立憐が階段を上り終えたとき、民衆からはわずかに姿が垣間見えたのだろう。乱雑な声が、一斉に歓声へと変わった。
高台の前方に歩んでいく。立憐の動きは洗練としていて、巫子としての威厳が備わっていた。無垢な子どもの姿を守護していた零周目のときと比べると、青年期のたたずまいは誰もが見惚れるほどに立派だった。
感情をなくしてから人形めいた美しさを宿していたが、今の立憐は人間離れした神がかった美があった。
現状を素直に喜べないのは、立憐が人間である事実を確固とした認識があるからだろう。
高い位置に立ったことで、強風に立憐の髪が流される。背後になびく白い髪は日光に照らされた川面のようにきらめいている。
優雅に手を振る立憐の動作に、いっそうけたたましい歓声が上がった。巫子に向かって手を伸ばす国民。絶対に手が届かないと分かっているのに、国を守る偉大な存在に少しでも近づこうと、みな必死であった。
満砕は民衆に視線を向ける立憐の横顔を、観客席から見ていた。高台の上にいる友の姿を見あげる。
立憐といかに遠い立場にいるかを、満砕は再確認した。
巫子である立憐と、平民である満砕とでは、同じ立ち位置にはいられないのだ。心も通っていない今は、なおさら遠く感じられた。
「何をそう悲壮な顔をしているの?」
いつの間にか見られていたのか、麗蘭は視線を向けずに話しかけてきた。
「……そんなにひどい顔をしていますか?」
ほかの賓客に聞こえないよう、小声で返す。配慮しなくとも、この喝采の中ではかき消えてしまうだろうが。
麗蘭の耳には届いたようで、くすりと含み笑いが聞こえた。
「ええ。あなた、迷子のような子どもみたいよ」
その指摘には、少なからず自覚する部分があった。
満砕は今、立憐のそばにいられない無力感と、自分の行く道が分からず、途方の暮れた心地に苛まれている。
ずばり言い当てられた満砕は、立憐のことを見ていられずに顔を下に向けた。
満砕より背が低い麗蘭の顔が、こちらを見ていることに気づいた。その顔は幼子を見守る母親のようだった。彼女の方が自分よりも十以上、転生した年数をいれるならばさらに離れているというのに、麗蘭の方が年長の余裕があった。
「満砕、あなたはもっと我儘になって良いのよ」
「……右南様には何度か『傲慢』だと言われました」
「あら。それはきっと正しくはないわ。あなたは口先で『ほしい、ほしい』と言うけれど、実際は何も手に入れられていないのよ」
何を根拠に言っているのか不思議だった。
そう顔に出ていたのか、麗蘭は「ずっと見ていたから分かるわ」とくすりと笑う。
「あなたがしたいことをして良いのよ。それがどんな結果になったって、あなたの人生なんだから。誰かが文句を言ったとしても、気にしては駄目よ」
まるでいつかの右南とは真逆なことを言う。
だが、右南の優しさも、麗蘭の優しさも、温かさは変わらない。
満砕が麗蘭に返事をしようとして口を開いた。
そのとき、ひゅんっと風を切る音が聞こえた。歓声に紛れて何か重いものが投擲された音。そのあと、がっがっと鈍い音を耳が拾う。
音の方向を瞬時に聞き分ける。
観客席の側面を見ると、そこには鉄製の鉤がいくつも引っかかっている。そして、一瞬にして櫓の上に男が登ってきた。
平民然とした格好の男だった。常軌を逸した巫子信者が、櫓にまで侵入してきたかのように見えた。鉤に伝う綱は用意周到で、男のあとからも次から次へと別の男たちが登ってきた。その動きは軽やかで、何かしらの訓練を受けた者であった。
民衆の声が大きすぎて、衛兵はまだ男たちの侵入に気づいていない。賓客たちも異常を察した者はいないようだった。
満砕は麗蘭に視線を送ると、彼女は事態に気づいたところだった。
「私は衛兵へ知らせてくるわ」
いち早く走りだした麗蘭のあとを、満砕もついていく。
麗蘭は戦力にならない満砕を置いていくつもりだったのだろう。追随してきた満砕に対して、良い顔をしなかった。
「麗蘭様――!」
強く訴える視線を向けた。それだけで、麗蘭は分かってくれるだろうと思った。
はっと麗蘭の目の色が変わる。真剣な顔ではっきりと命じてくれた。
「良いわ、行きなさい!」
「はいっ!」
大きく返事をしてから、満砕は踵を返した。
満砕の目的の場所など、昔から何一つ変わっていない。
侵入者は、おそらく明日螺国の間者だろう。その実体は、反巫子派の献栄国の国民だ。
右南との結論の中で、外国の間者は悪意のある時点で献栄国に入ることさえできない。しかし、敵が自国の者であった場合、間者は生みだせるのだ。結界の外に一度も出ていない状態でありながら、外国と取引を行ったのならば、叛意があっても結界は間者を排除しない。
明日螺国の手にかかった献栄国出身の間者は、衛兵たちに姿を見られるのも構わずに、高台の方へと突進していく。その様子は突貫で、彼らが自滅を念頭にした襲撃であると分かる。
彼らの服の下におかしなふくらみがある。隠し武器を仕込んでいるか、もしくは爆発力の高い火薬が巻きつけられているのかもしれない。
襲撃してきた男のたった一人でも、巫子を巻きこんで死ねたなら、目標は達成となるという腹積もりなのだろう。
――そんな真似させてたまるものかっ!
