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2-8 消えた魂魄


 皇子が眠り続けてもうすぐ三日目の夜が来る。


 朝と夜に皇子の身体を拭くことになっているため、夏夕シアシーと共に宮殿の寝所を訪れる。部屋の前には護衛官の青年がひとり立っていた。


宵耀シャオヤオ殿、この子は本日から皇子様のお世話をすることになった新しい女官です。明日からは一緒に参りますので、以後お見知りおきを」


「ああ、丞相殿が言っていた子ですね。私は宵耀シャオヤオ皓懍ハオリェン様の護衛官をしている者です」


玲玲リンリンです、精一杯お世話させていただきます」


 暁玲シャオリンは必要以上に頭を下げた後にぐんと元の位置に戻ったが、宵耀シャオヤオがにこやかにこちらを見下ろしてくるので、それにつられてにっこりと嘘くさい笑みを浮かべてしまう。


「珍しい色の髪の毛ですね。その瞳も。どちらの国の出身ですか?」


「どちらの? 私は生まれた時から華藍ファラン国しか知りません。両親もおらず、親代わりに育ててくれたひとはいますが、血は繋がってはいないので····ええっと、これでは答えになっていませんか?」


「すみません、どうやら不躾な質問をしてしまったようですね」


 宵耀シャオヤオはそう言いつつもその笑みは崩さず、まるで仮面でも貼り付いているかのようだった。最初は爽やかで優しそうな好青年と思ったが、どうやら少し違ったようだ。暁玲シャオリンもまた笑顔のまま「いえ、お気になさらず」と答えた。


「では中へ。なにかあれば私に言ってください」


 扉を開け、ふたりを中へ促す。中に入ったのを確認した後、扉は宵耀シャオヤオによって再び閉じられた。


 さすが皇子の寝所。広いし、置いてあるものも高そうだ。奥に置かれた寝台は見たこともないもので、屋根付きな上に見事な彫刻が彫られている。


 そこから垂れ下がった薄く透けた紫色の布の先に寝かされているのが皇子だろう。垂れ下がっている薄い布とは別に、左右の端の方に厚みのある青い布が括られていた。


 ふたりが中に通されるとほぼ同時に、寝台の周りにいた医官たちがなにも言わずにその場から離れる。女官が皇子の世話をするためのほんのわずかな時間が、彼らにとっての数少ない休憩時間だった。


 この間に食事を済ませたり、集中していた頭や心を休ませるのだ。彼らはもう三日もそんな生活を強いられている。


「私がお世話をしている内に、君は自分の仕事をして? あまり大きな声は出さないようにね? ちょっとの物音でも、あの護衛官殿は様子を見に来ちゃうから」


 どうやら先程のあの雰囲気は、やはり自分を試していたのだろうと確信する。たとえ女官だとしても、皇子に近づく者を快く思っていないのだろう。


 男だと知ればそんな心配もなくなるのかもしれないが、それを話してしまったら初日で終わってしまうことになる。いろんな意味で。 


 夏夕シアシーが垂れ下がっている薄い布を開けてそれぞれ左右に括り、準備を始める。ぬるま湯が入った桶や身体を拭くための布を何枚か用意している間、暁玲シャオリンは寝台に入って眠っている皇子の顔を遠慮なく覗き込む。


 秀麗で優しげな面立ちだが、本来の色が失せてしまっているせいでまるで死人のようだった。白い寝間着の衣を一枚纏っているだけの姿が余計にそう思わせる。食事もせず眠ったままのせいか、長い黒髪もどこか艶をなくしてしまっているようだ。


 そんな皇子の胸のあたりに右手を当てて、暁玲シャオリンはゆっくりと瞼を閉じた。彼の身になにが起こっているのか。どうして目を覚まさないのか。その理由はいくつか予想していた中でも、一番最悪の理由の方だった。


