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第六話


 夏陀に退任を告げられたときは、引き留めるという選択肢がなかった。


 突然の別れを突きつけられ、困った事態になったかもしれないと客観的に考えている自分がいた。新しい護衛兵を探さなくては、と途方に暮れることもできず、前にも後ろにもいけない心地がする。


 夏陀が自分を生涯見捨てるわけがないという、根拠のない自信があった。約十年で信頼関係は築いてきた。それ以前に、立憐たちの間には満砕というかけがえのない存在があった。


 信頼関係は間違いなく存在した。夏陀は当然、後任を考えていたのだ。むしろ、その後任者を据えるために、夏陀は巫子専属の護衛の任を下りるという話だった。夏陀自身は、このまま神殿全体の護衛指揮に就くようだ。


「護衛兵は巫子様に付きっきりでしょう? 父上は母上との時間がなかなか取れないことを悩んでいました。もとから私が成人を迎えたら、護衛役を譲る算段だったらしいですよ」


 こっそりと教えてくれたのは後任――右南だった。


 夏陀が愛妻家なのは付き合いの中で十分に理解していたので、間違いないだろうと頷いた。


 夏陀は親だからと言って贔屓するような類ではない。立憐を守ることに関して真剣に取り組んでくれたからこそ、護衛兵の素養において妥協は許さない。実力がなければ世襲するつもりはなかっただろう。


 右南は夏陀の期待に応えてみせた。


 護衛兵が交代してから十三回、立憐の身に危険があった。将軍を務めていた夏陀の時代では様子見していた層が、右南を若者と見くびって仕掛けてきたのだ。


 対して、右南はすべての危険を察知した。毒物を見破り、夜分に神殿に侵入した暗殺者を伸して、不審人物を近づけさせないうちに排除してみせた。


 神殿の警固を改め、いっそう巫子の周辺の守りを強固にした。早々に、神殿にいる間は、立憐にほとんど危険がない状態に戻ったのだった。


 満砕と夏陀のときと変わらない安心感に、立憐の生活は安定していた。それを告げると「私はまだまだです」と謙遜する。一般的に父と兄が優秀だと性格が捻じれると聞いたことがあるが、右南を見ているとそれは嘘のように感じる。吏安に話してみると「右南様が珍しい部類なだけですよ」と告げられた。


 右南は素直で真面目な好青年だ。目標は父と亡き兄と語っている。美化されている一面もあるだろうが、彼らは実際に優れた人物なため、憧れるのも当然と言えた。


 満砕の義弟、夏陀の実子というだけではなく、立憐はすぐに右南を信頼に置いた。それは彼があまりにも実直な青年だったからだ。


「今日は暖かいですから、中庭で昼寝でもしませんか?」


 満砕が亡くなってからも、ときおり悪夢を見る。ひどかった隈はほとんど消えていたが、一度悪夢を見るとなかなか夜に寝つけない期間がある。


 すぐに右南は察して――それとも夏陀から引き継ぎがあったのかは知らないが――、昼寝を勧めてくる。当然、護衛の右南がともに眠ることはない。吏安が準備をしてくれて、木陰の下で寝つく立憐を見守ってくれる。右南の母、悠都の故郷の歌を口ずさんでくれると、すぐに睡魔に誘われ、健やかに眠れるのだ。


 また別のときには珍しい物を持ってきてくれたことがあった。


「珍しい果実を手に入れたんです。吏安殿に聞いたら、検閲のあとなら食べてもいいって言われました!」


 柑橘系の皮に包まれた楕円形の果物。その外側は紫色で、少しだけ毒々しい色だと思った。「食べましょう!」と笑顔で言われてしまったら、食べたくないと言える空気ではなかった。いつもそばにいる吏安は、なぜか部屋に姿がなかった。


 吏安のやつ逃げたな、と立憐が思っているとき、右南は鼻歌を奏でながら果物を一口大に切っていた。


 右南を盾にするように後ろから覗く。怖いもの見たさ、というのはこういうときに使う言葉なのかもしれない。怖い、という感情がまだ分からない立憐にとって、それは未知に対する食わず嫌いに近かった。


 中身は鮮やかな赤の果肉が詰まっていて、この色も見慣れた色ではなかった。世間に疎い立憐にとって、知っているもの自体多くはない。それでも食べ物がして良い色ではない気がした。


 心がぞくぞくと沸き立っている気もするし、全身に鳥肌が立っている気もする。落ちつかない様子を察した右南が、からかうような笑みを向けてきた。立憐はその笑みがよく分からず、とりあえず良くないものと判断した。


 右南の口に押しつけるように切った果物を放りこんだ。


 「うっ」と呻いた右南は口を手で抑え、酸っぱい物を食べたあとの顔をする。どうやらかなり酸っぱい代物のようだ。


 立憐は急いでその場から逃げようとした。すぐに、飲みこんで耐えた右南によって取り押さえられる。彼はにっこりと笑って「一蓮托生ですよ」と果物を立憐の口に押しつけた。反射的に口を開けてしまい、口内に酸っぱさが広がる。涙目になってもだえる立憐に、右南は大笑いを上げるのだった。


