凝視されていることには気づいていた。
――何かしただろうか……。
さすがに気が散ると思い、剣を握った腕を下ろす。
「……どうした?」
どう尋ねるのが正解か考えあぐねた結果、率直に聞いてみる。いつもと違うがいかがしたか、と。
援来は自分が注視していたことにもようやく気づいた様子で、むっと不機嫌そうに鼻の上にしわを寄せる。
分が悪いとでも思ったのか、素直に問いを口にする。
「その型を、どこかで見た気がしてな」
気になって見てしまったのだと、援来が最後まで口にしなくても理解できた。
満砕は深く納得した。自主訓練のときと同じように、思わず行ってしまった剣の型。一度見たことがあれば、この洗練とした型を忘れられるはずがない。
同時に「しまった」と反省する。どう言い訳をするのが良いかと黙っていると、援来が続きを促すように顎をしゃくった。
嘘を交えながらも本当のことを言うしかない。覚悟を決めて答える。
「瓏家の型だ」
援来は一瞬理解できないという顔をしてから、はっと目を見開いた。
「あの瓏家に指南を受けたのか?」
瓏家は優秀な武人を多く輩出した由緒のある家系だ。かの家に敬意を持っていない武人はこの国にはいないだろう。巫子の護衛兵の座は瓏家に一任され、不動の地位を築いて久しい。
その瓏家の剣術の型を、平民が使っていたのだ。驚くのも当たり前と言えた。
だが、満砕の場合、昔取った杵柄に過ぎない。零周目で体にも精神にも根づいた型は、満砕の核となって残っている。
その事実を援来に正直に語るわけにはいかない。
満砕は「いや」と否定を口にする。
「以前、型を拝見する機会があっただろう。あのときに見せてもらった型を覚えていただけだ。公の場で披露はしないから、大目に見てくれ」
瓏家の者が士官学校で剣術の訓練を請け負ってくれたことがあった。平民の満砕が瓏家と関わり合えたのはあの一度だけだ。
到底無理な言い訳だった。これでごまかせられなければ、逃げるしかないかと考える。
しかし、今までの満砕の武人としての模範的な姿勢を見てくれていたのか、
援来は疑う台詞を吐かなかった。
「まさか、一目見るだけで模倣できるのか?」
何かを考えこむように静かだったが、ぽつりと疑問を投げかけられる。
「瓏家の型は自分にあったから取り入れたんだ。我流の部分もあるから、本家のものととてもではないが同じではないさ」
「そうは言っても、随分と様になっていた」
援来からまさかそのような誉め言葉をもらえるとは思ってもいなかった。
虚を突かれてから、思わず声を上げて笑ってしまった。
「おまえにそう言ってもらえるなら、鍛錬した甲斐があったよ」
援来は容易に他人を、それも競争相手を褒める男ではない。それはあまりにも唐突に漏れてしまった本心だった。だからこそ、飾り気なく褒められた言葉が嬉しかった。
「何を……」
反論しようとした援来だったが、即座に自分の発した言葉を思い返したのだろう。彼の顔は屈辱か憤怒のせいか、真っ赤に染まった。
可愛らしい反応をするじゃないか、とにやついていると、援来は舌打ちをして踵を返していった。後ろを向いても、彼の耳が赤く色づいているのが目に入り、吹きだすのを堪えたのだった。
「調子に乗ってんじゃねえよ」
いつか援来に吐かれた台詞だと、場違いな感想が頭をよぎる。
発する相手が異なるだけで、こうも意味合いが変わってくるのかと驚きすらあった。
満砕は数人の柄の悪い男たちに囲まれていた。お世辞にも成績が良いとは言えない、劣等生の集団だった。
どの分野でも輝かしい成績を残している満砕へのやっかみであることは、簡単に想像できた。
――だったら少しでも真面目に取り組めば良いだろうに。
自分の怠惰を言い訳に、喧嘩を売るなど馬鹿馬鹿しいにも程がある。
集団であれば満砕に勝てると思っていることが、浅はかだと気づきもしていない。
「少し腕が立つからって目立ってんじゃねえよ」
「どうせ教官の靴でも舐めてんだろ?」
「やることがせこいんだよ」
だったらおまえらも教官の靴でも何でも舐めて成績を上げたらどうだろうか。と、反論はしない。返したら面倒なことになるだろうし、会話をするのも頭を悪くなりそうなので遠慮したい。
「何か言ってみろよ? その口は飾りもんか? あ?」
返答しない満砕の襟首を掴みあげる男。
――その掴み方じゃあ首は絞まらんぞ。
心の中で駄目だしをして、口は真一文字に閉じていた。
満砕が正当防衛の反撃をするには、少なくとも一撃くらいは浴びなくてはいけない。彼らの一撃であれば、威力は大したことはないだろう。
早く解放されないか、と別のことを考えていると、目の前にいた男は馬鹿にされていると気づいたようだ。顔をゆがめて、唾を飛ばして怒鳴ってきた。こぶしを振りあげたのが見え、話が早くて助かると頬に力を入れた。
ばしゃんっ!
