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第36話 難を逃れた崎十郎はさらに……

 かわしていなければ左腋を斬られていた。


 右膳が辻斬りだったのだ。


(拙者はなんたるお人好しだったのだ)


 水面に落下する刹那のあいだに悟った。


 辻斬りは恰幅の良い男だと信じていたが、腹の周りになにかまいていたに違いなかった。


 右膳は、友情と信頼を利用して崎十郎を抹殺しようとしたが、北辰一刀流では勝負がつかず、ついに、秘していた必殺技を繰り出したのだ。


「つっ!」


 身体が水面に叩きつけられた。


 岩に落下したような衝撃が襲う。


 霧散しそうな意識を懸命につなぎ止めた。


(このまま死ぬものか)


 流れの中で懸命にもがいた。


 流れの速い大川を浮きつ沈みつ流されていく。


 死すとも兼常だけは手放すまいと握った指に力を籠めた。


 水が鼻から喉から入ってくる。


(もっと水練に励んでおればよかった。養父上が水練を重視されておれば……)


 文内の顔を恨めしく思い浮かべながら意識は朧になっていった。



 どのくらい経ったものか、


「お侍さま、大丈夫(でえじょうぶ)かね」


 身体を激しく揺すられて夢から覚めた。


「ごほ、げほっ」


 飲み込んでいた多量の水を吐き出した。


「ここは?」


 猪牙舟の中だった。


 折良く通りかかった船頭が、流されていく崎十郎を引き上げてくれたらしかった。


 頭の中は靄がかかったようである。


「そうだ! か、兼常は……」


 うろたえたが、幸いにも兼常は、しっかと握ったまま手のうちにあった。


 安堵した崎十郎は、ようやく落ち着きを取り戻し、船頭に向かって、


「すまぬ、恩に着る。いまはなにも礼ができぬが……」と心から礼を述べた。


「いいってことよ。気にすんな。で、ものはついでだ。今日の仕事はお終いだからよ、お武家さんの家の近くまで送ってやらあ」


 鬼瓦のような顔つきをした船頭はあくまでも親切だった。


「では……」


 善次郎はまだ戻っていないだろうが、ともかくつなぎを取りたかった。


 崎十郎は北斎宅に向かうことにした。



 こちらは猪牙舟で右膳は歩行だから断然、早い。


 捕り方が手勢を集めて押しかけるには、さらに刻がかかるだろう。


「すまぬが、竪川の一ッ目之橋あたりまで送り届けてもらえぬか」


「お安い御用でえ」


 いなせな船頭は、一ッ目之橋の川岸に舟を寄せてくれた。


 崎十郎は、葦がまばらになった地面に、どっとへたり込んだ。


 水辺に生い茂った葦の茶色い穂が風にさやさやとなびいている。


 一陣の風にぞわっとする寒気を感じたとき……。


 ふとひらめくものがあった。


(あの技は、駒川改心流の秘技、涎賺よだれすかしだ。養父上から聞いたことがあった)


 胸のつかえが取れた崎十郎は、晴れ渡った大空を見上げて大きく息を吸い込んだ。


(やはり右膳に母の実家の話などしていなかったに違いない)


 狡猾な右膳は、あらかじめ崎十郎に関して調べ上げていたのだ。


(右膳が辻斬りと判明したからには遠慮は無用。九鬼神伝流対駒川改心流、決着をつけてみせる)


 闘志がめらめらと湧き上がり、身体の芯から熱くなった。


 ともかく一刻を争う。


 本所相生町の北斎宅を目指した。




 北斎の長屋に着いて付近を覗ったが、捕り方の姿は見えなかった。


 裏から北斎宅に入ってみたが、やはりまだ調べが終わっていないらしく、善次郎の姿はなかった。


「実は……」


 手短に事情を告げた。


「そりゃあ大変てえへんだったな」


 お栄はずぶ濡れになった崎十郎を見て視線を揺らした。


 さすがの北斎も、絵筆を持ったまま動きを止めて聞き入っている。


「崎十郎、これに着替えな」


 北斎は着ていた小袖を手早く脱いで手渡してくれたと思うと、炬燵にかけた布団にもぐり込んで、ふたたび〝かたつむり〟に戻った。


「すまぬ、親父殿」


 北斎は大柄なのちょうど良い丈だった。


 老人臭い匂いが染みついていたが、かえって安らぎが感じられた。


「髷も武家風なままじゃまずいけど時間がねえか」


 お栄が焦った口調で指摘した。


 髷の形は身分によって異なる。


 町人に化けるなら結い直さねばならない。


 できるだけ髪を乱して誤魔化した。


「手拭いで頬かぶりすりゃいい。お役目がら変装はお手の物だからな」


 小人目付の役目には、諸侯や旗本の素行を密かに調査する任務も含まれるため、隠密のように身をやつすおりもあった。


 身分や職によって、服装、髪型だけではなく、話し方、歩き方まで違う。


 一目見れば、武士、職人、商人の区別だけでなく、階級や職種までわかってしまう。


 ただ身をやつすだけではなく、それなりの鍛錬や工夫が必要だった。


「職務上の経験がいまになって役に立つってえわけだ」


 頬かぶりして着流しの裾を尻っぱしょりすれば、葛飾亀戸村あたりの水呑み百姓、いや、物乞いに見えるだろう。


 お栄が藁の筵を持ち出して、両刀が見えぬように包んでくれた。


「回向院の本堂の裏手におる。善次郎殿が戻られたらつなぎを頼む」


 お栄に言い残して長屋の路地に出た。


 背中を曲げて、どぶ板の上をがに股気味にひょこひょこ歩いて長屋木戸に向かった。


 立ち話していた長屋のおかみさん連中が、


「お菰だよ。汚いねえ。いつのまに紛れ込んだんだい。あ~、臭い、臭い」


 袂で顔の前をばたばたと扇ぎながら、少しでも触れては大変といった顔で、大仰に道を空けた。



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