手持ちの金額全部を合わせても、その日の新聞が2、3部買える程度しかなかった。つまり全く足りない。
(ほとんどは闘技場の部屋に置いてあるからな。これじゃどうしようもない)
それに闘技場暮らしが長かったアレンはほとんどの物の値段を知らなかった。一般的な宿屋が一泊どれくらいかもわからず、服の値段すら知らない。
「でも、とりあえずパンとスープくらいなら買えるわ。私、娼館から脱走したときにブラックマーケットでお世話になってたんだけど、あそこなら顔が利くし安く売ってくれると思うの」
エミリアが何か窺うような目でアレンを見る。アレンは気付かぬ振りをして当面の問題に話を絞った。
「ブラックマーケットか。新聞で読んだことがある。スラム街の台所とも呼ばれてる場所だろ?」
「それだけじゃないわ。服から武器まであらゆる物が揃う場所。もしかしたら、仕事ももらえるかもね」
(非合法の仕事か。表の仕事は全部ギルドが牛耳っていると聞いている。ギルドを介さなければ事務手続き違反とかいう法外な罰金が取られるとか)
「いずれにしても一晩はここで過ごそう。お腹は空くかもしれないが、きっと今頃騒ぎになっているはずだ。脱走した奴隷2人を捕まえるためにハロルドが聖ギルドに動員をかけて捜索してるはず……どうかしたか?」
エミリアは呆けたように口を軽く開いて、じっとアレンの顔を見つめていた。ちょうど窓ガラスから差し込む夕焼けが顔を照らし、陰影を深くする。深い青色がアクアマリンのように光った。
「あのね、アレン。あなたは男で私は女、一晩こんな狭いところで過ごすって、その意味わかるわよね?」
「ああ、すまない。なるべく離れて眠ることにする。壁の方を向いて寝るから、気にしないでくれ」
「そうじゃなくて! なんでそんなに平静でいられるのよ! 娼館の話も気にする感じじゃないし、ローブを脱ぐときだって平気そうだったし、だいたい私さっき下着姿見られて、そ、それにキスだってされそうになったんだから!!」
(ああ、そういうことか)
アレンは微笑んだ。遠い彼方の記憶が淡い陽の光のように思い出される。
「あれは全員の目を騙すための演技だ。エミリアの腕を掴んでいたあの男、ヴィポから逃げる隙を作らないといけなかったしな。逃げることを伝えるにもこっそり言わないといけなかったわけだし」
「だ、だからって!! あんな!!」
抗議のためにアレンに近付くエミリアの顔は赤く染まっていた。
「まあ、悪かった。だけど、もう安心していい。手を出したりなどしないから」
エミリアは腕を組むとまた顔をあらぬ方向に向ける。
「まあ、いいわ。助かったし。だけど本当に何かしようとしたらぶっ飛ばすから!」
「ああ、安心してくれ」
前世の記憶がある身からしたらエミリアは子どもにしか見えない──という言葉を呑み込んで、アレンはそれだけ口にすると、寝床の準備に取り掛かった。
*
(こんなもんか)
散乱していた家具を部屋の奥へ追いやり、見える範囲のゴミを取り除いたあとで新聞紙を床に敷き詰めた。新聞紙が防寒対策になるのは前世の記憶から知っていたが、ペラペラの一枚紙なので心許ない。夏だから──と言い聞かせてアレンは、今日の寝床へと横になり背中を丸める。
途端にベッドが恋しくなる。奴隷と言えどもベッドで眠れたのは快適だったのではないか。今後またベッドで眠れるようになる日が来るのか。ぐるぐるとマイナスな方向に進みそうになった思考を止めたのは、背中に当たる柔らかな感触だった。
「なあ、当たってるぞ」
「仕方ないじゃない。狭いのよ。あなたこそもう少しそっちに行けないの?」
体を起こして隣を見れば確かにエミリアはもう壁ギリギリのところにいた。足が長い分場所を取るのかもしれない。
アレンは息を吐くとまた仕方なく横になった。
「こっちも限界だ。我慢するしかないな」
「……仕方ないわね。まあ、我慢には慣れてるわ」
(我慢に慣れてる?)
すぐに喚き散らかしそうだが──と一瞬浮かべた考えを即座に取り消す。記憶もなく、奴隷にされて娼館へ、そしてそれから闘技場に投げ込まれて公衆の面前で辱められた。我慢できなければとっくに精神に異常をきたすか最悪自死という可能性もあった。
実際、闘技場に送り込まれた奴隷も数は少ないが自ら命を絶った者もいた。
(こいつ──記憶がないのによく意志を曲げないでいられたな)
エミリアの髪の毛が耳に当たった。小刻みに震えてくすぐったく感じる。何をしているんだ、と疲れて重い体をまた起こしたアレンの目に飛び込んできたのは、震えるエミリアの姿だった。
(泣いている?)
暗くてよくは見えない。それでも声を噛み殺している音は聞こえた。おそらくはきっと、歯を食いしばり泣くまいと必死に堪えているのだろう。
アレンは何も言わず静かに横になると目を閉じた。
夜は深く沈んでいく。闘技場の外はどんなだろうと想像していたアレンにとって、初めての闘技場以外での夜。想像していたスラムは夜でも騒がしく1日中眠ることのない街だと思っていたが、少なくともここはそうでもなかった。ただ、時折行き交う足音や小声にギルド員が来たのではと目を覚まし、なかなか深い眠りにはつけないでいた。
思い返せば、慣れる前の闘技場でもそうだった。子どもの頃はこっそりと集団部屋を抜け出しグリングの元へ行ったこともある。それより前は戦場だ。戦場カメラマンとしてあちこちに行ったが、駆け出しの頃は全く眠れなかった。
軍式の睡眠導入法というのがある。呼吸に集中し、筋肉を意識的に緩めてリラックスさせる方法だ。それを試してもなお、新人時代は眠れなかった。
(眠れないと言えば──)
アレンはミリナ・ブローヴァのことを思い出す。いつ砲撃があってもおかしくない地域で狭い家に父親と母親、そして2人の弟と住んでいて、夜中の外出は危険だったにも関わらず、よく赤羽根新の泊まる宿舎へとやってきた。新の側なら安心して眠れると言い、実際すぐに眠りに落ちていたが。
結局は生きることは叶わず、砲撃によって命を落としたのだ。
(……異世界転生。創作ではよく聞く話だ。俺が新たな生を生きているということは、もしかしたらミリナも生きて──いや、妙な期待はやめよう)
エミリアの瞳はミリナにそっくりではあったが、そんなことはよくあること。現実には前の世界であろうが今の世界であろうが、人は日々死に命は消えていく。都合よく自分の知り合いが転生して、しかも今隣にいるなんてことは確率的にもありえない。アレンはエミリアを起こさないようにそっとエミリアの方を寝返りを打った。
「……」
エミリアが睨むようにこっちを見ていた。