忠兵衛の周辺に動きはなかった。
用心しているに相違ない。
夕刻、崎十郎と平太の子分が忠兵衛宅を見張っていると、先日、由蔵に絡んでいた火消人足たちがぞろぞろと出てきた。
(年嵩の火消は確か、孫一という梯子持ちだったな)
孫一だけが夜目にも上物とわかる小袖を着ており、蜘蛛の巣と蝙蝠の柄が際だっていた。
いそいそと出かける様子に、下っ引きを残して孫一らをつけることにした。
木挽橋を渡って、三十間堀沿いに一丁目から七丁目まで長く続く木挽町に入った。
木挽き町は、その名の通り、江戸城大修理に従う木挽職人の町として誕生したが、いまは森田座や山村座のある芝居町としてにぎわっている。
「孫一兄貴、纒持ちに昇進、まことにおめでとうございます」
火消のひとりがへつらうような口調で囃した。
纒持ちは次期組頭と目される、火事場で一番の花形だった。
残りの連中は〝
「あっしらが祝いをしなきゃならねえのによ」
「おごっていただけるたあ、孫一兄貴はさすが太っ腹でえ」
孫一は弟分を引き連れて、とり八と暖簾のかかった煮売り酒屋に入った。
その名のとおり、煮売り酒屋では、酒のほかに煮付けの肴も売っている。
店先には鳥や魚が吊され、大きなまな板を置いて板前が料理していた。
暖簾の隙間からのぞくと、店内は衝立で仕切って幾組もの客が座れるようになっていた。
日が落ちたばかりなので客はまだ少なかった。
孫一たちが奥に陣取ったことを確かめてから、顔を見られぬよう、桧笠をかぶったまま店に入った。
ひとつ間を開けた衝立の向こう側に座ると、笠をぬいで、寄ってきた小女に呑めぬ酒を頼んだ。
孫一らとの間には陰気な老人がひとり静かに吞んでいる。
孫一一行は、酒がまわって口が軽くなり、声も大きくなった。
ひと言も聞き漏らすまいと、崎十郎は、孫一らの話に耳をそばだてた。
「孫一兄貴が跡目を継ぐ日も近いのじゃねえですかい」
「親分はまだまだ元気じゃねえか」
孫一は笑い飛ばしたが、まんざらでもない口調だった。
「けど、もうろくしかけって噂もちらほら聞きやすぜ。へへへ」
「内輪の寄合の席でもあれはいけねえ。自慢話もほどほどにせにゃあ命取りだあな」
孫一は少し声をひそめてから、
「いやいや、どこのどなたとぜってえ明かさねえから、もうろくたあ違わあな」と付け加えた。
「これはあっしの想像ですがね……」
若い平人が、秘密めいた口調で言い出したが、
「もう一本つけてくれ」という老人の声でかき消されてしまった。
「親父、上がるぜ」
「酒と肴をみつくろってくんな」
新たな客がどやどやと入ってきて店の中が騒がしくなったため、孫一らの話はまるで聞こえなくなった。
(まあよい。直接、吐かせてやる)
一足先に店を出て、通り向かいに立つ袈裟衣問屋とお茶漬け屋との間の路地に身をひそめることにした。
路地を吹き抜ける冷たい夜風になぶられながら半刻ほど待っていると、ようやく、ほろ酔い機嫌の孫一らが通りに出てきた。
「これで遊んできな」
上機嫌な孫一は弟分たちに銭を渡した。
「いまから兄貴はこれのところでしっぽりお楽しみですかい」
ひとりがにやにやしながら小指を立てた。
「じゃあ俺たちはこれで……」
連れだって遊所に向かう弟分たちを、孫一は、気っ風の良い兄貴気取りで、目を細めながら見送った。
「さてさて俺っちも行くか」
端唄を口ずさみながら、孫一は千鳥足で歩き始めた。
身体の動きに合わせて、ふらふらと、ぶら提灯が揺れる。