然で固い。人見知りというよりは、自分が皇子だから接し方に不安があるのかもしれない。


暁玲シャオリン、ここでは君の方が師兄なんだろう? 私のことは師弟として気軽に接してくれてかまわない」


 師に対して先に入門した方が師兄、その後で入った方は師弟となる。それくらいは事前に学んでいた。道士には門派というものもあるそうで。そこには年齢や身分などは関係ないということも知った。


「ええっと····では、わたしはなんとお呼びすれば良いですか?」


 しかし暁玲シャオリンは全然気軽に接してくれなかった。それがなんだか可愛らしくて、思わず笑みが零れる。大きな瞳は珍しい翠眼。まだ幼いからかもしれないが、やはりどう見ても女の子にしか見えない。


 それは彼の亜麻色の柔らかそうな髪の毛のせいかもしれないし、そもそもの立ち振る舞いのせいかもしれない。


皓懍ハオリェンでいい。お互いに名で呼ぶことにしよう」


 師兄と呼ぶのもなにか違和感があるし、この子もそう呼ばれることに慣れていないようだ。だったら同じ師の許で学ぶ弟子として、同等の存在になるのが良いのかもしれないと思った。


「······皓懍ハオリェン、」


 そう確かめるように呟いただけなのに、なんだかこそばゆい気持ちになる。


 王宮で自分の名を呼び捨てにするのは、父である皇帝陛下や母、あとはふたりの兄たちくらいだった。ほとんどの者たちが『皓懍ハオリェン様』とか『皇子様』と呼ぶ。同じくらいの歳の子たちもだ。


 だから暁玲シャオリンが音にして自分の名を呼んだ時から、胸の奥がざわざわと落ち着かない。


(····なんだろう。この変な感覚······まるで、)


 まるで、恋でもしているかのような?


(いやいや。だってこの子は、確かにものすごく可愛いらしいけれど男の子!)


 それにここに来た目的は自分の厄介な体質を治すためであって、遊びに来たわけではない!


 皓懍ハオリェンはぶんぶんと首を振って気を取り直し、じっと見つめてくる暁玲シャオリンに対して苦笑いを浮かべた。


「ふたりとも、修練は明日からにして、今日は探検でもしましょうか」


 嗚嵐ウーランがにこにことしながら、ふたりに提案する。探検? と暁玲シャオリンは首を傾げ、皓懍ハオリェンはその響きに琥珀色の瞳を輝かせた。広い王宮を探検するのが趣味である皓懍ハオリェンにとって、この未知の場所を散策するのは楽しみしかなかった。


 幼い頃の、ほんのひと月だけの思い出。

 忘れることなどない、淡い思い出。


 君に送った簪。

 紫菀しおんの花飾りが付いた簪は、今も君の髪を彩っているのだろうか。

 時折、夢の中で出逢える君は、あの時のまま。


 約束をした。

 大人になったら逢いに行くと。


(····れ、ない······忘れたく、ない、のに····、)


 ああ····最後に残っていた記憶まで失われていく。もう、なにもない。どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 青年は王宮内の庭園に立ち尽くしたまま、ぼんやりと佇んでいた。自分が何者かも忘れてしまった。ここから動けない。こうなる以前の記憶が曖昧で、思い出そうとしても靄がかかったようになにも浮かばないのだ。


 朝も昼も夜も。

 誰も自分に気付かない。声をかけても無視される。触れられない。


(私は、もしかして死んでしまったのか?)


 幽鬼になってしまったのだろうか。いや、なったというよりは元々そうだったのかもしれない。わからない、なにも。誰かが気付いてくれるのを待つしかないのか。


 ただその場に佇んで、庭園を見つめていた。美しい花々が咲き誇り、よく手入れのされたその庭園。なぜここにいるのかもわからないまま、ただ待ち続ける。


 黒髪を高い位置で結び、筒状の銀色の髪留めでまとめている青年は、白い広袖の上衣の上に袖のない衿の形が丸い藍色の長袍をまとっていた。


 革製の上質な帯には、皇族の身分を証明する赤い房のついた紐に括られた蓮の形の白い玉佩が揺れていたが、記憶のない青年にとってはただの飾りでしかなかった。



 また夜が来る。

 これが何度目の夜かも、もう忘れてしまった。




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