いったん屋敷に戻った崎十郎は、園絵に詳しく事情を説明した。
園絵は『義を見て為さざるは勇無きなりです。わたくしも及ばずながら助力いたします』と、珍しく手放しで励ましてくれた。
「では、養母上は重い病で臥せっておられることにいたしますゆえ、くれぐれも出歩かぬようお願いいたします」
園絵に念押しした崎十郎は、母の看病のため明日から勤めを休む旨の届出書をしたためて『明日、夜が明けたら組頭宅に届けるように』と下男の六助に託した。
ふたたび北斎宅に戻った崎十郎は、善次郎らとともに夜を明かした。
「平太親分もそろそろ来る頃だが……」
出かける支度をしていたところへ、長屋のどぶ板を鳴らして誰かが走り込んできた。
足音は北斎宅の前でぴたりと止まった。
「隼人助が死にやした」
戸締まりされていない腰高障子をがらりと開けて、息を切らせた平太が顔を出した。
「なんだと」
崎十郎と善次郎は同時に立ち上がった。
「死体が百本杭に引っかかっておりやした。いま見つけたばかりです。あっしの子分が横網町に住んでいるもんで騒ぎに気づきやした」
「とにかくまいろう」
崎十郎と善次郎は雪駄を履く手間ももどかしく、大川沿いにある百本杭に走った。
回向院の前から津軽出羽守の下屋敷の裏を通って横網町の飛び地に出た。
朝靄のなか、椎の木屋敷と呼ばれる、松浦豊後守上屋敷の椎の巨木が彼方にうすぼんやりと霞んで見える。
近くの木戸番小屋から番人たちがきていたが、右往左往しているばかりだった。
「確かにこやつは隼人助に違いない」
まだ杭に引っかかっているままの死体の顔をあらためた。
「この場所で大川に落ちて杭に引っかかったのか。それとも肥えておるゆえ水に浮いて上流から流れ着いたものか」
善次郎は、ほんの少し髭が伸び始めた顎をするりと撫でた。
「水から引き上げるぞ」
平太のひと声に、下っ引きをはじめ、崎十郎と善次郎も加わって、難儀しながら、あり得ぬほど重い死体を土手に引っ張り上げた。
「これは……」
衣服の上からでも致命傷が見てとれた。
「腋を一太刀です。この斬り口は、市中を騒がしておる例の辻斬りに相違ありませぬ」
善次郎に向かって大きく頷いた。
「つまり辻斬りは忠兵衛とつながっていたわけだな」
「このような殺法がある流派がいかなるものか、それがわかれば辻斬りの正体にも近づけるはずですが……」
崎十郎は己の不明に歯噛みした。
「やはりな……」
隼人助の左手の親指には傷跡があった。
真吾の刀に血糊を塗りつけるため自らつけた傷に違いなかった。
百本杭に大川の水があたって絶え間なく音を立てる。
水音をかき消すように、野次馬が遠巻きに取り囲んでなんだかんだと騒いでいる。
「忠兵衛は出羽守に接触して景光を渡すはずです」
いまは、交代で忠兵衛を見張ることしか、残された手はなかった。