昨夕から、平太と手分けして刀剣商を当たっているが、景光が持ち込まれた形跡はなかった。
善次郎は、女郎屋つながりで比奈の行方を探索している。
(午からは、もう少し足を伸ばして市谷あたりまで行ってみるか)
崎十郎は、いったん北斎宅に戻った。
草生した小さな庭に続く裏木戸を押し開けると、北斎は相変わらず布団をかぶった姿で画を描いていた。
画を描いているしか能がないからともかく描き続けているのだ。
「どうだったい」
長火鉢に炭を継いでいたお栄が、崎十郎の姿を見て立ち上がった。
口を開きかけたが、
「そう簡単に見つかれば苦労はねえな」
崎十郎の顔色だけでお栄は察した。
「平太親分からの連絡は?」
「まだ入ってねえんだ。夕方にはここに寄ると言ってたけど」
お栄は、お互いのつなぎを取るため家に残っていた。
「まあ、一服してくんな」
お栄は、いつもの白湯ではなく濃い茶を入れた湯飲み茶碗を勧めた。
「隼人助が景光を売り払うとすれば、市中の刀剣商だと思ったのだがな」
茶の熱さが喉を伝わって胃の腑に染みた。
「ほかにも持ち込みそうな店があるだろ。質屋かもしれねえ。諦めずに探してみるさ」
言いながら、お栄は紙を広げて、なにやらさらさらと描き始めた。
「なんだ、これは」
落書きのような画を見て息を吞んだ。
真吾そっくりの美少年が、うなだれながら引き立てられていく図だった。
「なんでこんな画を描くんだ、お栄、てめえは、どういう了見をしてやがるんだ」
はすっぱな言葉でお栄に噛みついた。
「え?」
お栄は突然、夢から覚めたように目をしばたたかせた。
「真吾のことを考えてたら、あのときの光景が頭に浮かんで勝手に手が動いたんだ」
気まずそうに言いながら、描いた画を丸めて反古を入れる籠に放り込んだ。
もともと光の差さぬ〝鼠の巣〟に、さらにどんよりとした空気が流れた。
北斎が画を描く筆の音だけが家の中に響き、外からは元気の良い子供たちの声が聞こえてくる。
「さてと、もうひと頑張りしてくるか」
崎十郎が腰を上げたときだった。
「お頼み申す」
表の腰高障子をとんとんと叩く音がした。
特徴のあるしわがれた声から、津軽出羽守側用人竹越采女だとわかった。
「さすがに諦めたものか、ここ数日、音沙汰がなかったのにさ」
「こんなときに来やがって」
崎十郎とお栄は互いの眉間に皺を寄せながら顔を見合わせた。
「出ぬわけにもいくまい。はやいとこ追い払っちまえ」
お栄はしぶしぶ戸口に向かうと、心張り棒を外して腰高障子をがらりと開けた。
「今宵、わが殿が内々の宴を催されまする。屏風絵は、北斎殿の興趣が湧くまで気長に待つと申されております。まずは無礼講の席で顔を合わせてお互いを知ることから始めねばと」
「そんなうまいことを言ってもダメだ。描き終えるまでお屋敷から帰さねえのじゃねえんですかい」
お栄は北斎を代弁した。
「いやいや、とんでもござらぬ。北斎殿が気乗りされればお描きいただく、というだけの話でござるよ。ふぉっ、ふぉっ」
結局、もてなして良い気分にさせ、描いてもらおうという苦肉の策らしかった。
采女は、前歯が二本も欠けた口を開けて卑屈に笑った。
(この前は確かに前歯がそろうておった。不首尾に怒った出羽守から殴る蹴るされたのではないか)と勝手に想像したが……。
「実はここだけの話じゃがな。近頃、殿はいたくご機嫌が麗しいのじゃ。何事もすぐさまかなわねば気が済まぬ、せっかちなおかたなのじゃがな。かねてより探しておられた名刀が手に入ることになったゆえ、お心に余裕ができたのじゃ。ははは、わが殿にも困ったものでござるよ」
采女は悪戯っぽく笑った。
(もしや)
崎十郎をはじめ、北斎までが息を詰めた。
「名刀でござるか。拙者は刀剣の目利きには五月蠅そうござってな。いかなる銘か、ぜひお伺いしたいものだが」
心ノ臓の轟きを抑えながら、さりげなく問いただした。
「ここだけの話じゃが、備前長船景光でござるよ。ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」
采女は扇子を広げて、さも重大な秘密を語るかのごとく耳打ちした。
崎十郎とお栄は小さく頷き合った。
「お招きとありゃあ、そりゃ、行かずばなるまいのぉ」
北斎が背中にかけていた布団をはねのけて座り直した。
「そうそう、あたしも参ります。ここにいる加瀬崎十郎ってえ三一侍も、参ってようござんすか。こいつは、鉄蔵の次男なんですよ」
お栄は戸口のほうへにじり寄った。
「これは、有り難い」
采女は閉じた扇子で太股をぽんと叩いた。
「父は偏屈ゆえ、なかなか良い返事をいたしませんでしたが、内心では、采女殿の忠義なお心に感じ入っておったのです」
崎十郎も調子を合わせた。
「さもあらん」
采女は大きく頷くと、
「上々、上々」
半泣きで顔中に皺を寄せた。
「殿も、さぞお喜びでございましょう。さっそく駕籠を用意して出直してまいりますゆえお支度を……。あの、その……。殿の御前ゆえ、このままとはいかぬと存ずるが」
ぼろをまとっているとしか見えぬ北斎の、頭から爪先まで視線を這わせながら、遠慮がちにつけ加えた。
「もちろんでさあ。すぐにも鉄蔵を湯屋へ向かわせます。羽織も大家さんから借りてまいりますですよ」
お栄は、ついぞ見せたことのない極上な愛想笑いを浮かべた。