闘技場を出てスラム街に逃げ込んだあと、アレンとエミリアは人気のない裏道の一角にあった今にも潰れそうな木造の小屋に身を隠した。手狭だが、一人だとしたら十分な面積の中に脚の壊れた机やコップ、新聞紙や本が散乱している辺り、元は誰かの家なのかもしれない。
窓ガラスから漏れる夕焼けの下でアレンは落ちていた新聞紙を手に取ると、ほこりを手で落とし記事を読み始める。随分と古い記事だったが、1面には隣国の情報が掲載されていた。
(隣国カンパニアか。ギルドの戦力増強とスパイが潜り込んでいるという情報。一度読んだ気がするな……確か昨日見た紙面にスパイが捕まったと載っていたから、これ自体はかなり古い情報ではある。──だが、面白い)
新聞は何も新しい情報だけが重要なのではない、というのがアレンの持論だった。もちろん世間が驚くようなスクープや最新情報を載せるのは大切なことではある。だが、今起きている事象は何の脈略もなく突然起きたわけではない。過去の文脈から続く流れがあり、その積み重ねが今をつくる。それに最新の知見はなくともこれまでの事実をまとめた記事の中には地味であるが、良質なものも数多くある。
記事はこう締め括られている。『カンパニアは、国家の防衛強化のため、ギルドにリージョン魔法を導入することに躍起になっている。我が聖ギルドにおいても新たなスキルを導入すべきではないか』。
記事を読みながらアレンは、闘技場で観客が「リージョン魔法!」と声を張り上げていたことを思い出していた。
(リージョン魔法。初めて見た魔法だ。広範囲に効果を及ぼす魔法──あれがリージョン魔法なのか? 今までの戦いで一度も経験したことはなかったが)
魔法は強力な技術である。遠距離からも攻撃できるし、硬い装甲──ヴィポは例外だが──も容易に突破することができる。時には身を守る盾も作れるし、自身の能力を底上げすることもできる。観客にとって闘技場での戦いは武器や拳で殴り合うのも魅力には違いないが、派手な魔法を駆使した戦いも大きな魅力ではあった。
アレンの知っている魔法は、単線だ。1ユニットに対する攻撃か、せいぜいは隣接する2、3のユニットを巻き込むくらい。フィールド全体に影響を及ぼす魔法は見たことがなかった。
(リージョン魔法とは何だ? どんな種類がある? 使い手はどんな奴でどうやって習得するのか──)
「ちょっと何呑気に新聞なんて読んでるのよ! 早くもっと、どこか安全なところに逃げないと!!」
記事にのめり込み、思考を加速させるアレンを現実の状況に引き戻したのは焦るエミリアの声だった。
「……そうだった」
「そうだったじゃないわよ! どうすんの!? アレン、あなた何か当てがあるわけではないんでしょう?」
「ない。両親はきっと生きてるだろうが、今さら助けてくれるわけはない。あーあんた、エミリア──」
「あんたは嫌、名前で呼んで。私もアレンって呼ぶから」
「わかった。エミリアはどうなんだ?」
エミリアは立ち上がると腕を組んでそっぽを向いた。ローブに覆われているとはいえ、服を着ていない状態。豊かな胸が揺れた。
「いないわ。……えっと、正確に言えば私、記憶がないの」
「記憶がないだって……?」
エミリアはアレンの目を真っ直ぐ見つめて頷いた。
「なるほど」
(また難儀な。記憶がないなんて──ただの奴隷じゃない可能性すらある)
「何でも屋」の店主の言葉が浮かんだ。『どこぞの王女様でもおかしくねぇ!』──もしかしたら本当にその可能性すらあり得る。
アレンはため息を吐くと、裏返しになっている机をところどころ床が抜けた木の床の上に置いて、新聞紙を広げた。草の色に似た細身のズボンに付けた布袋からいくつか硬貨を取り出して、新聞紙の上に置く。
「渡したローブにもお金が入っているはずだ。ここに置いてくれないか?」
「ど、どこよ?」
「もちろん、内側のポケットだ」
(まさか、記憶をなくしたというのは全般性健忘のことか? 戦争に赴いた軍人の中に稀に起こるという解離性の──)
「わかってるわよ! ローブを脱ぐからこっち見ないでってことよ!!」
「……ああ、悪い」
アレンはポリポリと頭を掻いた。