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第27話 お栄に色目をつかう殿様

 崎十郎と北斎、お栄は長屋木戸をくぐって駕籠が待つ表の通りに出た。


 大家から羽織どころか、小袖まで借り着した北斎は珍妙な姿だった。


 特別に上背があるから、大家が小柄というわけではないのに衣装がひどく寸足らずである。

 一見すれば、借り着した百姓の爺さんといった印象だった。


 だが、優れた剣客に似て、人を圧する気組みが感じられた。


 画の善し悪しなどわかりそうもない采女が、身分の上下を超えて丁重に対応する理由も、気圧されているゆえだといまになって納得した。


「薄汚くて人の心を解せぬ変人だが、なかなかどうして見栄えがするものだ。借り着丸出しの姿も、世俗を超越している仙人のように見えてくるのだからな」


 駕籠に乗り込む北斎を見ながら、隣に立っているお栄に小声で話しかけた。


「いまごろ気づいたのかい」


 薄く笑ったお栄からは、珍しく白粉の匂いがした。


 誰から借りたのか、小粋な柄の小袖は、亡き母の古着ではなかった。


「まるで別人ではないか」


 不器量な〝雑巾女〟は消え去っていた。


「今日は化けて行くほうが、なにかと都合が良いと思ってさ」


 お栄は色っぽく、片目をつぶってみせた。


 動き出した駕籠の中から、般若経を唱える声が聞こえる。


 今宵の経は他人に話しかけられぬための防御策ではなかった。


 真吾の潔白の確たる証拠にたどり着けるようにと祈る心なのだ。


 北斎を乗せた駕籠は北に進んで、本所二ッ目の上屋敷ではなく、南本所大川端にある下屋敷へと向かった。


「下屋敷は人が少ない。家臣の目をはばかって、腹心の者たちだけで親父をどうこうしようなんて企みではあるまいな」


 崎十郎はお栄に耳打ちした。


 采女の喜びように嘘はなさそうだったが、出羽守は『余をいままでこけにしてきた北斎を手討ちしてくれる』と考えているかもしれなかった。


「ええっ、それはねえだろ、兄貴」


 お栄の顔が青ざめた。


「酒と女に目がない不出来なお殿様だからな。俺たち三人とも生きて帰れねえかもな」


 本気半分、冗談半分でお栄の不安を煽った。



 大川の広い流れ越しに対岸の風景が絵巻物のように見渡せた。


「十年ほども前になるんだな。鉄蔵が五十路前に描いた《新柳橋の白雨 御竹蔵の虹》は、大川の向こう岸の柳橋あたりから、ここいらを描いたんだよな」


 緊張を紛らすためか、単純に北斎の画に思いを馳せているのか、お栄は感慨深そうに大川端を眺めた。


 近くには広大な敷地を有する御竹蔵があった。

 かつて竹材を保管していた蔵に、いまは米が収められている。


「百本杭と申すが、千本はあろうかな」


 崎十郎も暢気な話題をもち出した。


 百本杭は、大川が大きく湾曲する岸辺に、波除けのため、多数、打ち込まれた杭だった。


 川の流れが杭に当たって心地よい音を立てている。

 大川を行き交う舟が、みずすましのように水面を滑る。


 御竹蔵の入口の御蔵橋は、暮れかけた光のなかで影にしか見えなかった。


「このあたりは鯉がよく釣れるところだな、お栄」


「ここは、土左衛門(水死人)さまもよく流れ着くけどな」


 軽口を言い合ううちに下屋敷の門前まで来た。


 駕籠に乗ったかと思えば、すぐさま下屋敷に到着だった。



 大名の下屋敷といえば郊外にあって広大な敷地を誇るものだが、この下屋敷は五百坪ほどの敷地しかなく、こぢんまりとしていた。


「殿がお待ちかねでござる」


 門で待ち受けていた家人が丁寧に出迎えた。


 家人からも、なんら緊張は伝わってこなかった。


 表門から入って、両側に柊の生け垣が続く石畳を玄関へと向かった。


「さ、さ、堅苦しいことは抜きでまいろう。今宵は、そなたらが客人じゃ」


 采女は上機嫌でいそいそと案内する。


「手討ちにしようと待ち構えているわけじゃなさそうだな」


「兄貴は取り越し苦労が過ぎるんだよ」


 お栄は、久しく染めていない、真っ白い歯を見せた。


 勤番侍が住まうお長屋が見えたが、夕闇のなかでひっそりとしていた。


 屋敷に上がって、長く続く廊下を奥へ奥へと案内された。


