グリングの死体はすぐに処理された。棺や花などない。連れてこられたときと同様に、闘技場に雇われているギルド員が引き摺り運んでいく。ギルド員の目は、他人の汚物でも見るような目だった。
死体は、奴隷には入れない管理区へと運ばれていく。その先は不明。奴隷たちの間では人体実験に使われる、下水に流される、磔にして野鳥や野犬に食わせるなど様々な憶測が流れていたが、誰も真実は知らない。
グリングの部屋は最初から誰もいなかったかのように綺麗にされた。本だけは、闘技場の管理者兼経営者でもある商売人──ハロルドと交渉し、これまでのアレンの功績からアレンの部屋に移すという要求を受け入れてくれたが、元の主人のいた形跡はそれ以外何もなくなってしまった。
奴隷がいなくなれば新しい奴隷が入る。その日消えた命の分、数日のうちに新しい命がやってくるのだ。
*
早朝。外の光が入らない牢獄のような道をアレンはいつも通りにぼんやりと頭をかきながら歩いていた。
奴隷が行ける区域は奴隷たちの部屋がある居住区から闘技場までに限られており、居住区から先の管理区は何重にも絡まる鎖と見張りが行く手を阻む鉄扉によって決して外には出られないようになっている。
居住区から扉までの間には救護室や訓練場、さらにはアレンが向かおうとしている通称「何でも屋」など生活するのには必要な施設が一応は揃っていた。
アレンが、古びた布の上に適当に商品を並べた「何でも屋」に近付くと大きな耳を持つ獣人の店主が手を挙げた。
「はい、おはようさん」
店主はすでに持っていた新聞を銅貨1枚と引き換えにアレンに手渡すと、記事の内容をまるで自分が実際に見聞きしたように話し始める。
アレンは何も言わず、読んでいる文字が浮き上がる紙面を読みながら店主の話を聞き流していた。出番の日もそうでない日も関係なく、何年も変わらず続けてきた日課だ。
『カンパニアのスパイ 捕まる』『聖ギルド 連日の成果』──1面トップには、そうデカデカと見出しが紹介され、ギルドの活躍がモノクロの挿絵付きで大きく載っていた。
鎧を身に着けたギルド員十数名が、スパイと思われる4人を取り囲む荒々しい絵だ。ギルド員はいかにも正義感あふれる姿で描かれ、反対にスパイの方はと言えば、悪事を企んでいそうな醜悪な顔で描かれている。
(現場に新聞社の人間がいたとは思えない。大方、想像で描いたのだろう)
1面には、他にも飲食店の新店舗の情報や気温上昇による不漁についての記事が載り、後はギルド員や求人の募集の広告が紹介されている。
(ギルド員か──日陰者には一生縁がない世界ではあるが)
ギルドに入った自分の滑稽な姿を想像しながら、アレンは新聞を裏返した。
新聞と言っても、アレンが元いた世界に流通しているような十数面もあるような新聞ではなく、裏表一枚の2面だけだ。それでも、この世界に安価な大量印刷技術はないようで、おそらくは魔法技術によってつくられたためか、少ない情報量の割に値段は張る。
本来なら、奴隷の持っているお金で毎日購入できるようなものではないため、アレンが読んでいるのは、新聞と言いつつもう3日前に発行されたもので、なおかつ店主の私物をもらい受けたものだった。
情報は古くしかも奴隷の身分である以上、自分の生活とはほとんど関係がない──つまり生きていくのに全く必要はないにも関わらず、毎日貪るように読むのは、前世からの習慣のせいかもしれない、とアレン自身何度も思ったことがある。
命懸けで生き逃げて得たお金。もっと実になるモノに使えばいいのではないかと。
「何でも屋」は、お金さえ積めば大抵のものは何でも手に入ることから名付けられた名だ。禁止されている酒や煙草も、普段は食せない滴るようなタンパク質の塊も──上手くやれば性のはけ口さえも買うことができる。
銅貨1枚を毎日失う代わりに、それらに使えば快楽に耽る日常を送ることができるだろう。何も考えずに戦い、貪り、遊ぶ。永久に前世の記憶を思い出さなければ、そうした道に進んだことだろう。だが、アレンの中に宿る赤羽根新は情報を欲した。
文字を追うとどうしてか心が落ち着き、文章から見え、聞こえる世界に想像が掻き立てられる。閉じ込められた石壁からは決して知ることのできない外の世界の確かな息遣いを感じることができる。新にとって情報は、命そのものだった。
「──でよ、2面には珍しく
アレンは、新聞を裏返すと闘技場と書かれた見出しに目を向ける。そこに書かれていたのは──。
『闘技場 新しく美人女奴隷 華麗なデビュー戦はいつか!?』
