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2-9 探る


 眠り皇子の魂魄が消えていた。そうなると皇子が倒れる前までの動きを知る必要があるが····知っていそうなのは"あのひと"くらいだろうか。あの感じだと簡単には教えてくれないだろうし、ただの女官に主である皓懍ハオリェンの行動を不用意に話したりはしないだろう。


雪玉シュエユー、頼みましたよ」


『きゅ!』


「あら、視えなくなっちゃったわ」


 雪玉シュエユーは再び他の者には視えないように姿を消してその場から離れると、扉をすり抜けて出て行った。突然目の前から消えてしまった白鼬オコジョに対して、夏夕シアシーは驚いているというよりは残念そうにそう呟く。


「では魂魄の行方は彼に任せるとして。私たちは女官の仕事をこなしつつ、なにか手がかりになりそうなものを手に入れるしかありませんね」


 皇子が普段どのような行動をしているのか。正直、暁玲シャオリンにはさっぱりわからなかった。この宮殿から出ることはあるのだろうか? 


「あとどのくらい、ここにいられそうです?」


「そうね。医官たちが戻ってくるまであと四半刻もないかもしれないわね。」


「ではこのまま続けてください。私はこの部屋を少し探ってみます」


 寝所になにか重要な手掛かりがあるとは思えないが、繊細な作りのさまざまな調度品とは別に、部屋の隅に丸い形の本棚と文机があった。なにが手掛かりになるかもわからないので、記録できるだけ記録しておくのがいいだろう。


 ここに来るまでに宮殿内をだいたい見て回ったが、皇子が普段使用している部屋は二つ。この自室兼寝所と公務をするための執務室だけのようだ。執務室にはさすがに入ることはできないらしく、鍵がかかっていた。掃除も不要と言われているそうだ。


 夏夕シアシーに皇子のことを任せ、暁玲シャオリンは本棚の本を手に取り一冊ずつぱらぱらと捲っていく。すべて記録するには何度かここに来る必要がありそうだ。


 ただ、のんびりもしていられない。雪玉シュエユーの視界を共有しつつ、目の前の文字を読み込む作業はなかなか骨が折れた。


(それにしても色んな書物が置いてありますね。華藍ファラン国の歴史に帝王学? 第三皇子でもこういうのを学ばなければならないんですね····隣国の地図? 風水に草花や薬草の図鑑? ん? これは、)


 三段ある本棚の一番上の左端から背表紙をなぞっては一冊ずつ開いていく。その何冊目かにあった書物を手に取り、馬車の中で李清リーチンと話した"あること"を思い出す。


『――――華藍ファラン国には花に意味を持たせる風習があってな。その紫菀しおんの花もそうだが、大切なひとに花を贈る際には、その秘められた想いを表す花を選ぶのだ』


 花言葉の本。庶民の間でもよく読まれているというその書物に、暁玲シャオリンはあまり興味がなく、今まで手に取ったことはなかった。李清リーチンが言ったことは引っかかってはいる。


 しかし今はなるべく多くの情報を頭に入れるのが優先だ。とりあえず他の書物と同じようにすべて捲って読み込み、あとで気になる部分だけ読み返そうと思った。


玲玲リンリン、そろそろ時間よ」


 夏夕シアシーが使用した布を入れぬるま湯の入った桶を持ち上げ、声をかけてくれた。その合図と同時に書物を棚に戻す。なんとか半分くらいは読み込めただろうか。暁玲シャオリンも替えた衣を腕に抱え、部屋を出る準備を手伝った。


 そうしている内に扉が開き、医官たちが三人共中へと入ってきた。すれ違うようにふたりは出て行き、再び扉の前にいる護衛官に頭を下げた。


「では、終わりましたので私たちは戻ります」


「ご苦労様でした」


 夏夕シアシーがそう言って歩き出し、暁玲シャオリンもそれに続いて彼の前を横切ろうとしたその時、突然ぐいと強い力で右腕を掴まれた。その指には必要以上に力が入っている気がして、思わず持っていた衣を落としてしまう。


「あの、私····なにか、失礼をしましたか?」


 じっと驚いたように見つめてくるその瞳は暁玲シャオリンではなく別の場所に注がれているようだったが、それがなにかはわからなかった。腕をつかんだまま動かない宵耀シャオヤオに対して、夏夕シアシーが見かねて声をかける。


宵耀シャオヤオ殿、どうしたんです? 彼女になにか用でしょうか?」


「········いえ、突然すみませんでした」


 宵耀シャオヤオは右腕から手を放し、自分のせいで落とさせてしまった衣を拾い上げると、謝罪をしながら暁玲シャオリンに手渡した。


「では、私たちは行きますね。あとで食事を持ってきますから、その時にまた参ります。宵耀シャオヤオ殿もお疲れでしょう。少しは休まれた方がよろしいかと」


「いえ、私はここにいます。いつ皓懍ハオリェン様が目覚めるかわかりませんから」


 先程までのらしくない表情は消え、いつもの笑顔が彼の面に飾られる。夏夕シアシーは内心「珍しいこともあるものだ」と驚いてもいた。彼の噂は華衛かえい府の女性たちの間でもたまに耳にすることがある。


 第三皇子のお守り役であり、どんな相手にでも平等にあの笑顔で対応をするようで、女官たちの間で密かに人気があるらしい。


 見た目も優し気な上にあの秀麗な面立ちである。声音も穏やかで心地よい響きだ。しかも武芸の腕も達つとなれば女性にもてないわけがない。それなのに結婚もしていないし浮いた話もないという謎が、余計に女子たちの妄想を駆り立てるのだろう。


(あの胡散臭い笑顔に皆が騙されるのだろうな。正直、私の好みではないが)


 夏夕シアシーの好みは"可愛い女子"なのだ。故に主は皇子の世話係として送り込んだわけで。その延長である"可愛い男の娘"に該当する玲玲リンリンは眺めているだけでも眼福だった。


 部屋に戻り、ふたりはふっと同時に嘆息する。


「び、びっくりしました····てっきりなにかに感づかれたのかと」


「私もだよ。しかし君のなにが彼にあんな行動をさせたのか。もう少し慎重に行動した方が良いかもしれない」


 この後は夜の食事の用意をして、今日の女官としての仕事は終わりだ。それまでは休んでいる暇はない。食事の準備をするにしても提供する人数が少ないのがせめてもの救いだろうか。


「まあ、宵耀シャオヤオ殿は今夜も合わせたら三日間、ずっとあそこに立っているからね。たまに寄りかかって少しだけ仮眠をしているようだけど、ほとんど眠っていないみたいだし」


「そうなんですね。眠り続けている皇子様が心配なのでしょう」


 彼のようなひとがそれほど信頼している皇子なら、きっと立派で尊敬できる素晴らしい人格者なのだろう。先程少しだけ皇子の顔を見たが、確かにいいひとそうな印象が寝顔からも感じられた。


玲玲リンリンは料理は得意?」


「いつも自分の分は自分で作っていますので、得意な分類ではあります」


「それは助かるわ。これで少しは皆の士気も上がるかもね」


 夏夕シアシーのその言葉の意味を知るのは、この一刻後のことだった。




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