皇子が眠り続けてもう四日目。夜になってやって来た王宮の道士が三人。ひとりは主席道士である憂炎。あとのふたりは纏っている道士服が薄緑であることから、階級は乙だろう。
天師府は纏う道士服の色で階級がひと目わかるようになっている。乙は下から二番目だが、天師府の道士たちの実力はかなり高いと聞く。しかし今回の任務に向いている階級かといえば微妙なところだ。
夏夕は先ほどから様子のおかしい暁玲を横目でチラ見しつつ、後ろからこちらに送られてくる強い視線にも気付いていた。この状況を見るに、このふたりは知り合いなのかもしれない。暁玲としては身バレしたら終わりの秘密の任務。余計なことを問われ、他の者に知られれば一大事だろう。
なにか言いたげな主席道士に対していつまでもつか見物····と、こんな時でなければ思うところだが。夏夕は普段は王宮に仕える武官で、この国の特務機関とも呼べる華衛府にも所属している身。
もし万が一にも事が起こってしまったら、後々確実に面倒なことになるだろう。つまり今回に限っては面白がっている場合ではなく、どうにかうまく乗り切るのが正解と言えよう。
「宵耀様、道士殿をお連れしました」
「私は皓懍様直属の護衛官、宵耀です。この度はご足労いただき感謝します」
扉の前に立ち、右手で鞘を持ちそこに左手を重ねて正面で簡易的な拱手礼をした宵耀が、新たに派遣された道士たちを出迎えた。代表して黒い道士服を纏った主席道士が前に出て、同じく拱手礼をして形式的な挨拶を交わした。
「天師府所属の道士、憂炎と申します。後ろの者たちは右が白黎、左が柳雨です。口が堅く信頼できる者を、という条件でしたので、彼らを連れて参りました」
皇子の護衛官を前にまったく動じていない憂炎の後ろで深く頭を下げ、ふたりの道士は慣れていないのか緊張した面持ちで挨拶を交わしていた。
紫華殿。第三皇子皓懍の寝所の中へと促された道士たちは、さっそく皇子の容態を確認すべく各々準備に取り掛かる。ただの女官である暁玲と夏夕は、閉じられた扉の前で宵耀と対峙していた。もう四日もまともに眠っていないだろう宵耀は、ほとんどここから動くことはなく、皇子が目覚めるのをただじっと待っているのだ。
「あの、大丈夫ですか? なんだか顔色が優れないようですが」
暁玲は昨日のことなどすっかり忘れていて、警戒することもなく自然に話しかけていた。それに対して宵耀は「ご心配には及びません」といつもの笑顔で返す。それから視線を亜麻色の髪の毛を飾る簪に向け、少し躊躇うような様子を見せた後、誤魔化すように再び笑みを浮かべた。
「····玲玲殿の、その紫菀の簪は····誰かからの贈り物ですか?」
「どうしてそう思うのですか?」
暁玲は不思議そうに首を傾げ、それから髪の毛を飾る簪に手を伸ばしてすっと抜いた。手の中で美しく咲く紫菀の小さな花々の装飾。まるで本物の花のように精巧に作られた簪の飾りは、一般人が持つにはふさわしくないほど高価なものらしい。
だからだろうか。一応、華衛府が派遣した女官とはいえ、暁玲がそれを髪の毛に飾っていることに対して、宵耀は違和感を覚えたのかもしれない。自分で買ったものではなく、贈られたものだと答えれば納得するのだろうか。
だが実際のところこの簪については暁玲もわかっておらず、噓をつくにもまともな理由が思いつかない。両親もいないと話してしまったし、恋人からもらったとでも言えばいいのだろうか? それとも育ててくれたひとがくれたとでも言う方が妥当だろうか。
「玲玲殿は、紫菀の花言葉をご存じですか?」
花言葉。そういえば皇子の寝所の本棚の中に書物があった。なにかの手掛かりになるかもと記録したことを思い出す。暁玲は頭の中で『紫菀の花言葉』と呟き、それに対する"答え"をいつものように脳内の書庫から得る。
紫菀の花言葉。
「追憶、君を忘れない、遠方にいる者を想う?」
「そうです。私もこの手のことには疎いのですが、皓懍様がそういうことに博識なので、自然と耳に入ってくる時があります。私が知っているのはその簪に咲く紫菀の花言葉のみ。あなたにそれを贈った方は、あなたのことを本当に大切に想っている方なのでしょう」
意味深なその言葉に、暁玲はますます首を横に傾げる。昨夜ここで自分の腕を掴んだ時の宵耀の戸惑っているかのような表情と、今のどこか優し気な彼の表情は違いすぎてまったく理解できない。手の中の簪を見つめ、暁玲は李清が言っていた言葉を思い出す。
『その皓懍様のことなのだが····八年前のことは、憶えていないか? ひと月だけだが、あの御方と華峰山で共に修練をしたことを』
どうやらあの眠り皇子、もとい第三皇子と自分は、幼い頃に一緒に過ごしたことがある? らしい。それも八年前。どこにも存在しない思い出のひとつ。消えてしまった記憶の中に、それがあるというのだろうか。
『――――皓懍様が目覚めたら、君は傍にいない方がいいのかもしれないな。あの御方にとって君は····"紫菀の華"なのだから』
なんとなく、だが。
もしそれが本当なのだとしたら、この紫菀の簪は······そこまで考えて、暁玲は止めた。だとしても、この国の皇子とただの見習い道士が友だちになどなれるわけがない。子どもの頃に少しだけ関りがあったとしても、それはただの戯れにすぎないだろう。
この簪を仮に第三皇子が自分に贈ったのだとして、それになんの意味があろうか。山でのほぼ自給自足の暮らしでお金に困ることもなかったので、たまたま手放さずにずっと自分の傍にあった簪。髪の毛を飾る簪はこれしか持っておらず、なんだかんだで愛着もあったのでいつも身に着けていた。
「····宵耀さんが昨夜もこの簪を気にしていたのは、」
「大変です! 宵耀殿!」
そう言いかけたところで、寝所の扉が勢いよく開く。そこには青ざめた表情で立ち尽くし、両開きの扉を開けた姿勢のままこちらを見つめる道士の姿があった。
その者は憂炎の後ろにいた道士のひとり、柳雨だった。彼は再び思い出したかのように慌てた様子で、「まずい事になりましたよ! 早く来てください!」と、今度はあわあわと両腕を上下に忙しなく動かしてこちらを急かす。
宵耀は中の不穏な様子に気付いたのか、皇子が眠る寝台の近くまで駆けて行き、その後ろ姿を暁玲と夏夕はただ眺めるに留まる。
呼ばれたのはあくまでも宵耀であって、女官である自分たちではないからだ。しかし呼びに来た道士が扉を開け放ったまま戻って行ったため、扉の奥の会話はしっかりと聞こえてきて····。
「魂魄がない? いったいどういうことですか⁉」
天師府で一番優秀な主席道士が気付かないわけがない。彼が報告した内容に対して、いつもは穏やかで平静な宵耀が、別人かと思うくらい動揺し声を荒げて憂炎に答えを求めていた。
すでにそれを知っていた暁玲たちは、その様子をただ眺めている事しかできない。そんな中、宵耀越しに憂炎と視線が重なった。
「あまり時間がありません。運よく王宮内のどこかにいれば助かる可能性はありますが、そうでなければ長くてもあと二日。その間に魂魄が戻らなければ、二度と目覚めることはないでしょう」
淡々とした声でそう断言した憂炎に、その場にいた者たちは声にならない声を上げ、自分たちが皇子と同じくらい危機に陥っていることを思い知るのだった。