(やはり憶えていないか····私のこともあの頃はすぐに忘れていたからな)
暁玲の記憶は一定の期間を過ぎると本人の意思に関係なく消去されてしまうらしく、長くてもひと月、早いと数日ともたずに顔も名前も、起こった出来事さえもすっかり忘れてしまうようなのだ。
それに気付いたのは八年ほど前。
それまではふたりだけの生活だったので、その兆候がそもそもなかったのだ。しかしある時期から李清がここに何度も顔を出すようになった頃に、それが発覚した。
嗚嵐と知己である李清は、暁玲が赤ん坊だった頃はよくここを訪れていたが、役職が変わったせいもあって会いに行けない時期が数年あった。
再会したのは、嗚嵐にとある『重大な依頼』を直接持ち込んだのがきっかけ。依頼主は今回と同じく妃嬪であり、重大な依頼とは嗚嵐に彼女の息子である皇子を預け、霊障の影響を受けやすい体質を改善させることだった。
李清はその皇子を預けるとひとり山を下り、そのまま王宮に戻ったのだ。そしてひと月後に皇子を迎えに行った時、違和感を覚えた。
顔を合わせた時の、暁玲の戸惑っているような反応。その時にちゃんと話をしていたら、こんなことにはならなかったのかもしれない。少なくとも、あの時の思い出は守れたはずだった。
久々に再会した際は幼かったこともあり、憶えていないのも仕方ないと軽くみていた。だがひと月ともたずにまったく記憶にないとなったら、さすがにおかしいと思うだろう。
(気になってその半月後くらいに訪ねた時に、それが確信に変わったのだ)
常に一緒にいるなら忘れないようだが、会わない期間が長いと次に会った時には初対面の状態に戻ってしまう厄介な病。
日常的なことは忘れないのに、ひとの顔や名前はもちろん、一緒に共有したはずの思い出さえもすっかりなくなってしまうようなのだ。普段の優秀な暁玲からは、到底考えられないような症状といえよう。
その対策として、忘れたくない出来事や忘れたくないひとができたら、その都度日記を書くように嗚嵐がすすめたようなのだ。しかし文字だけでは顔を忘れるので、忘れたくない者の似顔絵も一緒に描いているようだ。
だが似顔絵はあまりにも個性的で····いや、逆にあれで認識できるのだとしたら、彼の目に見えているモノを疑ってしまう。とにかく言い表せないほどすごい絵なのだ。ある意味天才なのかもしれない。
(あれから八年も経つ。もう思い出のひと欠片も残っていないのだろう)
朝餉はいつの間にかキレイになくなっており、手をあわせて「ご馳走様」と言ったもの束の間、李清は椅子から立ち上がり、正面に座る暁玲に向かってすっと手を差し伸べた。
「状況次第では危険な目に遭うかもしれない。最悪の事態も考えられる。私もでき得る限り手を尽くすが、保障はできない。それでも一緒に来てくれるかい、暁玲?」
「もちろんです。清おじさんや他の皆さんのためにも、必ず皇子様を目覚めさせてみせましょう、」
怖いもの知らずといえばそれまでだが、暁玲は昔から自分が気になることをとことん調べたり、興味を持ったものに対して答えがわかるまで突き詰めたいという性格だった。
なので、今回の件も彼には興味のひとつとして数えられており、それに対して応えないという選択肢はなかったようだ。
「くれぐれも油断しないこと。目立った行動は控えること。いいですか? 目的はあくまでも皇子を目覚めさせることであり、それ以外の余計なことには首を突っ込んだりしないと約束してくれますね?」
「はーい····なるべく気を付けます」
「雪玉、君が見張るんですよ? なにかあればすぐに知らせなさい。今回は特別に封印を二段階分解放します。ただし、一緒になって無謀なことはしないこと、わかりましたね?」
『きゅ、きゅう〜』
自分にも視えるように顕現してくれている白い毛の獣の精霊が、暁玲の足元に隠れながら嗚嵐を見上げている。よほど彼のことが怖いようだ。まあ、基本的に暁玲以外の人間には冷たい奴だから仕方がないだろう。李清はやれやれと右頬をかいた。
(暁玲もさすがにわかっているだろうが、今回は厄介がすぎる。事はそう簡単にはいかないし、もしかするとこの件····さらに上の大物が絡んでいる可能性もあるからな。これを上手く収めるにはかなり慎重に動く必要がある)
興味津々な上に自分なら解決できるという自信もある暁玲の存在は李清としてはかなり心強いのだが、その反面心配でもあった。それはやはり最悪の事態になった時の暁玲の立場だ。
理由はどうあれ王宮の皇族である皇子の傍に、性別を偽り、職を偽り、身分を偽り、一番近い場所で滞在することになる。バレれば確実に罰せられ、状況によっては死罪も最悪あり得る。
そうなった時に起こるだろう、さらなる最悪の事態。それは暁玲を取り戻しに、嗚嵐が王宮にひとり乗り込んでくることだ。
(国が亡ぶ事態だけは避けたいものだ·····、)
国か暁玲の命かとなれば、奴は間違いなく暁玲を選ぶだろうし、この国が亡んだところで彼には痛くも痒くもないのだ。冗談でもそうならないように李清自身も助力するつもりだが、限度というものがある。とにかくこの件をなんとか解決に導くため、一縷の望みに託すしかあるまい。
「では準備ができ次第、出立しよう。衣裳はこちらですでに用意してあるから、王都に着いてからで大丈夫だ。必要なものだけ持ち、足りないものがあれば現地で用意させるから問題ない」
わかりました、と暁玲は頷き、自室へと駆けていった。残されたふたりは、静かになった部屋の真ん中で同時に「はあ」と嘆息する。懸念していることはおそらく同じことだろうから、あえて口にして訊ねることはなかった。
「お前のことだから、暁玲から目を離さずに千里眼でこっそり観察しているんだろうが、頼むから無茶なことだけはしないでくれよ? する時はまず私に言ってくれ。わかっていて対処するのとわからずに対処するのは違うからな」
「そうならないように動くのがあなたの仕事でしょう? そしてあの子を守るのは私の役目です。何者であろうと、あの子に手を出す輩は排除します。残念ながら例外はありません。ところで、天師府の首席道士はどのような人物でしょう?」
「どうして急にそんな話になるのだ?」
「道士が数人呼ばれるといっていたでしょう? 道長が王都に戻れないのなら、その代わりとなれば首席道士しかいない。知っておきたいんですよ、彼の人となりをね、」
にっこりと仮面のような笑みを浮かべて嗚嵐は言うが、まるで知っているような口ぶりなのは気のせいではないだろう。おそらくひと月前に暁玲に依頼した【怪異】が関係していると思われるが、あれの解決に王宮の首席道士も関わっていたという事実がある。
華衛府の報告の後に、天師府の道長伝いに報告を受けた李清は、その時に例の首席道士について話を聞いていた。あの【怪異】は元首席道士であった彼の父親の仇であったこと。
その道士からの報告では暁玲の名は挙がらなかったものの、代わりに"外部の名も知れぬ道士の少女と協力して怪異を鎮めた"とあった。
「白々しい····お前のことだから、いつもの如く"覗き見"していたのだろう?」
「人聞きの悪いことを言わないでください。こっそり見守っていただけですよ」
ひとはそれを"覗き見"という。
言葉には直接しないが、どうやら彼はその首席道士が気に食わないようだ。