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第104話 でぃ

 家。


 中尾なかおだいの家は人里離れたところにある一軒家だった。

『肉体』の記憶を参照すれば、そこは祖母と二人で暮らしていた家だった。古い二階建ての一軒屋。いい物件だ。だが老朽化しているのは事実だったし、何より人のいる場所から離れすぎていて不便極まりなかった。

 大は通学時間を考えて寮のある高校へ通っていたが、祖母が亡くなると同時にここに戻った。……そこにはもちろん彼なりの考えや決意があったのだけれど、この時代に『高校を途中で辞める』というのは、第三者視点から言えば懸命な選択とは言えないだろう。


 学歴を積まない者には選択肢がない。


 それを理解出来ないほど大という人間は愚かではなかった。つまり……


 彼は、『選択肢』を望まなかった。

 中尾大は、生き残るつもりがなかったのだ。


「……参ったな」


 ディは家に戻り、呆然とする。

 古い二階建ての一軒家。ガラス張りの型の古い玄関をガラガラと横に開いて中に入る。家に入ってすぐ目の前には壁があって、その壁には四角く白い跡があった。

 これはもともと白かった壁紙がそこだけ劣化を免れているという事実を表すものであり、その劣化を免れた部分には、かつて大が描いた『家族の絵』が掛けられていた。

 祖母と大だけの絵。


 思い出す。


 恥ずかしいからこんな目立つ場所掛けないで欲しいなと思っていた。でも、祖母が嬉しそうだから結局、何も言えなかった。

 その絵は祖母が亡くなると同時に処分した。……額縁は、処分した。絵そのものは、祖母と一緒に燃やしてしまった。何もかもを処分しようと思っていたけれど、祖母のことを描いた絵はただ捨ててしまうのはためらわれた。だから、一緒に連れて行ってもらおうだなんて──別に死後の世界を信じているわけでもないくせに、そう思って、棺に納めたのだ。


 右へ進めば右手にトイレがあり、さらに少しだけ進むと突き当たって左へ曲がることになる。

 そうして右手側には仏間があった。ディの肉体は家に帰るとまず仏間に向かう。……仏間兼居間であり、その先に洗面所と風呂場、台所がある。家に帰って手洗いうがいをしようと思えば、どのみちそちらへと進むことになるのだ。


 ほとんど無意識に洗面所までたどり着いて、手洗いとうがいをすませる。

 中尾大はかなり几帳面な者らしい。……いや、几帳面というより、己で定めたルールを大事にする、という方が正しいだろうか。ディにもその『ごく一部のことに対する几帳面さ』は共感出来た。鏡で映る容姿も含めて、本当にこの『中尾大』というのは、『自分』らしい。


「でぃ~」


 そういえば、ここまで連れて来ていた奈々子ななこのことを思い出した。


 配信が大拡散され、とんでもない額のスパチャが入り、ネットニュースにまでなった。

 ……だから猫屋敷ねこやしき奈々子を連れてきたのだ。どうにも、奈々子がよくない燃え方をしているのを察することが出来たから。動画で弁明らしきことはしたが、奈々子は世間的に『男を騙して貢がせたあげくダンジョンの奥に捨てて、生きていることをなんらかの方法で知り、悪い情報をリークされる前に泣き真似芝居で情報拡散を牽制しようとした女』ぐらいにまでなっている。


『生きていることをなんらかの方法で知り』──どういう方法を想定されているのだろうか? 奈々子の出発は、ディが映像を配信する前だったというのに。その謎の情報源は一体どこにあるというのか?


『悪い情報をリークされる前に泣き真似芝居で情報拡散を牽制しようとした女』──そのために死ぬ可能性の高い三十階層まで来たのだとしたら、それは芝居だとしても立派な覚悟だとディは思う。それに、あの涙が泣き真似であるならば、奈々子はもっと別な売り方が出来る人材である。そういう器用なことが出来ないから、いつまでも底辺動画を配信しているというのに。


(……そうか、これは『怒り』か)