こぶしの一撃が入るより先に、顔に大量の水がかけられた。ぽたり、ぽたりと水が垂れていく音だけが空間に落ちる。
濡れ鼠となっているのは満砕だけではなかった。満砕は顔だけで済んだが、劣等生たちは全身をびしょ濡れにして立っていた。満砕の目の前の男は、こぶしを振りかざした状態で、何が起こったのか分からない様子で呆然としている。
満砕は静止した男の腕を払いのけ、顔にへばりついた前髪を後ろに流した。
劣等生の集団の背後を見る。そこには盥を手に持った援来がたたずんでいた。
「今までの苦労を棒に振る気か」
劣等生たちを間に挟みながら、援来は満砕にだけ声をかけた。
この場で喧嘩騒動でも起こして、士官学校を退学する気なのかと援来は言っているのだろう。
そもそも自分から問題行動を起こすつもりのない満砕にとっては、大変遺憾であった。
「苦労とは思ってない」
拗ねた口ぶりになったのは援来への意趣返しだった。
「減らず口を叩き折って」
援来はふんっと鼻を鳴らした。
そのときになってようやく劣等生たちは我に返った。自分たちが第三者に水を引っかけられたのだと気づいたようだ。
「何すんだてめえ?」
怒鳴り散らした集団は、今度は援来に掴みかかろうとした。
「良いのか? 教官が見回りに来るぞ」
すぐに援来は攻撃の手を止める言葉を吐く。
援来が教官を呼んだのだと察した劣等生たちは、口々に負け犬の遠吠えを吐いて去っていった。
地面に点々と劣等生にかかった水の跡だけが残っていて、最後まで何とも間抜けだったな、という感想を抱いた。
「教官を呼んだのか?」
わざわざこのような些細な出来事に教官の手を煩わせたのかと思うと気が重かった。
「いや、ここが巡回場所の一つなだけだ。今日中には来るだろう」
だからこそ援来のその返しは目から鱗だった。満砕はぽかんっと呆けてしまう。
「……おまえもそんなとんちみたいなこと言うんだな」
「私ほど頭の回る者はいないだろ」
勝ち誇った笑みを浮かべる援来に、満砕は声を上げて笑ってしまった。
援来は満砕に笑われている意味を理解できず、いつもの仏頂面に戻ってしまった。
満砕はまだ顔に残る水気を拭ってから、にっと晴れやかな笑みを向けた。
「助けてくれてありがとな」
「……おまえは恥ずかしげもなく」
眉間にしわが寄ったまま、援来は苦虫を噛み潰したような顔をする。満砕があまりにも調子を狂わせる誠実な感謝の言葉だったからだろう。
援来は盥を片手に歩きだしてしまった。満砕も特にこの場に居座るつもりはないため後を追う。
「一つ貸しだ」
こちらに背を向けたまま、援来は一言告げてきた。陽気に笑みを浮かべ、満砕は「ああ、一つ貸しな」と応答した。