朝も昼も夜も、この庭園にはほとんど人が来ない。一日に二回、同じ時間に庭師がひとり手入れに来るくらいで、この広い庭園はほぼ放置されているといってもいいだろう。かといって手入れが行き届いていないわけでもない。
見渡してみれば可愛らしい小さな花を咲かせた木々や色とりどりの美しい花々が咲き乱れており、庭園の真ん中には年季の入った立派な
高貴な格好をした幽鬼? の青年は、ふむと顎に手を当ててなにかを考えるような仕草をし、
その視線の先は、自身の足もとに向けられている。そこには不思議な紋様が歪に描かれており、気にしなければただの幾何学模様の組み合わせだが、青年にはそれが不自然に見えて仕方なかった。
正直、なんの根拠もない感覚的なもの。
違和感。
(誰かにこの
物をすり抜けてしまうこの身体では、床を叩いて確かめることもできない。しかしどういうわけかその下にはすり抜けられないのだ。ちなみにこの庭園からも出られないため、その"誰か"に伝えることも不可能なのだ。たまに来る老人庭師はまったくこちらに気付く気配もないので、これに関しては期待はできないだろう。
『ここは王宮内の庭園なのはわかる。だが、私はいったい何者なのだろうか。庭園に立ち入れるのは皇族と皇族付きの内官や護衛官くらいか。身なりから考えて、おそらく皇族だと思うが、名前すら思い出せないとは厄介だな』
腰に下がっていた赤い房のついた紐に括られた蓮の形の白い玉佩を手に取り、見つめる。肝心なことを思い出そうとすると、頭の中に霧でもかかったかのように曖昧になってしまう。
『こうやって自分が身に着けている物にはなぜか触れられる。人も物もすり抜けてしまうのに不思議な話だ。いずれにせよ、面妖な身体に変わりはない』
そしてまた、何度目かの夜が来た。
庭園には明かりはなく、月明りだけが唯一の光だった。だが今の青年には関係がなく、昼と変わらないくらいよく見える。ふらふらと庭園を散策していると、突然足もとを白い影が横切った。それは本当に一瞬だったため、その姿を捉えることはできなかったのだが、通り過ぎたはずの影がなぜかまた戻ってきて····。
『······なんだ、
戻って来たその長い体躯を持つ白く細い獣は、黒い真ん丸の眼をこちらに向けると、じっと見上げてきた。もしかしたら、この姿の自分が見えているのかもしれない。動物は人間よりも敏感だ。感覚として気配を感じ取っている可能性もある。
それにしてはしっかりと視線が合う気も?
『お前は私が見えるのかい?』
しゃがんで白い獣を見下ろし、青年は明るい声音で問う。獣に人間の言葉など通じるわけがないが、はじめて自分に気付いてくれた小さなお客さんに対して単純に嬉しかったのだ。じっとこちらを見上げたまま動かない白い獣。薄緑色の首輪をしていることから野良ではなさそうだ。
首を傾げ可愛らしい仕草を見せた獣に対して、触れることを許されていると思い込んだ青年は、ゆっくりとその小さな頭の方へと右手を伸ばすが····。
『いっ······た····っ⁉』
獣とは実に気まぐれな存在。いくら小さくて可愛い顔をしていようが、所詮、獣は獣だった。伸ばした右手の親指に白い獣の歯が食い込む。
突然与えられたその強い痛みに驚いた青年は勢いよく立ち上がり、振り払おうとしてぶんぶんと右手を必死に上下に振るが、白い獣はまったく放してくれる気配がなく、手に噛みついたままぷらぷらとぶら下がっている。
(いや、ちょっとまった····痛いとか······私は幽鬼になったのではないのか?)
じんじん。白い獣がぶら下がったままの手を見つめて、青年は眉を顰める。現に、今も痛みが続いている。先程よりは噛む力を緩めてくれているようで、甘嚙みに近い状態にはなっているのだが····それにしても。
右腕を目のあたりまで掲げ、ぶら下がっている白い獣をまじまじと見つめる。視線が合う。確実に認識されている。この
『にゅ? もきゅ?』
もごもごとした鳴き声は実に可愛らしいが、獲物でも捕らえたかのようなドヤ顔でこちらに視線だけ向ける様子は、どこか憎らしさもある。
『はじめまして? で合っている、だろうか』
なんだろう、この既視感は。前にもこんな風に噛みつかれたことがあるような?
『むっきゅ!』
『なんだ? 怒っているのか? というか、そろそろ放して欲しいのだが····、』
手加減してくれているおかげで痛くはないが、その長い体躯をぶらんとしている間抜けな姿がおかしくて、話しながら笑いが込み上げてくる。震える声を堪えるのも限界というものがあるのだ。白い獣は少し考えた後、小さな口を右手から放し地面に華麗に着地した。
『お前と私は、どこかで会ったことがあるのだろうか? ここに来る以前の記憶がまったく思い出せなくて、困り果てていたところなんだ』
話したところで理解できるはずもあるまい。わかっていたが、唯一の話し相手が見つかり青年はなんだか気が楽になった。白い獣は首を傾げて『きゅ』と答えると、きりっとした顔をして器用に後ろ脚だけで立ち上がった。それには青年も驚き、再びその場にしゃがみ込むと、なんともいえない愛らしい姿をまじまじと眺め始める。
『きゅ~きゅっ! きゅきゅう!』
『まったく何を言っているかわからんが、楽しそうでなによりだな』
意思疎通はさっぱりだが、急に活発に動き出した白い獣は、前脚を動かしてなにかを訴えているようにも見えなくもない。
青年はのんきにそれを見て楽しんでいたのだが、白い獣はまったく通じなかったことにがっかりしたようで、先の方だけ黒い尻尾をしゅんと下ろして前脚を地面につくと、くるりと背を向けた。
『なんだ、もう行ってしまうのかい? また気が向いたら遊びに来るといい』
とん、と身軽に塀に飛び乗りそのまま駆けて行った白い獣の姿を見送り、青年はふうと嘆息する。せっかく友だちになれると思ったのだが、そう上手くはいかないようだ。いったいいつまでこうしていれば良いのだろう。誰か、教えて欲しい。
(だが、知ったところでなにも変わらないのではないか····?)
青年はぼんやりとした眼差しで星々が散りばめられた夜空を仰ぎ、満月に近い