 ディは己の内側で渦巻き続ける『世間』への不満の原因に気付いた。

 怒りだ。奈々子のことを何もわかっていない連中が好き放題言っていることに対する怒り。


 間違いなく、中尾大は猫屋敷奈々子を好きだった。

 ……いや、好きというだけでは表しきれない。


 祖母の死をきっかけに始まった『あれこれ』によって生きる気力を失っていた中尾大が、生き永らえた理由。

 家の中身をほとんど処分し、あとは仏壇と最低限の家具を残して、それからこの家を手放して、あとくされなく死のうとしていたところを思いとどまった理由──


 中尾大にとって、猫屋敷奈々子は生きる理由だった。

 あるいは、『死なない理由』だった。


「……少し熱いな」


 意識してしまったところ、自分の肉体に体温の変化があるのをディは感じ取った。


 熱い。暑い。

 理由の一つは、ダンジョンからここに至るまで、ずっと奈々子が引っ付いているからだ。


 ダンジョンから出てバイクに乗って、一時間も走って家まで戻って来た。

 そのあいだ、バイクに乗っている時は仕方ないとはいえ、降りたあとも、今も、ずっと抱き着かれている。

 どれだけ泣くんだというぐらい泣いている奈々子を引きはがすのも忍びなくてこのままにしていたが、あまりくっつかれているのも、よろしくない……健全ではないな、という気持ちがよぎる。


 そして、夏だった。


 じわじわと蝉の鳴く夏だった。

 ちょうど祖母の訃報を聞いたのもこんな時期で、あの夏にこの命は終わる予定だった。


 でも、生きて、次の夏を迎えている。


「部屋にいてくれ。麦茶でも持っていく」

「やだ」

「『やだ』じゃない。着替えたいし。ダンジョン探索の格好のまま来てしまったから……」


 ダンジョン探索の『装備』は、体に貼りつくようなボディスーツだ。

 ただしこれは『下着』……そこまで言わないまでも、せいぜい『Tシャツとハーフパンツ』ぐらいの扱いのもので、ダンジョン探索が配信とイコールになった現代では、このボディスーツの上にいろいろ着るのが当たり前になっている。


 多くの者がきらびやかに着飾り、コンセプトを決めて動画を撮影する。

 もともとは『ダンジョン資源の不法な持ち去り』や『ダンジョンという閉鎖空間でのトラブルのためのレコーダー』という意味合いで義務化された『ダンジョンにいる間は自分か同行者がその姿をカメラで撮影していること』というルール。

 それが長じてダンジョン配信が始まり、DSダンジョンストリーマーというものが当たり前の世の中になるなどと、決まりを定めた者は予想していたのだろうか?


 配信は義務ではなく、撮影が義務である。

 だが一部の者はここを混同し、『配信した記録がないのに深くまで潜っている者』を『配信の義務を守らない違法なダンジョン探索をしている者』などと思うこともあるようだった。

 現に、ディは法を破っていない(同行者である奈々子が必ずカメラを起動していた。また、配信外で潜る時はディも自分で自分を撮影していた)のだが、『配信しなかったので違法』という間違いだらけの怒りを表明している者も、ネットにはいるようだった。


(インターネット、か)


 ナボコフやリュボーフィと出会い、『天使』と戦った世界にも、そう呼べるものはあった。

 だがあれはあくまでも『便利な道具』でしかなかった。だがこの世界は……『現実でもダンジョンでもない、もう一つの世界バース』と呼ぶべき場所として、インターネットが存在するように思える。


 ディは結局、奈々子を腰あたりに引っ付けたまま、麦茶とグラスを二つ持って、居間へと移動した。

 エアコンを起動すれば、型の古いエアコンははっきりとした駆動音を出しながら作動し、冷たい風をディに吹き付けてきた。


 心地よい冷たさに一瞬目を閉じてから、腰を下ろす。


 昔は八人ほどで囲める大きなテーブルがあったが、それももう処分してしまっている。


 今あるのは小さなちゃぶ台で、そこに並べた古いグラスと新しいグラスに麦茶を注いだ。


「奈々子」


 いい加減離れなさい、と注意のつもりで放った声はやけに優しくなってしまった。


 中尾大は奈々子に甘い。

 それが彼の声を優しくしていた。


「奈々子」


 もう一度呼びかけると、ようやく奈々子はディから離れた。

 でも半歩も遠ざからない。じっと、やぶにらみのようにこちらを見ている。


 そして、


「お、怒ってる?」


 ディはつい笑ってしまった。

『こう』なのだ。奈々子は、こういう女だ。謝罪は号泣しながらされた。だが、改めて一言ぐらい謝るのがきっと、世間一般における『許される人』の態度だと思う。


 けれど奈々子は真っ先に『自分が怒られているかどうか』を気にする。

 だから彼女は嫌われる。遠ざけられる。


 そして、自分みたいなのに世話されるんだろう、とディは思う。

 彼女は年齢にしても言動が幼かった。


「怒っていない」

「でも、いつもと様子が違う……」

「どう違う?」

「……わかんないけど、違う」


 勘違い、でもない。

 ……中尾大は、死んでいる。

 そして今、ここにいるのは、ディだ。


 明かすべきかどうか、というのをディは考えた。

 意外だった。自分なら迷わず事実を明かしたろうと思うのだ。だが、中尾大の肉体に入った自分は、奈々子の気持ちを慮った考え方をする。


(ああ、そうか。これが、『大事に想う』ということなのか)