夏夕シアシーさん、どうしましょう」


「どうしましょうって、いったいどうしたの? なにかわかった?」


 皇子の胸に手を当てたまま、茫然としている暁玲シャオリンの背に問いかける。声の暗さから良い報告でないことは確かだったが、「どうしましょう」に答えられるだけの材料が少なすぎる。


「····魂魄が、ありません」


「え? 魂魄って魂のことよね? 身体から魂がなくなってるってこと?」


「はい····本体から魂魄が離れた状態で今夜で三日目。かなり危険な状況かと」


「危険って····あとどれくらい猶予があるの?」


 あと三日もつかどうか。


 だが、これを話してどうにかなるわけではない。三日もつという保障はどこにもないのだ。そもそもどうして魂魄が消えているのか。


 戻れなくなっている? 王宮内にいるならまだいいが、王宮の外に出てしまっていたら捜しようがない。それに大勢で捜すことも期待できない。


 この依頼は内密に事を進めなければならない案件であり、そもそも彼の母である妃嬪がそれを赦さないだろう。


「一刻も早く見つける必要がありますが、闇雲に捜しても時間を費やすだけ。王宮内だけでもかなり広いですよね?」


「魂魄となれば、視える者でなければ捜しようがない。かといって君ひとりではまず無理ね。どうするの? 一応、明日には道士たちも何人か合流するらしいけど。このままなにもせずに皇子を死なせてしまったら、私たち全員の首が飛ぶわよ」


 事実を伝えて今からでも増員してもらうという手もあるが、それはそれで大事になってしまうだろう。事を荒げずに、王宮内を捜す方法。


雪玉シュエユー、」


『きゅう!』


「ちょっ····いつの間に⁉ 白いイタチかしら? か、かわいい」


『きゅう~?』


 小首をあざとく傾げ、雪玉シュエユーは後ろ脚で立ち上がりくるっと夏夕シアシーの方を向いた。どうやら美人のお姉さんに気に入られようとしているようだ。その目論見は成功したらしく、顕現した状態で夏夕シアシーに抱き上げられ、豊かな胸に間に収まっていた。


「よしよし、こわくないぞ~。お姉さんが保護してあげるからな~」


『きゅ!』


雪玉シュエユー····師父しふに言いつけますよ?」


 暁玲シャオリンのそのひと言でびくっと毛を逆立てた雪玉シュエユーは、するりと夏夕シアシーの胸····もとい、腕の中から抜けて床の上に降り立った。ここに来る前に嗚嵐ウーランが第二段階まで封印を解いてくれた影響で、雪玉シュエユーの首輪の色がいつもの赤ではなく薄緑になっていた。


 精霊であるが色々あって力を封じられている雪玉シュエユー。封印は五段階まで施されており、それを解除できるのは主である嗚嵐ウーランだけなのだ。


夏夕シアシーさん、これは白鼬オコジョの見た目をしていますが、私の師父が使役している精霊で、普段は私のお守り役をしてくれている子です。この子に王宮内を探ってもらい、捜索範囲を絞ります。気になるところは私が直接確かめに行きます」


「君がこの宮殿を抜けている間、私が上手く誤魔化すというわけね」


 普通ならここで「精霊? そんなものいるはずがないだろう」と疑うのだろうが、彼女はそうはならなかった。まあ、余計な説明をしなくて済むのでそれはそれで良いのだが。


「はい。私が抜けている間は、雪玉シュエユーに化けてもらうことにします。しかし少し問題もあって、」


 雪玉シュエユーを見下ろし、暁玲シャオリンは苦笑を浮かべる。さすがにこれは信じてもらえないだろうと。しかし手助けをしてもらうためには、きちんと説明はしておくべきと考えた。


「化けるのはいいのですが、第二段階までの解除では、理解はできてもこの通りひとの言葉は話せません。そこをなんとか誤魔化していただければ····、」


『きゅう、きゅきゅ?』


 夏夕シアシー暁玲シャオリンがその可愛らしい顔で『きゅ』と言っている姿を思わず妄想した後、「お姉さんにまかせなさい!」と片目を閉じて親指を立てるのだった。




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