「へっ、なんだこれは……。目が汚れらあ」


 北斎は、狩野派の筆と思われる襖絵を鼻先で笑った。


「おい、鉄蔵、黙れ」


 お栄が怖い顔でたしなめた。


 北斎は誰にも遠慮しない。

 出羽守と喧嘩を始めて、ことを台無しにせぬとも限らなかった。


「親父殿、今宵はこういう顔でまいろう」


 崎十郎は目一杯、愛想笑いをしてみせたが、笑っているように見えなかったのか、北斎は怪訝な顔で童のように小首をかしげた。


 広い庭に面した座敷の前で采女は足を止めた。

 目の前には大きな池があって、泳ぐ鯉の姿が色のない墨絵のように見えた。


「殿、お連れしてまいりました」


 采女が障子戸の前で声をかけてから静々と障子を開いた。


「おお、よう来た」


 出羽守が酒肴を前にして上座で寛いでいた。


 北斎一行のための膳も並べられていて、美々しく着飾った奥女中が、出羽守の両側にはべって酌をしていた。


 燭台に灯された蝋燭の灯が、出羽守の福々しい顔にゆらゆらと陰影を揺らす。


「こちらが北斎殿で、こちらは……」


 采女の言葉をよそに、出羽守の目が、はたとお栄に止まった。


 芒で切ったように細い目を、可笑しいほど大きく見開いた。

 口元が緩みそうになって、慌てて一文字に引き結んだ。


「今宵は無礼講の酒宴ゆえ、ゆるりといたせ」


 出羽守の背後には『さあ描け』とばかりに真っ新な屏風が広げられている。


(愚昧との噂は気の毒だが、賢そうには見えぬな)


 崎十郎はうつむきながら苦笑した。 


「今宵は屏風絵を描かせていただきたく参上つかまつりました」


 誰にも頭を下げぬ北斎が、畳に手をついて挨拶した。


「では、早々に」


 お栄が持参した筆や絵の具を慣れた手つきで広げた。


「そうか、そうか。今宵は、余人を入れぬゆえ存分に描け」


 上機嫌な出羽守は、ごくりとひとつ唾を飲み込むと、


「で、じゃな……。女たちは下がってよい」と命じた。


「かしこまりました」


 なにか言いたげな表情を浮かべながらも、奥女中たちは、着物の裾をしゅるしゅると引きずりながら、優雅な身のこなしで座敷を辞した。


 出羽守は、わざとらしい豪傑笑いをしながら、


「高名な北斎が眼前で即書してくれるのじゃからな。念願が叶うと思うあまりに舞い上がってしもうた。うかつにも酌をする女中まで下げてしもうたわ。女子おなごといえば……、そちの名はなんと申すかの」


 お栄に露骨な流し目を送った。


「栄にございます。わたくしでよろしければお相手いたします」


 お栄は妖艶に微笑んだ。


「いざ」


 北斎が屏風と格闘し始めた。


 描き始めたのは野馬群遊図だった。


「たいしたものじゃ」


 誉めながらも、出羽守の目はお栄に釘付けだった。


 つまるところ、画の良さを解しているわけではなく、世上に名高い北斎を意のままにしたいだけなのだ。


「ささ、一献いっこんどうぞ」


 お栄はしなだれかかりながらも、少しばかりつれなさを見せて出羽守の気を惹いた。


「今宵の酒は格別じゃ、のう、采女」


 出羽守が盃を取らせると、采女はありがたそうに押しいただいた。


「近日中に、かねてより探しておった備前長船景光が手に入るのじゃ。女子にはわからぬじゃろうが景光は、じゃな……」


 自慢したくてたまらないらしい出羽守は得意げに蘊蓄を語り始めた。


「名高い名刀なら見つけるにもご苦労なすったのじゃござんせんか」


 お栄が水を向けたが、


「殿、いまここで、そのようなお話は……」


 采女が渋い顔で制した。


「おお、そうじゃの。そのような武張った話より……」


 出羽守は盃に口をつけながらお栄を横目で見た。


「栄の姿をあの渓斎英泉に描かせてみたいものじゃ。女子の画は英泉が格別じゃからの。いやいや栄を描いたわじるしを所望しておるわけではないぞ。うほほほ」


 話題は、どんどんあらぬ方向へ流れていき、なんら得るところはなく、すごすご退散するしかなかった。


「今夜は内輪の座興じゃったが、次は、皆が見ておる前で大きな達磨図を描いて欲しいものじゃ。なあ、采女」


 出羽守は満足そうに采女を見やった。


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