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第22話 千葉道場へ。稽古に集中できぬ崎十郎

 園絵とのいつものやりとりのおかげで少し気持ちがほぐれた気がした崎十郎は、篠突く雨の中を千葉周作の道場――玄武館に向かった。


 傘を差し、袴を思い切りからげての高下駄履きだったが、両国橋にさしかかるまでに早くも濡れ鼠になっていた。


(やはり、やめればよかったか)


 後悔しながらお玉ヶ池を目指して先を急いだ。



 雨の中に道場の甍が霞んで見えたとき、ようやく人心地ついた。


 周辺は町人地が大半ながらも、学者が多く住まっていて文武に励みやすい環境だった。


 簡素な冠木門かぶきもんをくぐって敷地の中に足を踏み入れた。


(右膳殿に勧められて、玄武館の門を叩いたのであったな)


 右膳は、玄武館が品川町に開かれた頃から客分として出入りしていた。


 いつになっても本目録に手が届かぬ崎十郎の腕を案じて『教え方が懇切丁寧こんせつていねいで、崎十郎殿に合う師匠がおるゆえ、門を叩いてはどうか』と紹介してくれた。


(右膳殿といえば……。昨日の今日だから稽古には来られまい)


 崎十郎とは大違いの、神経が細やかそうな面立ちを思い浮かべた。



 火付盗賊改方は、白状させるためには過酷な拷問もいとわない。


(極悪人にはほど遠い少年に対する拷問を、どのような気持ちで指図なさるのだろう)


 崎十郎は胃の腑に強い痛みを感じた。



 道場に向かう石畳を雨が絶え間なく叩きつけて足下が白く霞んで見えた。


 このような豪雨でも道場の門は開かれていた。


 一礼してから沓脱石くつぬぎいしの上で高下駄を脱ぐと、用意されていた雑巾で丁寧に足を拭いて式台に上がった。

 素足に伝わる床のひんやりした感覚が気を引き締めてくれる。


 暇をもてあまして朝早くからやってくる、旗本や御家人の次男、三男など無役の者も多い。

 だが、道場内に弟子の姿は皆無だった。


 弟子が多いせいで、ふだんはひどく狭く感じられる道場が、いまは大海のように、だだっ広かった。



 木刀を手にして、誰もいない稽古場で思う存分、素振りしたのち型稽古を始めた。


(やはり、どうもいかん)


 気が散って集中できなかった。 


(常に穏やかな真吾が、なぜあのような凶行に走ってしまったのか)


 同じ疑問ばかりが、頭をくるくると駆け巡った。


 ひたひた。


 激しい雨音に混じって居室から道場に向かう廊下を微かな足音が近づいてきた。

 殺気ではないが、空気を圧する〝気〟が半端ではなかった。


「一手いかがか」


 神棚が設けられた上座脇の戸口から、穏やかな笑みを浮かべた周作が姿を現した。


 周作は右膳の伝手で入門した崎十郎に、ことのほか目をかけてくれていた。


 少しでも腕を上げられるように丁寧に指導してくれるのだが、崎十郎にとってはありがた迷惑だった。


 道場では見かけ倒しの木偶の坊で通しているが、周作は優れた剣客ゆえ勘が鋭い。


(拙者は裏剣客なのだ。名高い周作先生も、拙者の真の力に気づかぬとは愉快、愉快)と危うさを楽しんでいる反面、いつ実力を見破られるかと気が気でなかった。



 崎十郎は手早く防具を身につけて竹刀を手にした。


 従来の道場稽古といえば組太刀による形稽古だったが、面、籠手などの防具と竹刀が発明・改良されて以来、試合形式の稽古ができるようになった。


 周作の北辰一刀流の稽古も試合形式なので、型通りでなく好きに打ち合えた。


「お願いいたします」


 周作に向かって一礼した。


 周作は防具なしだったが、崎十郎は面、籠手のほかに簡素とはいえ胴までつけている。


「いざ、まいれ」


 晴眼になって前進しようとする崎十郎を周作も晴眼で応じた。



 崎十郎は左上段に取った。双方が間合いを詰める。

 さらに間合いが縮まる。

 緊張が高まったとき。


 突如、真吾が責められて苦悶している姿が目の前に浮かび、意識の集中が途絶えた。


「隙あり」


 したたかに面を取られた崎十郎は、よろめいて尻餅をついた。


 面をつけていてさえ頭が割れそうな衝撃だった。


「崎十郎殿、もう少し身を入れて稽古をいたさぬか」


 師匠の切れ長な目が笑っている。


「恐れ入ります。いま一度」


 立ち上がって、さらに数回、竹刀を合わせた。


(前夜、真吾は拙者に向かって、ぽろりと心情を漏らした。拙者がなにか助言いたしておれば凶行を防げたのではないか)


 自責の念が急に湧き上がってきた。


 もう、集中などできるはずもない。


 遮二無二、竹刀で打ち込むが、軽くあしらわれるばかりだった。


「ここまでにいたすかの」


 とうとう周作は呆れてさじを投げてしまった。


 今日ばかりは、わざわざ手抜きせずとも正真正銘の木偶の坊だった。


「近頃、少し腕を上げたかと思うたが、そのざまは、なんじゃ。身を守るには腕を上げるしかないのだ。心せよ」


 温厚な周作は声を荒げぬものの、教え甲斐のない崎十郎に歯痒さを感じている。


「恐れ入ります」


 面を外した崎十郎は、申し訳ない思いで低く頭を垂れた。


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