「女だとよ女。闘技場に女だぜ! しかも美人! これは、お前、
たなびくような長い髪。意志を感じる力強い瞳と高く整った
「これはまた、どの層からも
「パワー……あん?」
すぐに口を
「ははーん、なるほどな、アレン。……お前も男だったってことか」
「…………」
口を閉ざせば多くは勝手に相手の中で解釈してくれるため、アレンは都合が悪くなると黙り込むこの技を重宝していた。
「記事になったのが3日前だろ? して、昨日の試合で奴隷が何人も死んだ。ってことはそのお目当ての美人奴隷はそろそろ──おっ!?」
急に鉄扉の外が騒がしくなる。乱雑な足音に紛れて鳥のように鋭く高い声が暴れていた。
「お、お、お!? 来たぞ、来たぞ~闘技場に女だ!」
鎖が巻き取られ、鉄扉が軋んだ音を立てて少しずつ開いていく。眩しく白い光が隙間から溢れ出し──。
「ちょっと離れなさい!! 私はこんなところに来るような人間じゃない!!」
弾んだ声。小鳥の
しかし、アレンはその声の主から思い切り目を逸らしていた。
扉の外から声が聞こえていたときから不吉な予感はしていた。関わってはいけない存在だと。闘技場は生死を問わない戦いの場所。アレンのように幼くして放り込まれた男の例は存在するが、女奴隷は今まで見たことがない。アレンよりも長く生きている何でも屋の店主が驚いているということは、これまで一度も例がないことなのかもしれない。
それだけでも「訳あり」なのは理解できた。それに飢えた野獣のような男しかいない闘技場に投げ込まれればどんな事態になるかも実年齢37プラス18のアレンには容易に想像できる。理性でコントロールできない戦場という場は、人を悪魔にも化け物にも変えてしまう。
「おい、おい! 見ろよアレン! ありゃ上玉なんてもんじゃねぇぞ! 絹みたいにキラキラ光ったブロンドヘアに、吸い込まれそうな青い瞳、肌も吸い付きそうなほど滑らかで、おいおいおい! なんつープロポーションだよ! アレン見ろって!」
「……」
アレンは黙ってモノクロの新聞を読む──振りをしていた。内心は動揺し、その心の乱れを隠すために必死に無表情を貫いている。
扉の外での威勢の良さ。激しく喚く声からは意思の強さと正義感が溢れ出ている。不当な扱いを理不尽な仕打ちを許せず立ち向かい真正面から反抗できる、そんな強さ。
(訳ありどころじゃない。あれは──地雷だ)
闘技場に来る奴隷には2つのタイプがいる。現状に甘んじ生き抜くことを優先する者か、現状に逆らい戦うことを優先する者か。生き残るのは大抵の場合、前者だ。
稲妻が落ちるように、風穴が開くように、突然、扉の外から現れ出た奴隷は後者の戦うことを優先する者。それに女だ。長年生き逃げてきたアレンのセンサーが「決して関わるな」と警告音を発していた。
「いや〜思わず
前世では寄ってたかって批判されるであろう地獄のような表現を聞き流しながら、アレンは心の中で女奴隷がそのまま住宅区の方へ連れて行かれることを必死に祈っていた。相変わらず激しく抵抗し、
(そのまま行ってくれ。俺に気づかず、頼む!)
「ちょっとあんた! 知らん振りして新聞読んでないで助けなさいよ!!」
アレンの願いは空しく神に届かなかった。もっともアレンはこの国の神など最初から信じていなかったが。
「聞いてんの? 無視? こら! こっち見なさい!」
抵抗もできずに新聞が取り上げられてしまい、アレンの色のない黒い目が宝玉のような碧い瞳とぶつかり合う。新聞で見た以上の凛とした力強い瞳は、どこまでも広がる青空を連想させる。前世で見た雲一つない青空、闘技場から見える切り取られた青空。
女は不意に微笑んだ。
「なんだ、あんたみたいな若い人もいるのね。名前は?」
「……名前?」
「そっ、名前。奴隷でも名前くらいはあるでしょ? 私はね──」
「おい! 行くぞ!!」
後ろにいたギルド員がしなやかな金色の髪の毛を掴むと、その体を引っ張った。
「いっ、何するの!? やめて!!」
「いいから! 来い!」
痛いはずだ。無理矢理髪を引っ張られるなんて、相当な痛み──そう思いながらアレンは連れて行かれるのを目で追うことしかできなかった。
やがて声が遠くなると、何でも屋の店主が口を開く。
「かーやっぱ闘技場に連れてこられるなんて伊達じゃないね! 強気、強気! あの女、涙一つ流しやしなかった! こりゃあ、面白くなるぞ!」
女の手から離れた新聞が風に乗ってアレンの元へと飛んでくる。アレンはそれを手に取ると、1枚の紙切れのように新聞を掌の中に丸めて潰した。視線はまだ住宅区の方を向いていた。