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第三章⑩

 満砕は右南が集めた書物を三年かけて読みふけった。仮定を立て、解答に繋がる結果を予想する。読みこんでも、頭の中で組み立てても、求めている答えは考察の域を出なかった。


 気づけば、右南は百歳という節目を迎えていた。さすがに思考の速度も、動きも鈍くはなっていた。しかし、はるかに一般的な高齢者と比べると、生命力が感じられる。緩やかな時間を過ごしているだけのように見えた。


「曾爺様、満砕のことは私に任せてくださいね」


 満砕と右南の秘密の勉強会には、いつの間にか麗蘭も紛れるようになっていた。


 「曾爺様と何をこそこそとやってるの?」と問われたときは、心臓がどっと波打った。さすが瓏家の血筋と言うべきか、よく周りを観察している。


 麗蘭には立憐のことは触れず、巫子や献栄神について調べているのだと答えた。大好きな「曾爺様」と同じことをしたかったのか、彼女はすぐに自分もやると乗ってきた。


 子どもの若い脳ならではの考えを教えてくれたり、懇々と書物を読みこむ満砕を気遣ってくれたりと、麗蘭は日々の研究で摩耗する心を癒してくれる存在だった。


 その麗蘭が、右南が百歳のときに言った台詞が、満砕の所属に関する話題だった。


 右南は一瞬虚を突かれた顔をして、ほっと安堵のような息を吐いた。そしていつもの曾孫を見つめる優しい目で麗蘭に向ける。


「それだけが私の心残りだったんだ。麗蘭、満砕のことをどうか頼むね」


 満砕はそのとき初めて義弟の本音を知った。百歳を超えた右南は、いつ亡くなってもおかしくはないのは事実だ。


 現在、満砕が自由に知識を植えつけていられるのは、右南の協力があるからにほかならない。右南の庇護がなくなれば、満砕はもとの家僕の仕事に戻る必要がある。


 きっと右南は、当人である満砕よりも、そのことを危惧してくれていたのだろう。


 次期瓏家当主として期待されている麗蘭が、右南の思いを汲み、満砕の所属を引き継ぐと宣言してくれたのだ。


 事態を理解した満砕は、麗蘭に向かって深く頭を下げた。


「麗蘭様、ありがとうございます。どう感謝をお伝えして良いか……」


「あなたは調べたことを私に教えてくれれば良いのよ。満砕ほどの熱中はないかもしれないけど、私も知りたいもの」


 何てことのないようにさらっと言いきる麗蘭は、金色の長い髪を後ろに流した。


 ――瓏家の方はみな素敵な人ばかりだな。


 感慨にふける満砕に、右南も麗蘭も同じ優しさを含んだ笑みを向けてくるのだった。


 右南は満砕という気がかりがなくなったからか、それとも節目を超えたせいか、眠る時間が多くなった。昼寝をすることも多くなり、満砕が思案する横で、長椅子に寄りかかって眠っていた。


 麗蘭が遊びに来ても、右南が寝ている場合は、お互い無言で書物を読みこむだけだった。


 しばらくして、声を発しないまま、麗蘭は退席するという視線を向けてきた。いつもの予定であれば、剣の稽古の時間だ。満砕は会釈だけを返した。


 右南の静かな寝息だけが聞こえるだけの空間。ときどきかき消える呼吸音にどきりとする。息をしているか、苦しそうではないか。満砕は頻繁に細くなった目もとを確認する。


 目を瞑っている右南に、何度も「生きてくれ」と願ってしまった。それは人の死生観に反する願いだった。


 人はいつか死ぬことを、満砕は零周目の両親のときでよく知っていたはずだったのに。


 満砕はかつても同じように「生きてくれ」と願ったことを思いだした。


 零周目の最期、満砕は立憐にその言葉を遺して死んだ。


 ――あんなの、良い逃げだ。しかも……。


 満砕の願いを実現することができる立憐に向かって言ったのだ。


 ――まさか。


 ――立憐が百年以上生き続けているのは……俺の、せいか?


 思わず口もとを抑える。そうしなければ、悲鳴のような醜い声が漏れでてしまっただろうから。


 その可能性をどうして今まで思いつかなかったのか。


 立憐が親友の死を悼んで、最期の願いを叶えてやろうと思い続けているのであれば。


 それは、呪いをかけたことと同義だ。


 ――この俺が、立憐を縛る側になるなんてっ!