満砕は長い足を無我夢中に動かした。高台の階段下を守っている二人の衛兵と視線が合う。必死の形相で向かってくる従者の姿に、衛兵は「止まれ!」と叫んだ。
「巫子を守れ! 敵襲だ!」
短く、的確に事実を伝える。一瞬だけ動揺した衛兵の間をさりげなく抜けて、満砕は階段を上った。背後から制止する声が聞こえてきたがすべて無視をする。
高台の上で巫子を守る衛兵が四隅に一人ずつ。巫子のそばには護衛兵がいる。見知った顔は麗蘭の父の兄弟である当代の護衛兵だ。
突然高台に現れた満砕を警戒する兵士たち。満砕は息を吸った。護衛兵時代を思いだし、腹から声を出した。
「敵襲! 櫓に多数の侵入者あり! すぐにこちらへ来るぞ!」
叫びに被るようにひゅんっと風を切る音が聞こえた。すぐに高台の上に侵入者が飛びあがってきた。平民の格好をした間者は、衛兵に視線を向けず、一心不乱に巫子へと突進を始めた。
衛兵が反射的に動く前に満砕は走りだしていた。
間者は足を止めずに服の前をはだけさせると、腹に巻いた爆薬に火をつける。風に負けない勢いで燃えだした導火線は短く、巫子に到達するころにちょうど爆発しそうだ。
満砕は呼吸を忘れて走った。立憐の前に護衛兵が立ちふさがるのが見えた。それでは駄目だ。火薬の量がどれくらいか分からない以上、護衛兵とともに立憐も怪我を負ってしまうかもしれない。
巫子へまっすぐに向かっていく間者たち。一人、また一人と衛兵たちに捕縛されていく。火を消され、悔しげな叫びを上げている。それでもまだ別の間者の勢いは止まらない。
唯一、巫子にたどり着きそうな間者がいた。火の勢いを弾けさせながら、巫子に手を伸ばす。その腕を、護衛兵の刀剣が切り飛ばす。それでも、間者の速度は止まらない。
「んぐっ‼」
突然の闖入者に間者はうめき声を上げる。間者の横腹に満砕は突撃したのだ。速さをとどめないで走り続けた勢いのまま押しだしていく。巫子の方向を通りすぎ、高台の下へとともに落下した。
間者の体に満砕は覆いかぶさる。もう二度と、立憐のそばには寄らせない。櫓の下に落ちた衝撃を受けても、満砕は間者の拘束を解かなかった。
腹の下で導火線の火がじりりと音を変えた。爆薬に火が届いたのだ。
――間に合った!
そう思ったとき、目の前が真っ白に弾ける。満砕の口もとは自然と笑みを作っていた。
光のあとに、鼓膜を破る勢いで爆発音が響いた。石造りの櫓を揺らす勢いだった。高台には影響がないことを祈る。
キーンと甲高い音が聞こえる。耳は正常に動いておらず、これは脳に響く音なのだろう。
満砕は自分が今どのような状態になっているか分からなかった。手足は動かない。目の前は真っ暗だった。何も見えない。
――間者はどうなった? 自滅したのか? ほかの間者は確保されたのか?
分からないことばかりで、誰でも良いから教えてほしかった。唯一知りたいのは、立憐は無事かどうかということだけだ。それだけで良いから教えてくれと叫びたかったが、喉も焼けただれて使えなかった。
「満砕っ‼」
主の声が聞こえた気がした。泣いている。気丈な彼女が泣いている。胸元に仕込んでおりた布巾を差しだしてやらなければ。
手に何かが触れた。小さいけれど、刀を握っている手だ。麗蘭が、満砕の手を握ってくれているのだ。
麗蘭に感謝を口にしたかったけれど、満砕はもう声をしぼり出せなかった。
「満砕……?」
――ああ……。
立憐が満砕を呼んでいた。
立憐は無事だったのだ。護れたのだ。
安堵が込みあがる。満足感にあふれて、満砕は呼吸を止めた。
頭に酸素が回らず、立憐の声も、麗蘭の声も聞こえなくなった。もしかしたら幻聴だったのかもしれない。そうでなければ良いと満砕は薄れゆく思考の中で思った。
最期に脳を駆ける思いがあった。やはり、立憐に「生きてほしい」という呪いがすうっと意識とともに消えていった。