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第28話 真吾のため奮闘する善次郎

 津軽藩下屋敷訪問は徒労に終わり、崎十郎らは夜四ツ(二十二時ころ)前に長屋まで戻った。


 長屋路地のどぶ板を踏む、ぎしぎしという音さえ、いつにも増して不景気に響いた。


 北斎宅の腰高障子からは灯りが漏れていた。


「善次郎さんかい」


 お栄が立て付けの悪い腰高障子をがらりと開けると、善次郎が上がり框に腰かけて煙草をふかせていた。


「みんなしてどこへお出かけだったんだ。平太親分は痺れを切らして帰っちまったぜ」


 善次郎は咎めるような口調で訊ねた。


「実は……」


 言いかけた崎十郎を遮って、お栄が事情を説明し始めた。


「さてさて、忙しい、忙しい」


 北斎は、さっそく炬燵にもぐり込み、布団をかぶって画を描き始めた。



 崎十郎とお栄は足を拭いて部屋に上がると、散らかった物を部屋の隅に押しやってから善次郎と三人で車座になった。


「で、善次郎殿の首尾は?」


「意外なことにあの仏の忠兵衛がかかわってやがった」


「というと?」


 お栄が身を乗り出して善次郎にせっついた。


「隼人助が入れ揚げていた比奈は、忠兵衛の妾のお吉が営んでいる、御影楼の女郎だったんだ。推察通り、隼人助は、失踪したその足で比奈を請け出し、ふたりして江戸を離れて東海道を上りやがったぜ」


「隼人助はどこかで〝兼光〟を売り払ったわけですね」


「このあたりの情報は、俺と平太親分をはじめ、下っ引きどもが手分けして探り出したわけだがよ」


 善次郎はじらすような素振りで話を続けた。


「比奈は、忠兵衛の兄で剛衛門てえ爺ぃが営んでいる品川宿の旅籠に逃げ込んだんだ。比奈を追ってきた隼人助と旅籠の者たちとで悶着が起こったところまでは確かめたが……」


「品川まで行ってたのかい。ご苦労さまだったねえ」


 日本橋から品川宿まで二里(約八キロ)の距離だが、往復するだけでなく、あちこち訊ね歩いたとすれば結構な行程だった。


「旅籠とは名ばかりで内実は女郎屋ばかりですからね。主も見世の者も堅気じゃない。図体がでかいだけで武術などからきしな隼人助では歯が立たなかったでしょう」


 崎十郎の言葉に、善次郎は大きく頷いた。


「俺は比奈の客として見世に揚がったんだ。比奈は美形にゃ違いなかったが、おつむの弱い女郎でな。俺は忠兵衛と親しい間柄だと明かして鎌をかけてやった。そんときのやりとりはこうだったんだ」


 善次郎は声音や仕草つきで場面を再現してみせた。

 なかなか芸達者である。




「比奈、おめえも、てえへんだったな」


「あんなことをしでかすとは親分も思ってなくて驚いてたよ。あの馬鹿は死ぬほどあたしにぞっこんだからね。追い払われたってすぐに諦めるはずもないさ。まだそのあたりをうろついてるかもしれないだろ。剛衛門さんはしばらく外に出るなってさ」


「その話、もうちっと詳しく教えてくんねえか」


「はは、このあたしがあんな間抜けな熊男に惚れるわけないだろ。端から親分が仕組んだ狂言だったんだよ」


「なるほどな。だからおめえはいまも女郎のままってえわけか」


「あたしだって、手間賃として、もらうものはもらったさ。で、あいつから行方を眩ますために、根津から品川宿のこの見世に鞍替えってわけさ」


「なるほど、その手順はどうなってたんだい」


「あいつと二人して、品川を通り越して川崎宿で泊まるわけさ。でさ、あいつが寝てる間に抜け出して品川宿まで戻り、この見世に逃げ込むはずだったんだ。なのに、しくじっちまったんだ。忠兵衛親分が怒らないか、あたしゃ心配だよ」


「なぜ手筈通りにいかなかったんだ」


「あいつは旗本のお坊ちゃま育ちだろ。身分もなにもかも捨てて、ほとぼりが冷めるまで上方に行くなんて無理だったんだよ。心細くなったんだろうね。品川を過ぎて六郷の渡しの手前まで来たところで、急に心中しようとか言い出すもんだからさ。怖くなって逃げたんだ」


「隼人助って野郎は、よほど比奈に惚れていたってわけだな」


「はは、お客さんも骨抜きにしちまうから覚悟しな」


「こええ、こええ」


 ここまで一気呵成に語った善次郎は、お栄から出された茶をごくりと飲み干した。


「俺はすぐさま旅籠をあとにして隼人助の行方を追ったんだ。比奈の味見せずに帰ったことが心残りでえ。ま、真吾の一件がめでたく解決したら品川まで繰り出すつもりだがよ。比奈を描きゃあ、なかなか良い画になりそうでえ」


 鼻の下を伸ばした善次郎の言葉に、お栄は苦々しげに舌打ちした。


 善次郎に惚れているのか、すでにできているのかと崎十郎は勝手に想像を巡らせた。


「そんな話、どうでもいいだろ。じゃあ隼人助は品川宿にいるってことかい」


 眉間に縦皺を寄せたお栄が畳みかけた。


「いや、話はそこで終わりじゃねえんだ」


 善次郎は待てというように掌で制した。


「巨漢の隼人助は目立つ風貌だ。大男の武家が江戸へ向かって急ぐ姿を見た者がいたので、江戸まで戻ってきたというわけさ。念のため平太親分の下っ引きをひとり、品川に残してあるがな」


「どうあっても隼人助を捕らえて真吾の罪を晴らしましょう。どのみち忠兵衛の近辺に現れるに決まっています」


 崎十郎はおおいに奮起した。

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