華峰山には美しい神仙が住んでいて、王都で起こる特別に厄介な【怪異】を人知れず鎮めてくれているらしい。
王都、華城で昔から囁かれている噂話。
王宮の道士たちの手に負えないような【怪異】は、その神仙によって鎮められていると信じられており、民の間では『困ったことがあれば華峰山に向かって祈れ』という信仰があるとかないとか····。
◇◆◇◆◇◆◇
暁玲はいつものように、嗚嵐が居として構えたこじんまりとした質素な道観の掃除をしたり、朝餉の用意をしたりと忙しく動いていた。ちなみに神仙である嗚嵐は食事をする必要はないが、昔から暁玲に付き合ってくれていた。
まだ幼い頃は嗚嵐が料理を作ってくれていたわけだが、正直あまり美味しくはなかったため、暁玲はかなり早い段階で料理を覚えることとなる。
『きゅ~きゅ~』
台所で忙しくしていた暁玲の足元で、雪玉がまとわりつきながら鳴く。木で作ったお手製のおたまで鍋をかき混ぜながら、「どうしたんです?」と首を傾げて足元に視線を落とした暁玲の目に、右の前脚でちょいちょいとどこかを指し示すような仕草をしている雪玉の姿が映った。
「これは良い時に来たようだ」
それとほぼ同時に、中年男性の渋い声が投げかけられる。その声の主に対して、暁玲はぱあっと明るい表情になって、
「清おじさん!」
と、振り向いた先にいた者に対して、いつものように親しみを込めてそう呼んだ。
彼の名は李清。師父である嗚嵐の知己であり、現在五十代で、王宮で官吏の職に就いている"優秀なひとらしい"というのが、暁玲の認識である。
幼い頃からたまにふらっと連絡もせずにやって来るのだが、だいたい厄介事を持ってくるという印象しかない。それでも暁玲が『清おじさん』と呼んでいることから、ふたりが親しい関係であることは言うまでもない。
「こんなに朝早くからどうしたんです? またなにか厄介な依頼ですか?」
普通なら『厄介な依頼』と聞けば嫌がるようなものだが、この暁玲は少し感覚が普通ではないようで、どこか楽し気な声で訊ねてくる。李清は苦笑を浮かべながら、「まあ、それは後で話すとして。私の分の朝餉はあるかな?」といい香りのする鍋の方を指さした。
白髪交じりの黒髪。上質な濃い紫色の衣を纏っている李清が口にするには質素すぎる汁物だが、暁玲の料理はなかなかに美味なのだ。火にかけられた鍋の中では茸類や葉物野菜が煮込まれ、ぐつぐつと音を立てていた。
「少し多めに作ったので、一緒に食べてくれるひとがいるとすごく助かります」
「実のところ、これも目的のひとつでね。予定より早く出立したんだ」
「ふふ。冗談でも嬉しいです」
穏やかな笑みを浮かべた李清を見上げ、暁玲はくすくすと花のように笑いかける。
(はあ····癒されるなぁ)
油断をすれば顔が緩んでしまうほどのその可愛らしい笑顔に、日頃の疲れも一瞬で吹っ飛ぶ。彼を孫のように可愛がっている友人の気持ちがわかりすぎる李清は、同じく目に入れても痛くないと思っているのだった。
「すぐに用意しますので、先に師父に顔を出してあげてください。後でお部屋に持っていきますね、」
「ああ、ではそうしよう。久々に暁玲の手料理が食べられるとは、こんな嬉しいことはない。早起きをしてやって来たかいがあるというものだ」
はいはい、といつもの誉め言葉を聞き流しながら、暁玲はいそいそと手を動かす。自分の家のようにどこになにがあるかを把握している李清は、案内される必要もないらしく、奥にある嗚嵐の部屋へと勝手に歩いていくのだった。
◇◆◇◆◇◆◇
王宮、天師府。
