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2-6 花言葉


 師父しふの陣で華峰ファフォン山の麓まで一瞬で辿り着き、森の中を少しだけ歩いた先に、ふたりの武官らしき者たちとひとりの従者が集まっているのが見えた。


 彼らは李清リーチンの姿を目にするなり、それは丁寧に拱手礼をして迎えてくれたわけだが、一応"それなりにえらい立場"の官人である李清リーチンの身分を鑑みれば当然なのだろう。


 朝早くからこんな場所に駆り出された彼らに同情しつつ、この薄暗い森の中でずっと待機させられていたかと思うとなんだか申し訳なく思えてくる。


 しかしそれはそれとして、暁玲シャオリンの目に留まったもの。それは黒塗りの馬車だった。立派な毛並みの茶色と黒い毛の馬たち。それに繋がれている大きな車輪の付いた箱。見たことはあるがもちろん乗ったことなどない。


暁玲シャオリン、あまり近づくと蹴られるぞ」


「はっ⁉ ····すみません、こんなに近くで見たのは初めてで」


 馬車に気を取られ、その周りにいる馬たちが目に入っていなかったようだ。武官たちが乗ってきた馬は訓練を受けているので、余程のことがなければ暴れたりはしないのだが、動物は時に予想外の動きをすることもあるので注意は必要だろう。


「王都まで馬車でも一刻はかかる。時間が惜しいから、中で詳細を話そう」


 暁玲シャオリンの手を取り、先に中へと促すと、李清リーチンのことは彼の従者が手伝った。三十代くらいの寡黙そうな従者で、役目を終えると扉を閉じ、自分は外の席に座って馬の手綱を握った。武官たちも各々の馬に乗り後方と前方を護衛するためにそれぞれ分かれる。


 まあまあの振動で揺れる中、李清リーチンは隣に座る暁玲シャオリンに視線を向ける。緊張····は、まったくしていないようだ。それよりも馬車に乗れたことが嬉しいらしい。


 これから王宮に潜入するというのに、不安はないのだろうか。大体の内容は話したのだが、重要なことはまだ話していなかった。


 なぜ暁玲シャオリンにこの件を頼む必要があったのか。もちろん最悪の事態を回避するためでもあるが、他にも理由があるのだ。


「実はな、暁玲シャオリン。先程話した"眠り皇子"とは第三皇子である皓懍ハオリェン様のことで、」


「はい。それは聞きました」


「うむ。その皓懍ハオリェン様のことなのだが····八年前のことは、憶えていないか? ひと月だけだが、あの御方と華峰ファフォン山で共に修練をしたことを」


「····いいえ、なにも。私のことは、チンおじさんも知っての通りです」


 彼には言っていないことももちろんあるが、"忘却"についてはそもそもふたりが先に気付いてくれたおかげで、その対策もできているわけで。


 それとは別の"記録"については自身で答えを出した。あり得ないほどの膨大な記録ができる領域が頭の中にあること。


 その代わりに不要なものは自分の意思とは関係なく失われていくこと。文字にすればある程度の期間は残すことが可能であること。


 日記をつけ読み返すことでもう一度記録する。そうやって『忘れたくないこと』を『忘れないようにすること』はできると知った。


 しかしそれは李清リーチンがいう八年前からなのだ。その思い出がそれ以前のものであるなら、当然暁玲シャオリンの中には存在しない。それは"ない"と同じなのだ。


「ならばもし皓懍ハオリェン様が目覚めたら、君は傍にいない方がいいのかもしれないな。あの御方にとって君は····"紫菀しおんの華"なのだから」


 李清リーチン暁玲シャオリンの亜麻色の髪の毛を飾る簪を指さして、そう言った。こてんと首を傾げた暁玲シャオリンは、李清リーチンの指先を見つめ、それからお団子頭からそっと紫菀しおんの花飾りが付いた簪を抜いて手に取った。


紫菀しおんの華? ですか····いったいどういう意味なんです?」


「博識な君が知らないと? いや、興味がないといったところか。華藍ファラン国には花に意味を持たせる風習があってな。その紫菀しおんの花もそうだが、大切なひとに花を贈る際には、その秘められた想いを表す花を選ぶのだ」


「····秘められた想い、ですか、」


 暁玲シャオリンは正直あまり興味がなかった。もっと言うなら、どこかの誰かが好き勝手に花に意味を与え、それによって固定概念が生まれてしまったことを残念に思う。


 花はどんな花でも、可憐で美しい。誰かにとっては縁起の悪い花でも、別の誰かにとっては思い入れのある素敵な花かもしれない。それでいいのではないかと。


 だがそんな風に言われてしまえば、いつからか自分の髪の毛を飾ってくれている、この紫菀しおんの花の意味を知りたいとも思う。あと、憂炎ユーエンがくれたあの玉佩。桃色の睡蓮の意味を。


「でも、やっぱりいいです。聞いてもおそらく、すぐに忘れてしまうので」


「書いておけばいいだろう、いつも肌身離さず持っている日記帳に」


「いえ、これに書くのは私が"忘れたくないもの"に限定しているので」


 花言葉の書物を目にする機会があれば、全種類を覚えることも可能だからとは李清リーチンには言えない。


「そうか、なら本人に直接訊くのがいいだろう。目覚めたら、の話だが」


「さっきは傍にいない方がいいっていってましたよ? それになぜ皇子様にそんなことを訊く必要があるんです? そもそも、私などが皇子様とお話なんてできるわけがないのに」


「ああ、そうだったな。今のは忘れてくれ」


 その花の意味を考えてみれば、あの御方はもしかしたら自分たちよりも先に気付いていたのかもしれない。いや、これ以上は野暮な話だなと李清リーチンは口を噤んだ。


 暁玲シャオリンの手の中の簪。事実、紫菀しおんの花飾りの付いたそれを贈ったのは、あの皓懍ハオリェンなのだから。


(もし皇子を目覚めさせられる者がいるとしたら、それは暁玲シャオリン、君だろう)


 彼の気持ちを想えば。


 たとえ忘れさられていようとも、目の前にずっと逢いたがっていた者が現れれば、なにがなんでも目覚めずにはいられないだろう、と。




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