平太に忠兵衛宅の見張りを任せた崎十郎は、善次郎とともに日本橋北の若松町にある鰻屋の二階で遅い夕餉にありついた。
「親父の家ではろくな物が食べられませぬから困ります」
崎十郎は鰻飯をかき込んだ。
善次郎は鰻を肴にちびちびと酒を呑んでいる。
階下から団扇で扇ぐぱたぱたという音とともに香ばしい香りが立ち上ってくる。
「崎十郎は口が肥えているのだな。園絵さまは料理上手だからな」
善次郎は心底、羨ましげだった。
善次郎の何度目かの女房は若くて美形だったが、女郎あがりでまともな料理などできそうもなかった。
「養母は、ひとに任せるのが嫌いなおひとですから」
崎十郎は苦笑した。
園絵は下女がいた頃から、自ら包丁を握って煮炊きしていた。
秋であれば、ふろふき大根、焼き生姜、炒り豆腐やあんかけ豆腐、八ツ頭芋の煮付けなど、季節の食材を巧みに配して、料亭もかくやと思わせる見栄えの、凝った料理が食膳に並ぶ。
身体に良いものをとの配慮だったが、崎十郎は屋台でつまむような下賤な食べ物が好みだった。
脂がこってりとのった鰻などは大の好物である。
「俺はな、若い頃は狂言の作者になりたかったんだ。けど、とりあえず食っていくために画を選んだ。いまは画が売れて弟子も多くなったが、俺の真の才能は画にはねえと思ってるんだ」
「それはまたご謙遜を」
善次郎の意外な言葉に、崎十郎は茶々を入れた。
「人というものは、必ずしも、生まれもった才を発揮できる場に立てるとは限らねえ。これが辛いところだな」
女が好きで、嬉々として女の画ばかり描いている善次郎の言葉には、まるで説得力がなかった。
「真吾が町人の子なら、お栄なり親父なりに弟子入りして存分に才能を発揮できたはずですからね」
つい口をついて出た言葉で、場が急にしんみりとしてしまった。
「じゃあ師匠の家に戻ってみるか」
善次郎の言葉に、崎十郎も立ち上がって脇に置いていた兼常を腰にした。
階段を下りると、
「英泉先生、毎度、ありがとうござい」
団扇を片手に、鰻屋の親父が、好意に満ちたあふれた顔で見送ってくれた。
提灯を手にして新道に足を踏み出したが、店のなかから漏れる灯り以外に明るさはなかった。
両側に武家屋敷が長く続く堀沿いの広い道に出た。
通りの一町(約一一〇メートル)あまり先には薬研堀埋立地の町屋の灯りがほの白く浮かんで見える。
武家屋敷は小士宅ばかりで、幕臣のほかに学者や文人宅も散在していた。
「おい、このような夜は例の辻斬りでも出そうだな。あははは」
酔った善次郎が通りに響く大声で笑ったとき。
「善次郎殿……」
闇の向こうから迫ってくる殺気に気づいた。
「くだらねえ冗談を言ってたら、ひょうたんから駒かよ」
善次郎も歩みを止めて身構えた。
「どうします」
「大勢だから辻斬りじゃねえやな。面倒は避けるに限らあ」
善次郎はくるりときびすを返して走りだした。
崎十郎も続く。
「しまった」
武家屋敷の間から別口の敵が現れて退路が断たれた。
通りの片側は堀で、片側は武家屋敷の土塀になっていた。
十人以上いる。
全員が手拭いや覆面で顔を隠していた。
「忠兵衛の子分たちではないようですね」
「忠兵衛が金で雇った食い詰め浪人や破落戸といったところか」
善次郎は手にしていた提灯を土塀の隙間にぶすりとぶっ差した。
「相手するしかありませぬ。念のため善次郎殿、これを」
崎十郎は愛刀〝関の兼常〟を鞘ごと抜いて善次郎に手渡そうとした。
「馬鹿野郎! 武士の魂を簡単に貸すんじゃねえ。加瀬家に代々伝わってきた大事な刀だろうがよ。心配すんな、俺にゃ、使い慣れたこいつがあらあ」
善次郎はにやりと笑いながら、懐に吞んだ匕首をのぞかせた。
前後から敵がゆっくりと近づいてくる。
崎十郎が確認したところ、二本差が四人、残る五人は長脇差姿だった。
「あなどれぬ相手がひとり混じっています」
後方の離れた位置にいる武士からは、並々ならぬ剣気が感じられた。
羽織を脱ぎ捨てて下げ緒で素早く、たすきがけした。
「善次郎殿は破落戸どもを頼みます。拙者は浪人どもの相手をします」
崎十郎の提案に善次郎は、小袖の裾を尻端折りしながら、
「よしきた」
夜目にも白く歯を光らせた。
(今宵は腰抜けの真似などしておれぬ。本気でかからねば危うい)
崎十郎は腰に帯びた関の兼常の重みを思いながら気を引き締めた。
加瀬家に代々伝わっている兼常は、かつては刃長三尺(約九十センチ)の大太刀であったが、磨り上げて二尺五寸(約七十六センチ)の打刀に仕立て直されていた。
茎を磨りあげると、もとの銘がなくなってしまう。
銘を惜しんだ先人が、反対側に折り曲げて銘を残したため、兼常の茎(なかご)には折り返し銘があった。
関の兼常に対する試刀家、山田浅右衛門の評価は良業物だったが、実際は恐ろしいほどの切れ味で、かの雑賀孫市も愛用したと言われる、隠れた最上位の大業物だ。
世に隠れた名刀という意味でも、裏剣客たる己にふさわしいと、崎十郎は密かに誇っていた。