周作が稽古場を去ったあと、防具を外して手拭いで汗を拭った。
竹刀を木刀に代えて、またも型稽古を始めたときだった。
「おい、兄貴、なにを呑気にやっとうなんぞしてるんだ」
表通りに面した格子窓から聞き慣れた声が聞こえた。
「兄貴に相談があるんだ。稽古なんぞ止めて、ともかく出て来てくんな」
有無を言わせぬ口調だった。
お栄のさす唐傘の縁を伝って、雨が濁流のように流れ落ちる。
「兄貴の家に行ったら、おめえんちのクソ婆ぁが、ここだと言ったからよ」
激しい雨の中を急ぎ足で、本所からお玉ヶ池までやってきたらしく、お栄は息をはずませていた。
「俺に相談とはなんだ。真吾の件なら、どうにもならんぞ」
雨音に負けぬよう大声で叫んだ。
「尊属を殺めた重罪ゆえ、引廻のうえ鋸引きか磔か獄門かのいずれかは免れぬ」
崎十郎の言葉に、お栄はしんみりした面持ちで格子窓に顔を近付けた。
「真吾が可哀想だ。事情が事情だし、お情けで罪一等を減じて島流しってのは無理なのか。それがダメなら、せめて武家らしく切腹のご沙汰とかよ。なにか手はねえのか」
すがるような目で詰め寄った。
「この俺に、どうしろってんだよ」
思わずはすっぱな町人言葉が口をついて出た。
「う」
お栄は喉にものを詰まらせたように固まると、
「すまねえ、兄貴にどうしてくれとも言えねえよな」と面を伏せた。
いつもの威勢はすっかり影をひそめて声がか細くなった。
軒を打つ激しい雨音で、お栄の声がかき消される。
崎十郎は格子窓に耳を寄せた。
「真吾の気持ちも、わかる気がするんだよ。画を描く者にとっちゃ、描けないってえのが一等、苦しいんだ。わっちが前の亭主と別れたわけも、思うさま画を描けねえってところにあったんだ」
お栄は独り言のようにつぶやいてから、ひとつ大きく息をついて、
「兄貴はよう、真吾が十八にもなって、なぜ元服してなかったと思う?」
格子越しに崎十郎の目を見詰めた。
急に雨脚が衰えて声が聞き取りやすくなった。
「親類縁者だっているはずだけど、隼人助の代になって急に疎遠になったんだ。元服の介添人もいないし、費用もなかったからに違いないよ。『あのままじゃ可哀想だ。崎十郎に頼んで形ばかりの式をさせてやろう』って鉄蔵が言い出した矢先だったんだ」
お栄の長い睫毛が揺れる。
「おい、崎十郎、真吾の様子を見に行ってやってくれねえか」
善次郎が急に割り込んできた。
死角になった場所に立っていたらしい。
「いまごろは、あっさり罪を認めてお沙汰を待つばかりだろうかね」
お栄が抑揚のない声でつぶやいた。
「本人が罪を認めるまで処断されないものの、白状せねば、いつまでも拷問が続くのだからな。早めに白状したほうが、まだましでえ」
善次郎が痛ましげに首を振った。
「真吾になにか届けてやってくれ。わっちらの気持ちが伝わりゃあ、真吾も、ちっとは慰められるだろ。なあ、頼むよ、兄貴」
お栄は悲壮な表情を浮かべて懇願した。
「わかった。いまは糾問のために牢屋敷から役宅に連れ出されているはずだ。今夕、牢屋敷に戻された頃を見計らって伝馬町に出向くとする」
気乗りせぬ役割ながら承知した。
「兄貴、紙や矢立なんかは、どうだ? 画を描く道具を差し入れてやるのが一番だよ」
お栄が言い出して善次郎が大きく頷いた。
糾問と称する、ひどい拷問を受けて衰弱している真吾が、はたして絵筆をとれるかと疑問に思ったが、画狂には画狂にしかわからぬ理がある。
「牢屋敷に出向く前に、右膳殿にお会いして取り調べのおりの様子を聞いてまいろう」
窓越しに見上げた空はいつの間にか薄日が差していた。