 愚かだと思う。

 事実ははっきり告げるべきだ。怒る時は怒るべきだ。

 奈々子の言動は正しくない。この年齢の少女とはいえ、求められる『成熟』がなさすぎる。感情を抑えることが苦手で、調子に乗りやすく、それからやっぱり、愚かだ。

 そばにいる者は、これが社会に馴染めるように矯正すべきだ。第三者視点から語るのならば、それはもう義務でさえある。社会に出て迷惑をかけそうなこんな人間をこのままにしておくのは罪でさえある。


 だが、目の前にいる人間として、この心を希少だと思ってしまう。

 彼女がこうして純粋なまま生きて行ってくれたらどれだけいいだろうと、そう思ってしまうのだ。そういう想いのせいで、第三者的、社会正義的、道徳的に『正しい』方向へ彼女を歪めることをためらってしまう。


 愚かだった。

 客観性を持ちつつも、客観性というやつが、今ここにいる二人の願いより上位に来ない。未来の苦労より、今、目の前の人の心の方を大事に想ってしまう。


 だからきっと、これは恋なのだろう。


 しかも、恋の残滓。この気持ちはディのものではない。中尾大という死者のものだ。


「少し疲れたのはあるかもしれない。実際、死にかけた」


 ディは誤魔化して問題を先送りにしてしまった。

 抗えなかった。奈々子の心を守るためのタイミングがあって、それは今ではないと、そういう判断をした。……間違っているとわかりながらも、そういう判断にすがってしまった。


「……ディなら、余裕だと思ったの」


 言い訳から入るところも笑ってしまう。

 本当に子供のころから変わらない。……彼女は成長を拒んだ。幼い自分を脱ぎ捨てて大人の自分へなれという周囲の強制に噛み付き続け、幼いころの自分を維持している。


 奈々子にとって『幼いころの自分』を捨てることは、人生の目標をあきらめることに等しいから。


「三十階層前半なら、余裕だった。でも……よくわからないモノが出たんだ。それにやられかけた」

「それって」

「お前の父親を殺したモノかもしれない」


 奈々子は親を死なせた原因を探してダンジョンにもぐっている。

 もともとダンジョン調査は国が主導する公務だった。奈々子の父親も、そういう公務に就く公務員のうち一人だったのだ。


 第五次探査隊と呼ばれるその人たちは、まだ配信文化が始まる前にダンジョンに潜っていた英雄たちだった。

 当時の人々は見つかったばかりのダンジョンというものから資源がとれること、その中でRPGのような活躍がリアルに出来ることをようやく知り始めたころだ。

 そのちょうど、最盛期。『ダンジョンから戻る人たちは自分たちに進歩と繁栄をもたらすため命懸けで戦った英雄である』という風潮が強かったころ。大歓声を以て『出陣式』なんていうものさえダンジョンに人が入るたびに行われていた時代、その時代の、最後の英雄であった。


 奈々子の父親は第五次調査隊の中心メンバーのうち一人だった。

 猫屋敷さとし。教科書にも名前が載っている英雄。


 ただし、『悲劇の』英雄。

 ……第五次調査隊は、三十階層を超え、四十階層にたどり着いたと言われている。

 だが、全滅した。わずかな音声記録だけを残して。

 この事件から、ダンジョンに入る者は『常に』カメラを起動しておくことを義務化された。プライバシー配慮などもあり、同行者が起動していればいい、などの細かな注釈がのちに加えられたけれど。


『お前の父親を殺したモノかもしれない』と口走ったディはと言えば、


(そうなのか)


