憂炎は宵耀越しにじっと女官姿の暁玲を見つめていた。どうやら皇子に魂魄がないことを知っていたようだ。ということは、自称見習いとはいえ道士である暁玲がここにいる理由はただひとつ。華衛府の依頼で潜入していると考えるのが正解か。
(そもそも、なぜ彼女が華衛府と繋がっているんだ? 華峰山の道士····あそこには昔から神仙が居を構えていると聞く。あの時は余裕がなくて深くは追及しなかったが、彼女の言っていた師父とはもしかして····、)
華峰山の噂は幼い頃から耳に入っていた。
『困ったことがあれば華峰山に向かって祈れ』
王都、華城に古くから伝わる言い伝え、というか噂だ。華峰山には神仙が住んでおり、祈れば助けてくれるとかなんとか。丞相が華衛府を取り仕切っていることを考えると、ここになにかしらの繋がりがあるのではないだろうか。あくまでも推測の域を出ないが、あり得ないことでもない。
現に、憂炎の父の仇であったあの【怪異】の討伐を暁玲に依頼していたのは華衛府だった。烏影がその仲介役として暁玲と会っていた場面に鉢合わせたので、間違いないだろう。
「とにかく、ここは我々にお任せください」
有無を言わさぬ強い口調で憂炎は言い切った。事は一刻を争う。皇子が部屋の前で発見されたあの時点ですでに魂魄が抜けていたのだとしたら、もう四日も身体から離れていることになるのだ。
ではなぜ宮殿内にいないのか。普通なら動揺しつつもなんとか戻る方法を考える。皇族ならいずれやって来るだろう医官や道士を待つはず。それが叶わないのだとすれば、他の方法を探すか諦めるかの二択だろう。
つまり皇子はここではない別の場所で、なんらかの原因により倒れたと考えるのが正しい。そして魂魄はその場所を未だ彷徨っているか、もしくは戻れない状況に陥っている可能性が高いだろう。
誰にも気付かれずにこの紫華殿に皇子を運んだ者が、今回の事件に関わっている重要人物。そんなことができる者は限られているはず。だが今は犯人を見つけるよりも、まずは皇子の魂魄を捜す方が先だ。話は目覚めてから聞けばいい。
「白黎殿と柳雨は魂魄の抜けた身体を求めて彷徨っている【怪異】を対処してくれ。今のところは影響はなさそうだが、念のため結界の強化も頼む」
わかりました、と動揺していたふたりは憂炎の指示に対して頷いた。乙の階級である自分たちでもやれることはあるだろう。自身の首を繋ぎとめておくためにも、できる限りのことはしておかないと申し開きもできない。
「そこの女官殿、少し話が聞きたい。一緒に来てくれないか?」
「私、ですか?」
「玲玲殿はこの件には関係ありませんよ?」
憂炎の視線の先には暁玲がおり、宵耀は怪訝そうな表情でふたりの間に入ると、暁玲を背に庇い擁護するように立ち塞がった。
「話を聞くだけです。女官殿を疑っているとかそういう事ではないのでご心配には及びません····ちなみに護衛官殿は彼女とどのような関係なんですか?」
ほとんど無に近い表情で淡々と答える憂炎であったが、なぜ皇子の護衛官である彼が暁玲を心配するのかがわからなかった。
(うん? これはどういう状況かしら?)
夏夕はふたりの微妙な空気を感じ取り、心の中で呟く。昨日の反応からふたりは完全に初対面のようだったし、宵耀が部外者である女官を疑うことはあれど、庇う必要はない気がする。
「昨日ここにやって来た女官と護衛官以外の関係はありません」
「そうですか。では問題ないでしょう」
ふたりのやり取りをずっと黙って聞いていた夏夕は、ちらりと隣に立つ暁玲の方に視線を向ける。あのやり取りに対して当の本人が一番首を傾げており、まったくもって当事者の自覚がないようだ。
(先ほどの宵耀殿の態度の変化からして、この子が彼となにかしらの関りがあるとみて間違いなさそうだけど····当の本人がこれじゃあねぇ)
夏夕はあの簪のくだりから勝手に想像してみただけだが、よくある恋物語の一幕のように思えたのだ。宵耀はもしかしたら暁玲のことを知っていて、あの簪は実は宵耀が贈った物なのではなかろうか、と。
幼い頃の思い出。一方は忘れることなく想い続け、一方は離れすぎていたせいで忘れてしまった、とか! あとはお互いに成長したため、あの頃の面影はあれど確かめる自信がない、とか!
宵耀に今まで浮いた話がなかったのは、想い人がいたから?
その想い人かもしれない暁玲。その目印はあの紫菀の簪で、それとなくあの話をして暁玲の反応を探っていたのかも?
(そして、あの道士殿の登場····これは複雑な三角関係の予感)
夏夕の脳内はあらぬ方向へと向かっており、妄想は膨らむばかりだった。王宮の主席道士である憂炎に対する暁玲の態度を見るに、かなり動揺しているように見えた。あの感じだと、彼がここに来ることは知らされていなかったのだろう。
(皇子様は心配だけど、こっちの結末の方が気になってきたんだけど!)
憂炎は暁玲の左腕をくいと軽く掴むと、そのまま無言ですたすたと寝所から離れて行ってしまった。それを心配そうに見守る宵耀が夏夕の方を向き、ゆっくりと口を開いた。
「夏夕殿、申し訳ないですが玲玲殿について行ってはもらえませんか? 私はここを離れるわけにはいかないですし。それに、あの子になにかあっては皓懍様が目覚めた時に叱られてしまいます」
「え? 皓懍様に叱られるって····宵耀殿がですか? それまたどうして?」
「はい。確信はありませんが、もしかしたらあの子は、皓懍様の"紫菀の華"なのでは、と····もちろん、あの簪だけではなんとも言えないのですが。もし仮にそうなのだとしたら、皓懍様にはなにがなんでも目覚めてもらわないといけません」
紫菀の華。
華藍国の皇子たちは妃となる者へ、自身の宮殿になぞらえた花の簪を贈る決まりがある。十歳の誕生日。宮殿を与えられる頃と同時期に、未来の妃に贈るための簪を王宮の職人たちに作らせるのだ。
皓懍の宮殿は紫華殿。紫菀の華とはつまり、この宮殿の妃となる者の称号とも言えよう。いつ何時でも気に入った者に渡せるよう、常に懐に忍ばせておくのが風習のようだ。
「あの紫菀の簪だけではそうとは言い切れませんが····玲玲殿は皓懍様が幼い頃より想い続けていた御方なのかもしれません。違うなら違うでいいのです。しかしもしそうなら、この機会を逃すわけにはいかない」
「そういうことなら、私にお任せください」
宵耀×玲玲から皓懍×玲玲に脳内で変換し直すと、夏夕は簡易的な拱手礼をし、颯爽とその場を立ち去った。皇子様と見習い道士(今は女官)の身分違いの禁断の恋もかなり興味深い。正直、可愛い女の子にしか興味がないのだが、これはまた別腹といえよう。
(にしても、今回の事態はなぜ起こったのかしら? 皇子様の魂魄はいったいどこへ? なにかそうなる理由がないとおかしいわよね?)
兎にも角にもまずは目の前の問題だ。
ふたりが消えて行った廊下の先。
その角を曲がったところにふたつの影が見えた。