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第25話  真吾の無実を信じよう

 仮牢の中に、か細い影がひとつ横たわっていた。


「真吾、拙者だ」


 崎十郎の声に、真吾はゆっくりと身を起こし、這うようにして牢格子に近づいてきた。


 たった二日のうちに、やつれてすっかり面変わりしていた。

 乱れた鬢が痛々しい。


「わたくしは、なにもいたしておりませぬ。わたくしの話をお聞きください」


 牢格子をつかみながら、真吾は崎十郎の目を真っ直ぐに見詰めた。


 瞳は強い光を宿している。


「祖父は、たまにですが正気に戻ることがあったのです。あの日も、夜更けてから正気に戻っておりました。祖父にわたくしの出自を問いただしましたところ……」


 落ち着いた口調で語り始めた。


 ――由蔵は最愛の妻を早くに亡くしたのち、後妻も迎えず、妾も置かずに独り身で過ごしてきた。


 長男に家督を譲って隠居してからまもなく、亡き妻によく似た面差しの女、お静が奥女中として奉公に上がった。


 由蔵は老いらくの恋に落ち、情にほだされたお静とわりない仲となった。


 子を宿したお静を深川の仕舞屋に住まわせて毎日のように通っていた。


 お静が難産の末に亡くなったため、息子夫婦の次男として届けた――という。


「涙ぐみながら懐かしげに話す祖父が嘘をついているとは思えませんでした。ですから、わたくしが祖父、いえ父に怒りをおぼえて殺害するなどあり得ませぬ」


「ずっと惚けているのではなく、ふと正気に戻る、まだら惚けという言葉を拙者も耳にしたことがある。由蔵殿が語られた過去の出来事は真であろう」


 崎十郎は大きく首肯した。


「犯した罪への罰なら、どのようなお裁きにも喜んで従います。なれどわたくしは潔白です。いかような拷問にも屈するものではありませぬ。犯してもおらぬ罪を認めるくらいなら責め殺されるほうがましです」


 凛とした表情は、心の気高さを感じさせた。


「よくわかった。真吾を信じよう」


 小人目付としての経験に鑑みて、真吾は無実だと結論づけた。


「景光目当てに盗人が押し入ったということは考えられぬのでしょうか」


「盗人の線もないとは言えぬが、真吾の刀の血糊をいったいどう考える? 盗人が危険を冒してまでそのような工作をいたすと思うのか」


「そ、それは……」


「真吾は井戸端で水をかぶる際に大小を外した。付近に身をひそめて様子を窺っていた隼人助が好機とばかりに刀を盗んで血をなすりつけ、素早く元の場所に戻したのではないか」


「では祖父殺しも火付けも兄の仕業と申されるのですか」


 心外そうな真吾の問いかけに、崎十郎は、


(お人好しにもほどがあろう)と腹が立った。


「下手人が隼人助か否かはともかく、隼人助が景光を売り払って金子を得ようとした理由に心当たりはないのか。悪い女に捕まっておると申していたではないか」


「確かに兄は、比奈と申す女郎に入れあげておりました。比奈を身請けしようという商人あきんどが現れたと、たいそう狼狽えていました」


「やはり間違いない。酔った勢いで、後先を考えずに凶行に走ったものか、あるいははずみで殺害に到ったか定かではないが、かくなる上は比奈を連れて出奔するしかないと考えたのだろう」


「それはあくまで崎十郎殿の想像ではありませぬか」


 真吾は納得できぬというふうに眉根を寄せた。


「重罪人と、連座させられる当主とでは、追っ手の追及の厳しさに格段の差がある。切羽詰まった隼人助は悪知恵を働かせたに相違ない。景光を売り払ってから比奈を身請けするまでの時間稼ぎのためだけに、姑息な手を使って弟を陥れたのだ。武家の風上にも置けぬ卑劣漢め」


 崎十郎は息巻いた。


「兄は真っ当とは申せませぬが、血を分けたこのわたくしに罪をかぶせるような卑劣漢とは思えませぬ。素面で機嫌の良いときは、本当に優しい兄なのです」


「まだそのような世迷い言を……」


 綺麗事を並べる真吾に、崎十郎は呆れかえった。


 真吾は、面倒臭いにもほどがある善人だった。


「誰しもさまざまな一面をもっておる。どのような極悪人でも、寄ってきた犬や猫の頭を撫でることはあろう。逆に、いかなる聖人君子でも、腕にとまって血を吸うておる蚊を思わず叩きつぶすことはあろう。悪人にも慈悲の心はあり、善人も無慈悲で残酷な一面をもっておる。それがひとだ」と、まくし立てたあと、


「よいか、真吾、必ず冤罪を晴らしてやる。それまでなんとしてももちこたえるのだ」


 有無を言わさぬ口調で言明した。


「あの……」


 まだなにか言いたげな真吾に、持参した矢立と紙を手渡してから、まだ真新しい木の香りと血の臭いが入り交じった牢をあとにした。




「首尾は、いかがであった」


 庭に戻ると、待ち構えていた右膳が切迫した口調で訊ねた。


「真吾は下手人ではありませぬ。実は……」


 崎十郎の言に右膳は目を見開いた。


「検分の際、鍵師を呼んで蔵の鍵を開けさせたが、めぼしいものはなにひとつなかった。真吾は『蔵に景光がなかったことは盗人の仕業である証拠』と言い張ったが、お頭は『景光はとうに売り払われて、蔵は前から空であったに相違ない』と断じられた。じゃが、崎十郎殿の話のほうが、もっともと思われるの。蔵の鍵がいまだ見つかっておらぬこととも符合いたす」


「では、再考を進言していただけるのですね」


 期待を込めて聞きただした。


「ご報告いたすが……。確たる証がなければお頭は納得されるまい。太刀の血糊のほかに《真吾は介護に明け暮れる日々に憔悴しきっていて限界だった》という周りの者たちの証言を重視されておる。隼人助を捕らえて白状させねば、お頭の判断は覆るまい」


 右膳は顔を曇らせた。


「無理やり、自白させられる日は近いと存じます。そうなれば、すぐにも処刑されましょう。とにかく急ぐしかありませぬ」


「まずいことになったのう。後に冤罪と判明いたさば、わしだけでなくお頭にも咎が及ぶ由々しき事態じゃ。刻がない。自白を引き出したのちは、すぐさま口書爪印を作成して、お頭が御老中に裁可を求められる。その前に、隼人助を捕えて真相を突き止めねばならぬ」


 右膳にとっても時間がない。


 顔色は紙のように白く変じているように見えた。


「ともあれ、望みを捨ててはいかん。わしもできる限り崎十郎殿に合力いたす。口が固く、信頼できる平太なる差口奉公(岡っ引き)がおるゆえ探索の手伝いを命じよう」


 右膳は力強く告げた。

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