南八丁堀にほど近い、蔵地と大名屋敷の塀に囲まれた通りに出ると急にひとけがなくなった。
崎十郎は懐から手拭いを取り出して顔の下半分を隠した。
「ちと聞きたいのだが」
低い声で孫一を呼び止めた。
「な、なんでえ」
孫一はぎょっとした顔で、提灯を崎十郎のほうに突き出した。
「辻斬りの一件と蔵地家の一件について聞かせてもらおうか」
威圧感を出すべく、聞き取れるか聞き取れないかの絞り出すような声で訊ねた。
「なんの話でえ。人違いじゃねえのか」
孫一は後ずさった。
「知らぬはずはない。返答しだいでは、このわしが辻斬りに変じるかもしれぬぞ」
「そんな脅しが利くもんけえ」
孫一は隠し持っていた匕首でいきなり突きかかってきた。
度胸が据わっている。
予想より鋭い突きだった。
だが裏剣客の敵ではない。
「おっと」
体さばきで難なくかわした崎十郎は、匕首を持った孫一の太い手首をつかんでねじ上げた。
匕首が地面にぽとりと落ちた。
「おまえがその気なら、こちらも容赦せぬ」
孫一の手首をつかんだ手を放すや抜き打ちを放った。
「ひえええ」
帯がぷっつりと切れて前がばらりとはだけ、孫一はその場に尻餅をついた。
「次は着ておるものだけでは済まぬぞ」
さらに声を落として、ささやくように告げた。
大声でまくし立てて威嚇するより、聞き取りにくい静かな声で脅すほうが、こういう輩にはよく効く。
「へ、へい、なんでも申し上げます」
急に素直になった孫一は、
「蔵地のご隠居の一件は……」と聞かぬ先からべらべら話し始めた。
忠兵衛は、以前から、曰く付きの刀の仲介を行って密かに儲けていた。
さるお偉いお方に頼まれて景光を探していたところ、旗本蔵地家の蔵にあると知った。
当主の隼人助は売りたがったが、隠居の由蔵が蔵の鍵を渡そうとしない。
忠兵衛一行は、由蔵がひとりでふらふら歩きまわっているところへ偶然に出くわした。
忠兵衛の指図で『小間物屋から櫛を盗んだ』と言いがかりをつけ、身体をあらためるふりで蔵の鍵を奪おうとした。
邪魔が入ったために忠兵衛は姿を現して誤魔化したという。
「いまごろ隼人助さまは、身請けした女郎と東海道を上ってなさるこったろう。親分は情け深えおひとだ。ほとぼりが冷めるまで女といっしょに身を隠すよう、各地の親分がたへの回状まで渡しておやんなすったんだ」
孫一は隼人助が辻斬りに殺害された一件どころか、江戸に舞い戻ったことすら知らなかった。
(これ以上深い事情は知らぬようだな)
拍子抜けした崎十郎は、愛刀、関の兼常を納刀した。
「もう行くがよい」
崎十郎の言葉に孫一は脱兎のごとく走り去った。
どたどたという足音が遠ざかっていく。
酔いもすっかり吹っ飛んだようだった。
手に入れた刀に箔をつけて高値で売るために、忠兵衛は辻斬りを雇って試し斬りをさせていたに違いない。
「忠兵衛がいつ尻尾を出すのか。先途ほど遠しだな」
焦る心を抑えてつぶやいた。
翌朝、崎十郎は火付盗賊改の役宅へ出向いた。
右膳を呼び出すとすぐさま非常門から姿を見せた。
「肝心の隼人助が辻斬りに遭うて死んだそうだな。隼人助を捕らえて口を割らせるのが一番だと思うたに……」
開口一番、口惜しげに語った。
「ところで真吾はいかなる様子ですか」
「健気にも耐えておる。屈強な極悪人でさえ耐えきれずに口を割るものじゃが」
「そうですか……」
「手加減するよう責め役に命じるわけにはいかぬのだ。すまぬ」
「いえ、辛いお役目はよく存じております」
「しかし、糾問する日取りはわしに一任されておる。なるべく日にちを開けて行うようにしておるのじゃが、お頭は真吾が下手人と信じ込んでおられるゆえ、きつく催促される。隼人助が下手人だと申し上げたのじゃが、最初に信じたことに固執しておられて聞く耳をもたれぬ。お頭の頑迷さが難儀なところじゃ」
右膳は唇を噛みしめながら面を伏せた。
(心根の優しい右膳殿には向かぬ務めだ。なまじ有能ゆえ、いつまでも火盗の職に縛られておられて気の毒なことだ)
右膳はもっとしかるべきお役目に抜擢されるべき有為の士だったが、不満を抱くこともなく、与えられたお役目に黙々と励んでいる。
崎十郎は《己の立ち位置で職務を精一杯全うする先達》として手本にしていた。
「ところで探索は上手くいっておるのか」
「平太親分にはずいぶんお世話になっております。いまのところ……」
これまでの出来事をつぶさに報告した。
「なんと仏の忠兵衛が黒幕であったとはのう。この上は確たる証拠を早く見つけねばならぬ。平太にはよう言い聞かせてあるゆえ遠慮せずいくらでも使うてくれ。わしにはそれくらいしかできぬゆえ」
右膳は気負いを示すように力強く告げた。
おそらく、平太への手当は右膳の懐から出ているのだろう。
「ありがとう存じます」
深々と頭を垂れた。
「崎十郎殿の正義感に感服しておる。まこと良き友をもったわしは幸せ者よ」
右膳は満足げに頷いた。
「恐れ入ります」
崎十郎は面映ゆい心持ちで、もう一度、頭を垂れた。
「では職務に戻るとしよう。真吾の取り調べのほかにも強盗の一味を捕らえておるゆえ、そちらの調べも進めねばならぬのだ。役宅にはほかに与力がおるといえど頼りにならぬゆえまことに難儀なことじゃ」
右膳には、心を許して愚痴をこぼす相手が崎十郎しかいなかった。
「吉報を待っておるぞ、崎十郎殿」
右膳は重たげな足取りで、門のうちへ姿を消した。