 巫子に対して不敬だとも、年上への態度がなってないと言うこともできなかった。それから果物をお互いの口に入れ合っては、あまりの酸っぱさにのたうち回る。


 様子を見に来た吏安によってお説教が飛ぶのはすぐのことだった。二人して正座をさせられ、「食べ物を粗末にしてはいけません!」と叱られた。


 そういった誰にでも起きるような日常の時間を右南は作ってくれた。それはとても満砕のことを思いださせた。


「私はただ兄上を真似ているだけです」


「僕は右南の優しさだと思うけど」


「『したい』『やってあげたい』って思うのは私なんですけど、やっぱり兄上が理由なんですよ。兄上をよく知っているあなたと、私がただ楽しい時間を過ごしたいっていう。ただの我儘なんですよ」


 それは我儘とは言わないよ、と続けようとしてやめる。


 満砕の弟を、いつしか立憐も自分の弟のように思っていた。


 右南に屈むように頼んで、下がってきた頭をなでてやる。彼はなぜなでられているのか不思議そうに首を傾げたが、立憐自身もなぜ頭をなでたくなったのか分からないため、気が済むまでなで続けたのだった。


 右南は立憐に「兄」を求めては来なかった。立憐の見た目や態度が年上らしくない、というのも大きかっただろう。お互いに自分たちの関係を守る者、守られる者よりも「友達」に近かった。


 満砕以外の友達を持つのは初めてだった。年齢も違うため、その名称が正しいかは知れない。一番近い言葉を探すなら適しているのが「友達」だっただけだ。


 右南は満砕との思い出話をよく揺すった。逆に、立憐も思い出話や悠都の歌を願った。満砕が歌ってくれた歌と同じ歌詞なのに、どこか違う歌に聞こえるのはなぜだろうと思っていた。


「それはきっと、兄上が歌った歌は母上から教えられたからです」


 どう違うのかと首を傾げると、右南は頬をかきながら教えてくれる。


「私は兄上が歌った歌を頭に浮かべてしまうんです。母上にも歌ってもらったし、曲調もまったく変わらないのに。今歌ったのは兄上の方だ、って自分でも思ってしまって」


 右南の歌は満砕直伝なのだと納得した。


 それから右南は、眠るときには満砕に子守歌を頼んだと、懐かしさをにじませた。


 まだ十にも満たないときに、右南は兄を亡くした。その原因となった立憐を恨むことなく、父親同様に巫子に仕える道を選んでくれた。


 立憐も満砕も、瓏家には多大な恩がある。満砕はもう二度と恩を返せない。


 立憐はいつになったら、彼らに恩返しができるだろうか。


 時間はあっても、彼らと生きる時間が違う。立憐はまだ、この一人取り残されたような「寂しさ」に慣れることができそうになかった。


「……満砕がいてくれたらな」


 思わずつぶやいた台詞は、当然そばにいた右南の耳にも入っていた。


 普段弱音を吐かない立憐だ。右南は少し驚いた顔をして、悲しそうに目を細めた。


「そうですね。私も会いたいです」


 二人の間に湿った空気が流れた。悲しい気持ちにさせたいわけではなかった。思わず出てしまった言葉を撤回しようと口を開こうとして、その前に右南が陽気に笑ってみせた。


「巫子様は兄上が大好きですよね! 最初から仲が良かったんですか?」


 先を越されたと思いつつ、問いに対して立憐は首を横に振った。


「ううん。……最初は近寄りがたかったんだ。うまく、言えないけど」


「そうなんですか? じゃあ、いつから友達に?」


「いつから……」


 尋ねられて、記憶をさかのぼる。


 満砕は本当に年少のころ、親にべったりで村人の誰とも関わらない子どもだった。すごい人見知りだったのだ。年の同じ立憐と両家の親が遊ぶように促しても、満砕は母親の足元から離れようとはしなかった。


 立憐も自分から率先して話しかけにいくような行動力を持ってなかった。消極的な二人は顔を見合わせても、すぐにそらしてしまう関係だったのだ。


 関係が変わったのは、満砕の両親が亡くなったのが原因だった。


 病死だったと聞いた。満砕の親は流行り病に罹り、隔離され、同時期に亡くなった。


 一人健康体だった満砕は、村の長老のもとに預けられていた。訃報を知らされても、幼い子どもが真に理解できることはできない。ただ自分は一人ぼっちになったのだということだけを敏感に察していた。


 そのまま長老とともに暮らす方向に村の大人が話していたとき、満砕は両親と過ごしていた家から出てこようとしなかった。布団にくるまり、部屋の隅にじっと固まっている。ここから離れてたまるか、という幼気な籠城に、大人たちが家の前で立ち往生していたのを覚えている。


 子ども心に、満砕の一大事なのだと感じていた。満砕のことはほとんど何も知らなかった。ひどい人見知りの、甘えん坊。自分のことを棚に上げて、付き合いづらいと思っていた。