あの因縁深い【怪異】の解決を報告してからひと月が経っていた。王宮の道士たちをまとめる道長である劉帆が、数日前から皇后である玥瑶妃からの命により王都から離れた辺境の地に赴いているため、首席道士である憂炎に回って来る仕事量が必然的に増えていた。
基本的に老師は自ら現場に出ることはなく、最終的な判断を下すだけの立場であるため、雑務や報告業務はその下の者が行う。
先輩の古参道士たちは各々の仕事をいつものようにそつなくこなすが、これはその仕事には入っていないのだ。
若い道士はそんな先輩道士の指示の下、見回りをしたり日々王都で起こる【怪異】を鎮めるを繰り返す。憂炎は外に出る道士たちの編成をしたり、【怪異】の報告書を作成したり、自身も現場に出たりと忙しくしていた。
おかげでもう四日ほど家に帰れていない。仮眠程度の少ない睡眠時間で、なんとか集中力を維持しているといってもいいだろう。さすがの憂炎も疲れが顔に出てしまうようで、同僚たちに心配されてしまった。
「憂炎殿、お疲れのところ申し訳ないのですが、老師がなにか用があるとのことで、すぐに来て欲しいそうです」
「····わかった。あとは頼む」
自分よりも年上の道士に残りの雑務を頼み、憂炎は老師の自室へと足を向けた。正直、これ以上仕事が増えるのは体力的に無理な気がしている。
(そろそろちゃんと寝ないと······さすがに限界かもしれない)
まさか四日経ってもあの道長が解決できないなど、誰が予想しただろうか。厄介なのか、それとも目当ての【怪異】に出遭えていないのか。
劉帆が向かったのは国の外れにある寺院で、そこを管理しているのが元皇族なんだそうだ。どうやらその寺院の周辺で不可解な現象が起きており、【怪異】の仕業かもしれないということで、天師府の道長自ら赴くことになってしまったらしい。
【怪異】は王都以外でももちろん起こる。大概はその地に昔からいる専属の道士たちに依頼をし、解決してもらうのが筋だ。
だが、今回はよりにもよって元皇族のいる寺院の周辺。そうなれば王宮の道士が赴くしかない。しかも皇后からの命となれば動かざるを得ないわけで。
「憂炎です。お呼びと聞き、参りました」
「入りなさい」
扉に手をかけそっと押す。開く際にきぃと古びた音が鳴った。そのまま部屋に入り簡易的な拱手礼し、頭を下げたまま待つ。
中に入った時に一瞬視界に映ったのは、老師の他にもうひとり。王宮内でも滅多にその姿を見ることのない、ある人物の姿だった。
「憂炎、こんな時にあれなんだが····ちょっとした厄介事が起きてな。これから丞相殿と共に行ってもらいたい場所がある。信用できる者をあとふたり連れて、早急に向かって欲しい」
「詳細はここでは話せないので、あちらに着いてから話す。同行する者は口が堅い者が好ましい。事を大きくしないためにも、人選は慎重に頼む」
老師の隣にいたのは、この国の丞相だった。皇后の次は丞相····いったいなにが起こっているのか。憂炎は勘ぐるなと間接的に言われても無理だった。
「どこへ向かうかくらいは、お訊ねしても?」
無礼だとは思ったが、人選するにしても必要な情報だった。丞相は意外にも嫌な顔ひとつせずに「かまわないよ」と頷いてくれた。
「これから向かうのは胡蝶宮だ」
「妃嬪様からの依頼、ですか?」
つまりは第三皇子の母親である麗思妃からの直々の命ということ?
「これは重要機密事項で、絶対に、万が一でも外部には漏れてはいけない、非常に厄介な事件なのだ。君には悪いけど、引き受けないという選択肢はないと思ってくれ」
丞相は苦笑を浮かべて申し訳なさそうに、今回の件がいかに厄介な案件で、失敗は絶対に許されないのだということを、あえて軽い口調で憂炎に伝えるのだった。