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第35話  右膳と対峙するも……

 東叡山寛永寺の寺域に逃げ込んだあと、どこをどう走ったか定かでなかったが、とにもかくにも追っ手を振り切ることができた。


 崎十郎は、大川に架かる吾妻橋を渡って、本所の北にあたる中ノ郷へと足を踏み入れた。


(右膳殿らの追捕を振り切れたが、さてどうしたものか)


 園絵の待つ家や北斎宅には戻れない。


 善次郎の見世や自宅も、火盗なり町方なりの探索の手がのびる。


(悪を糾弾するお役目の拙者が、お上に追われる身になるとは情けない)


 背中にぐっしょりとかいた汗が心をざわつかせた。


 源森橋を渡り、水戸家下屋敷の前を通って大川沿いの道を竹屋の渡し方向へと向かった。


 墨堤と呼ばれる大川(隅田川)の堤には桜木が植えられていて春は花見客でにぎわうが、いまは桜の葉も早々と散って寒々しいばかりだった。


 墨堤から桜の並木越しに、刈り入れの終わった穏やかな田が広々と霞んでいる。


 少し先の州崎村には、実母お琴の生家があった。


 お琴の兄の代で血筋が途絶えて、三年ほど前から空き家になっている。


 竹藪に囲まれた小さな田舎家は、夜露を凌ぐには格好の場所だった。


(あそこしかあるまい)


 懐から手拭いを出して額の汗を拭いた、そのとき。


「やはりここであったか」


 桜の巨木の影から右膳がぬっと姿を現した。


 同心、小者をはじめ、平太らの姿はなかった


「なぜここが……」


「過日、そこもとは、実母の生まれた州崎村を、桜の美しい風雅な地だと得意げに話しておったではないか」


 記憶になかったが、右膳相手なら話したこともあったに違いなかった。


「右膳殿には信じていただきたいのです。さきほど逃げ去ったわけは……」


 言いかけた言葉を右膳がさえぎった。


「わしはそこもとを信じておったに」


 怒りに満ちた眼差しですらりと刀を抜き放った。


「よくもいままでたばかってくれた。お縄にする気などない。かつて友であった者として我が手で成敗してくれる」


「お待ちください。拙者が辻斬りを働くような男だとお思いですか」


「言い訳無用」


 聞く耳をもたず、激しく斬りこんできた。


(このように愚かなおかただったとは、いまのいままで見損なっておった)


 我ながら情けなくなった。


「やむを得ませぬ」


 崎十郎も愛刀兼常を抜き放った。


 北辰一刀流の同門同士の戦いになった。


 互いに晴眼で正対する。


 裏剣客たる実力を隠すどころか、全力で対峙せねば斬られる。


 とはいえ、誤解している右膳に向かって本気を出せるはずもなかった。


「右膳殿と戦いたくありませぬ」


 まっすぐに小手を斬ってくる右膳の太刀を振りかぶりながらすり上げた。


 正面を打ってくる太刀を、裏で巻き上げて右に巻き落とす。


 防戦一方になった。


 右膳の太刀先は鋭い。


 戦意がない崎十郎はかわして逃げまわるしかなかった。


「!」


 突如、迫ってくる殺気が濃くなった。


 右膳の運足が変化した。


 威圧する足運びに崎十郎は後退した。


(この足運びは……)


 激しい動揺が走った。


「せやあ」


 右膳の裂帛の気合いがほとばしった。


「!」


 かろうじて身をかわした崎十郎の右足が宙を踏んだ。


 土手の端に寄りすぎていたため足下がどっと崩れたのだ。


 崎十郎の身体は堤を転がり落ちて夕闇迫る大川に吸い込まれていった。



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