 しかしこのときばかりは、立憐は満砕のために何かしたいと思った。助けてあげたい、などと正義感を持ち合わせていたわけではない。当時の原動力が何だったのか、立憐でさえ覚えていない。


 満砕のそばに行かなくては。考えていたのはただそれだけだった。


 家の外側に木箱を積んで、鍵のない窓から家の中に侵入した。窓から下りるときに地面が遠かった。他人の家に勝手に入りこんでいる事態に興奮していた。いつもなら足が竦んで泣きべそをかいているはずだった。


 勢いよく窓辺を踏んで飛び降りる。無事に着地はできたものの、体勢を崩して倒れてしまった。


 ドタンッ


 盛大に立てた音は部屋に響いた。外の大人たちに聞こえてしまっただろうか。恐る恐る腕に力を入れて体を起きあげる。


 すると、部屋の入口にこちらを凝視している子どもと目が合う。


「ばんさい?」


 唯一の住人である満砕は、驚いた顔のまま立憐を見つめている。猫のように大きな目がじっと立憐だけを見ている。


 いつもそらされてばかりだったため、これほど見つめ合ったことはなかった。満砕の目の青色がとても美しいものだった。息を呑む立憐に満砕は小声でささやく。


「……なんのよう?」


 今にも泣きだしそうな目を揺らめかせ、侵入者をにらみつけている。


 立憐はいまさらになって自分の行動に慌てた。何の用で来たのか頭を動かして、しゃがんだままであることを思いだした。急いで立ちあがり、満砕の方へ歩を進める。


 近づいてきたことに驚いた満砕は後退しようとした。立憐はその前に手を差しだす。


「ぼくが、いっしょにいるよ!」


 小さな脳は満砕の状況を理解していなかった。両親を亡くしたことを、立憐がはっきりと知ったのはもっとあとのことだ。


 満砕が一人ぼっちになった。知っていることと言えばそれしかなかった。


「ぼくといっしょにいよう」


 満砕を愛していた両親と同じにはなれないかもしれないが、そばにいることはできる。立憐は満砕のそばにいたいと思ったのだから。


 満砕は大きな目をさらに大きく見開いて、差しだされた手を見た。それから立憐をまっすぐに見つめた。くしゃり、と顔を歪めて、音もなく泣きだしたのかと思ったら、大声を上げて泣きだしてしまった。


 立憐はびっくりして、満砕に駆け寄る。その小さな手を両手で包んで、「大丈夫」「そばにいるよ」と話しかけ続けた。いっそう満砕は泣き声を大きくする。


 外にいた大人たちは満砕の盛大な泣き声に駆けつけて、立憐と手を握り合いながら泣き続ける満砕の姿を見つけたのだった。


 満砕は立憐の両親に引きとられた。同じ村に住んでいる者はほとんどが家族と変わりない。村人全員で子どもたちは育てられていた。


 立憐の宣言通り、満砕のそばにずっといた。満砕も本来の性格を見直して、立憐を引っ張って進む兄貴分に変わっていった。


 一人になって泣いていた子どもは、もういない。


 立憐が巫子に選ばれて連れ攫われる日まで、立憐と満砕はずっとそばに居続けていたのだ。


「兄上にとって、巫子様は光だったんですね」


 掻い摘んで昔語りをすると、右南は目を細めて微笑んだ。


「光……?」


 そのような神々しいものではないのだが、と否定しようとする。


「光ですよ。孤独の中、目の前が真っ暗な中、差しこんできた光が巫子様だったんです。それがどれほど兄上の心を救ったか」


 右南は目もとにしわを寄せてはにかんだ。


 自分ごときが満砕を救えていたのか。


 衝撃が立憐を襲う。長いこと神殿に閉じこめられる生活が続いているため、満砕に救われることに慣れてしまった。


 立憐こそ、満砕は光だった。


 その光を遠い過去で自分が救えていたとは。光のために、何かができていたとは。


 「嬉しい」という感情が爆発しそうになる。涙で発散することができない立憐は、口を中途半端に開けて閉じてを繰り返す。


 兄と同じ笑みを浮かべて、右南は立憐を見つめていた。


「巫子様は兄上のことが大好きなんですね」


 陳腐でいて、的を射た言葉に立憐はまたしても別の衝撃を受ける。


「大好き……?」


 あまりにも初めて聞いた台詞というように首を傾げる立憐に、右南はきょとんと呆ける。


「大好き……」


 言葉を繰り返しつぶやく。何かが頭の隅で引っかかっていた。


 立憐は満砕のことが好きだ。


 親友として、家族として。


 でも、それ以外にも何か――


「……大好き」


 頭に熱が溜まっていく。風邪の熱にうなされたときの熱さとは別の、体温の上昇。全身がくすぐったい。目頭と眉間に痛い。無性に泣きだしたい。


 顔が赤くなっている気がする。両頬を手で包んで黙りこんだ立憐に、右南は目をぱちくりさせている。次第に生暖かい視線に変わっていくのを、気にかける暇はなかった。


 立憐は計らずも、満砕への思いを自覚してしまったのだった。


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