巫子歴百年を祝う大祭から十年が経過し、満砕は二十七歳になっていた。
巫子の誕生を祝う祭典は毎年行われるが、十年おきに規模は盛大化する。今年はその節目でもある十年区切りの、巫子歴百十年の大祭がある年だ。
「当然、満砕は私の従者として連れていくわよ」
十年前、民衆に紛れて「初めて」巫子を見たときと同じように、今回も遠目で立憐を見守ることになるだろうと思っていた。
だからこそ、麗蘭の提案に、満砕は何を言われたのか理解できずぽかんとしてしまう。「何その顔?」と麗蘭にからかわれてしまった。「ちょっと、お茶がこぼれるわ」という指摘を受け、はっと我に返った。
「わ、私を連れていってくださるんですか⁉」
「そうよ? 巫子様を間近で見られる機会なんて早々ないし、楽しみを共有してあげなくちゃね」
何て素晴らしい主だろうか。自然と目が潤んだ。麗蘭を崇めるように見つめると、彼女は照れくさそうにそっぽを向いた。
自分はかけがえのない主を二人も持った。満砕は主を誉め称える言葉をつらつらと連ねた。すべて本心であった。麗蘭は次第に顔を赤く染めていく。気恥ずかしさを隠すように、茶を催促されたので、一段と美味しくなるよう丹念に準備をした。
巫子の護衛兵の縁者であれば、かなり近くで立憐を見ることができるだろう。運が良ければ、わずかでも会話ができるかもしれない。
――そうなったとき、俺は何と言おうか。
正体を明かすか。自分はかつておまえの親友であったのだと。
いや、ただの同名の男としか思われないだろう。頭のおかしい者を雇っているとして、瓏家に非難が向いてしまったら本末転倒だ。
満砕と立憐の二人にしか分からないことを言ったならば、どうであろう? 二人だけにしか共有していないことなど、いくつも思い浮かべられる。
それらを口にしたならば、立憐が取りなってくれるだろうか。そもそも――
――立憐は俺のことなんて……
忘れているかもしれない。その考えは満砕の不安をいっそうかき立てるものだった。
右南の口ぶりでは、立憐は長いこと満砕を思っていてくれたらしい。しかし、右南が護衛兵を退いてからも、ずいぶんと長い時が経っている。それは思考も記憶も心も、変化するには十分な時間だ。
満砕はかぶりを振って、腹の底に力を込め直した。
――何を怖がってるんだ! 立憐に会える。それ以外に何を考える必要がある⁉
自分を鼓舞して気持ちを切り替え、大祭までの日取りを指折り数えた。
王都では大祭の飾りつけや準備で慌ただしく駆け回る民がよく見かけられたが、瓏家の屋敷内は至って変わらない日々が過ぎていった。
武人としてそれぞれの場所で活躍する瓏家の人々は、屋敷ではあまり見かけなくなった。警護のために先頭きって動き回っているのだろう。祭りの最中に暴動が起きた前科があるのだから、警戒はいくら強めても何も問題はない。
しかも、最近は近隣諸国の中でも、特に
明日螺国は献栄国に比べて歴史の浅い国家だが、もとが戦闘民族を多く生んだ地であるため、軍事に長けている。
その明日螺国の関係者が献栄国を出入りしようとして、結界に排除された。即刻取り締まられたことが数回あった。国境付近で何者かがうろついていたことも確認されている。
諸外国が献栄国の結界を疎ましく思っているのは明らかだ。結界がなければ、安全な地にいる国民を崩すのは容易だろう。侵略を企む国々はいかにして献栄国を落とすか試行錯誤を続けている。
献栄国軍が安心して外国ににらみを利かせていられるのは、国の保証がされているからだ。巫子がいる限り、国の守りは完璧だ。
その認識を瓦解させたい大国や近隣諸国との戦いは、大小問わずに起きている。
満砕はこの体制があまりにも巫子一人の負担が大きいと感じている。しかし、七百年以上守られてきた功績が、巫子を絶対的なものとして国民の感覚を麻痺させているのだ。
であるならば、せめて巫子への守護をもっと強化してくれと、満砕は今も昔も思うのだった。それは自国に対しても、献栄神に対しても。巫子が大事であるならば、結果に示してくれないかと。
巫子が生きていることが証明だと思っているのだろうか。立憐が生きているのは、奇跡の上にあるようなものだと、気づいていない者が多すぎるのだった。
大祭の当日、満砕は家僕の身には上等過ぎる着物を与えられた。着飾った麗蘭の背後に控えると、幾分か見える世界が変わったように感じられた。
巫子の祝祭の日は決まって快晴となる。それはまるで献栄神までも巫子の誕生を祝っているように思えた。
王宮の正門前に備えつけられた櫓は、零周目のときと変わらず、立派な石造りでできていた。櫓は巫子の上る高台と、そこから一段下がったところに賓客たちが勢ぞろいする観覧席があった。
満砕を伴った麗蘭は観覧席の末席に連ねている。彼女は先ほどからさりげなく辺りを警戒している。瓏家の者は国と巫子を守ることに命を懸けているものばかりだ。瓏家の血を引く麗蘭もまた、この特別な日を問題なく執り行えるよう、一段と周辺に目を凝らしていた。
満砕もまた、零周目のときの警護の意識を総動員させ、異常がないか確認していた。武人ではない満砕に剣を振るうことはできないが、鋭い目は衰えさせてはいない。
広場には国中から集まったのではないかと錯覚するほど、大勢の国民たちが今か今かと巫子の登場を待ち望んでいる。その一人一人に目を配る勢いで、満砕は神経を尖らせていた。
一瞬で空気が変わったのが分かった。
それは切なさと懐かしさをこみ上げさせ、そしてなぜか全身を震えさせた。言葉にならない感情の音だろうか、「ああ……」と情けない声を上げていた。
王宮と櫓を繋ぐ出入口が開き、目と鼻の先に――巫子が現れた。
歓喜が胸のうちからあふれた。
――立憐っ!
真っ白な装い。服と同じ純白の髪が背後に流れる。白い面で顔を隠し、その奥で宝石のごとき紫色が輝いている。陽の光に反射して、きらきらと弾く姿は、心底神聖みを帯びていた。
目の奥から涙が込みあがった。
これほどにも近くにある友の姿に、手を伸ばしそうになる。不審な態度となることは必至で、満砕はぐっと飛びでていきそうな気持ちを堪える。
音もなく涙を流す満砕を誰も目に留めない。なぜならば、皆の視線は巫子に釘付けだからだ。
満砕は心中で何度も強く「立憐」「立憐」と呼びかけた。
しかし、立憐はこちらをちらりとも視線を向けることはない。事務的な乱れのない動作で、櫓の高台への階段に足をかける。
この距離が、国を守る偉大な巫子と、ただの平民との差であった。
ひどく遠い存在だった。張り裂けそうになる思いが、立憐に会えたことの喜びと混じり合っていた。