 と、驚いていた。

 これはまったく意識せず、口から滑った言葉だった。

 だからきっと、『中尾大』の見解なのだろう。


「許せない」


 奈々子の感情は起伏が激しく、それを抑えることが苦手だ。

 安心と不安からディにべったりくっついて泣きじゃくっていた彼女は、新たな感情を爆発させた。

『怒り』だ。


「『そいつ』は私から全部奪うんだ。許せない。殺してやる。殺してやる!」

「でもお前には実力がない」

「うっさい! なんとかするもん!」

「……俺が死にかけた相手だぞ」

「………………」


 奈々子はぐっと唇を引き結んで黙ってしまった。

 これは『そう言われて理解して黙った』というわけではないと、中尾大は知っている。


「死なないで」


 大が死ぬ悲しみが、怒りにとってかわったのだ。


 ディは話を逸らすことにした。


「自分の手で復讐したくないか?」

「したい」

「でも、お前は弱い」

「……」

「だから、俺と同じ方法で鍛えよう」


 ダンジョン配信世界──


 ここには魔法がある。


 1999年にダンジョンが見つかるまで、人類は科学技術だけをよすがに生存してきた。

 だが、ダンジョンに入り、そこで戦いを続けることで、魔法を覚えるようになった。


 また、ダンジョンから採掘・採取・狩猟される素材は、魔法の力を秘めている。

 正しくは『科学者が匙を投げる不可思議エネルギーおよびそれによって引き起こされる現象』を『魔法』と名付けたという話ではあるが──


 つまり、この世界で強くなるためには。


「ダンジョンにひたすら籠ってレベルを上げるんだ」


 地道な努力しかない。

 ディはディだ。どこの世界であろうとも、地道な努力をコツコツ積み上げる。

 特にこの世界は『ダンジョンに籠って何度も死にそうになりながら鍛え続ければ強くなれる』ということがわかりやすい。この世界のディ、中尾大にとってやりがいのある世界であったことだろう。


 ……だが奈々子は、『地道な努力』というのがとても苦手だ。


「やだ」


 普通に断る。

 ディは笑った。自分がこんなに『にっこり』出来るのかというぐらい、笑った。


「よし、引きずっていく」

「やだ! でぃ嫌い!」

「そうか。俺は好きだよ」

「…………~~~~~~~~~!!!!」

「どういう表情だ?」

「やっぱおかしくなった! ディはそんなこと言わないのに!」


 ディ。

 大。……幼い、舌足らずな少女がうまく言えなくて、『でぃ』と言った。そんな来歴を持つあだ名である。

 その呼び名には彼と彼女の思い出が詰まっている。無垢な信頼と、幼い兄妹のような甘えの許される関係性が詰まっていた。


 だからこそディは気が咎めるのを感じる。

『ディ』というのは間違いなく自分の名だけれど、この世界の『ディ』という言葉が想起させる思い出は、自分のものではないのだ。つい、ひるむように、黙ってしまう。


 だから、


「お前は強くならなきゃいけない。わがままが許されるぐらいに」


 ここからの言葉は、


「お前は目標を達成して、区切りをつけなきゃいけない。そして……」


 ディの言葉ではなく、


「……お前は、成長しなきゃいけない。『いつまでもお父さんにこだわってないで、大人になりなさい』と言われて、お前は大人になることを拒絶した。だから、目標を達成して、吹っ切らなきゃならない。いつまでも一緒にはいられないんだから」


「私のこと好きなんでしょ!? だったらずっと一緒にいてよ!」


 大の言葉を、ディは引き継ぐ。


「…………今回死にかけて、『そういうこと』もあるとわかった。だから奈々子、お前は強くなれ」


 奈々子は黙っていた。

 むくれていた。

 大人になることを拒絶した少女は、年齢にしては幼い、けれど、まだギリギリ許される、子供みたいな『怒りの表明』をしていた。

 でも、ディは『ごめん、悪かったよ』と言わない。怒らせて悪かったよ、とは謝らない。そう言ってもらいたがっているのを理解しているけれど──


 もう、そうも言っていられない。

 ディが入ったこの時間は、中尾大にとって、最後の、『大事なものを整理するための時間』だった。


「……わかった」


 奈々子はふくれっつらのままうなずく。


「今度、ディが死にそうになったら、私が助けてあげる。そのぐらい、強くなる。だから、ずっと一緒にいてあげてもいい」

「……」

「一緒にいてあげてもいい、って言ってるんだけど」


 どのような返事も誠実ではなかった。

 だから、中尾大は奈々子の言葉に応えることが出来ない。


 だから、ディが代わりに、


「ああ、そうだな。強くなったら、ずっと一緒にいてもらおうか」


 嘘をついた。


 部屋を冷やし過ぎたせいだろうか。少しだけ、顎が震えたのを、麦茶を飲んで誤魔化した。

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