 なおさら、再会することなんてできるはずがない。どのような顔をして、立憐に会えば良いと言うのか。


 先に死んで、暢気に生きて死んで、生き返った自分が。


 長い時の輪に囚われた友に会って良いものか。


 ――会えるわけ、ないじゃないか……。


 大きな奈落に吸いこまれる心地がして、満砕は今どこにいるのかも分からなくなった。


 さあっと頭から血の気が引いていき、体温を感じられない。嫌な汗が首の後ろから冷たい背中に流れていく。無意識に震える唇を手で抑えることで、飛びでていかないようにしなければとそのときに真剣に思った。


「――難しい顔をしていらっしゃる」


 声をかけられて、はっと前を向いた。


 温かな日差しが右南の横顔を照らしていた。目を開けて穏やかに微笑んでいる。満砕の目とまっすぐにかち合った。


「何かお悩み事ですか? この老人に話してみては?」


 満砕は口を開こうとして、声が思うように出なかった。口もとを抑えているせいでもあった。ゆっくりと固くなった手を離し、揺れそうになる視線を右南だけに集中した。


「……場合に応じて老人ぶるなんて、卑怯だよ右南」


 返答すると、右南は高く笑い声を上げた。


「私ほどの老人も、早々にはおりませんとも」


 右南は麗蘭を見つめるときと同じ瞳で満砕を見つめていた。


 歯がゆくて耐えられなくなった満砕は、窓の外の日向に目をそらす。まぶしくて、温かくて、あまりにも平穏とした色に、またしても耐えられなくて下を向いた。


 目の前にいるのは、義弟ではなかった。


 百年生きてきた、瓏家の大旦那だ。


 零周目の満砕は、もうこの時間軸にいないということを痛感した。


 だからこそ、思いのほか簡単に吐露することができた。


「俺は、……俺の好きな人には平和なところで、幸せに暮らして、それで長生きしてほしいと思っている」


 自分に関わってくれた優しい人たちの幸福を願ってきた。


 零周目のときの村人たちにも、夏陀や悠都たちにも、一周目でともに商家を支えた従業員にも、二周目で関わった友人たちや村長や家僕のみんなにも。変わらない平和な時の中で過ごしてほしいと願わずにはいられなかった。


「そのためなら、俺はどんなことだってできる。……なのに、どうしたって上手くいかないんだ」


「それは、とても傲慢ですね」


 優しい声音からは想像できないほど、右南の口から出た言葉は辛辣だった。


 矢のごとき速度でまっすぐに届いた言葉を、満砕は面と向かって受けいれる。


「義兄様が思っていることを、私たちも同じようにあなたへ思っているからですよ」


 目から鱗が落ちた心地だった。驚きとともに顔を上げると、右南はやはり穏やかな笑みを称えてこちらを見つめている。


「そのことにあなたは気づいてくれない。自分を大切にしてくれない。遺された私たちの気持ちなんてちっとも分かってくれない。――恨みましたよ。どうして置いていってしまったのか。自分も助かる道を選んでくれないのか。満足そうに死んでいってしまうのか」


 右南の発言はどれも棘が含まれているのに、先端は丸みを帯びていて、ぐさりとは刺さってこない。しかし、満砕の胸の中にはしっかりと残っていった。


「あなたがいないと、私たちは幸せになりません。それを分かってくれていない時点で、私たちは一生幸せになれることはないでしょうね」


 どこまでも右南の声は平静だった。


 満砕はもがくようにして、右南の足元へしゃがみ込む。右南のしわだらけの両手を掴んで、額に押しつけてすがった。


 あまりにも情けない姿だったに違いない。それでも満砕は矜持を捨てて、何かにすがりつくしかできなかった。


「でもっ! でも、俺は……これ以外の生き方を知らないっ!」


 血を吐くような悲痛な叫びに、満砕は一瞬、これは自分の声なのだろうかと疑った。口は勝手に回った。


「きっと立憐が、俺の大事な人たちが危険な目に合えば、俺は自分を盾にしてでも守り抜く。自分が死んだとしても、大好きな人たちが生きていてくれさえすれば、俺は報われた気持ちでいられる。勝手だって分かってるのに、分かってるのに――その選択以外を取れないんだっ!」


 右南の言葉を受けいれて、改善できれば話は早い。


 だが、自分を犠牲にして愛する者たちが生きられるのならば、満砕は何も考えずに選択してしまう。体が勝手に動いてしまう。性分が、本能が、満砕を動かしてしまう。


 自分の体が小刻みに震えているのが分かった。冷静な頭で、惨めな兄を見ないでくれと思う。弱い部分を弟に見られるのは、兄として何よりも恥ずべきことだった。


 それなのに、今の満砕は右南に拒絶されることがとてつもなく怖かった。


 そっと掴んでいた手が動き、引き抜かれる。ああ、右南が行ってしまう。拒絶されてしまった。


 愕然としたとき、離れていった手は満砕の背をなでた。穏やかで、優しくて、それはかつての義母と同じ動きだった。懐かしい、と心が喜びで弾けた。


「義兄様、分かっています。あなたはそういう人だ。私も、立憐様も、そのことを分かっています。そんなあなたを愛しています。愛しているから――」


 震える体を鼓舞して、満砕は前を向いた。日光に照らされた右南が、変わらない慈愛で見つめてくる。


「愛しているから、今もあなたを待ち望んでいるのですよ」


 それが、立憐が今もなお生き続けている答えだと言うように、右南は教えてくれた。


 耐えきれなくなった涙はぼとぼとと膝を濡らす。揺らめく視界の中で、右南は穏やかな笑みを向けてくる。


「義兄様の泣いている姿なんて初めて見ましたよ」と右南がからかってきた。その右南の体にすがりついて、満砕は涙を流し続けた。


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