目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第34話 疑われる崎十郎

 平太からの報せで、昨晩、忠兵衛が根津の妾宅に泊まったと知った崎十郎と善次郎は、忠兵衛に〝直談判〟すべく早朝から根津に出かけた。


 妾のお吉は、忠兵衛が営ませている女郎屋御影楼にほど近い、玉林寺門前町の一角にある、小粋な仕舞屋に住んでいた。


 昨夕、忠兵衛は子分三人を引き連れて駕籠でお吉の妾宅を訪ねたが子分はすぐに帰した。


 午に不忍池の茶屋で催される、火消の頭仲間の会合に出るとの情報も得ている。


 帰途に通る道は一本しかなかった。


 念のため、平太にお吉の家を見張らせ、藍染川の堤下で待ち伏せすることにした。


 藍染川は根津権現の東側を流れて不忍池に注ぐ谷戸川の末流で、幅二間(約三・六メートル)ほどの清らかな川だった。


 蜆が取れて蛍の名所でもあるため、蜆川.蛍川とも呼ばれている。


 両側は樹木が鬱蒼と茂った大名屋敷で、昼間でもひとけがないため忠兵衛を捕らえて吐かせるには好都合な場所だった。


「そろそろ町駕籠を仕立てて通るはずですが……」


「ちと遅いな。忠兵衛め、昨晩のお楽しみが過ぎて朝寝坊してやがるのか。忠兵衛の注文で交合図を描いたことがあるんだが、お吉はあだっぽい女でな。女郎あがりゆえ、男の〝もてなし方〟もなかなか達者なんだ」


 善次郎は舌で唇をひと舐めした。


 どうやら画を描く際に〝味見〟もしたのだろう。


 待てど暮らせど忠兵衛は通らない。


 藍染川沿いの道をたどって、善光寺坂の上り口に位置する天眼寺の角で右に曲がれば、玉林寺門前町だった。


「お吉の家まで様子を見に行ってみますか」


 武家地と寺社地の間にある道を二町(約二百メートル)ほど根津方向へ進んだとき。


「あれはなんでしょう」


 はるか彼方の道の先に十数人の人影が見えた。


 女もひとり混じっている。


 不穏な空気に足を速めて近づいたところ、見慣れた縞の羽織に縞の小袖姿の平太が見えた。


 さらに向こうにいる武士は、右膳と配下の同心たちに違いなかった。


 崎十郎に気づいた右膳が軽く会釈し、崎十郎も丁寧に一礼を返した。


「崎十郎さま」


 平太は、ひょいひょいと肩を揺らせながら、小走りに近寄ってきた。


「夜明け前からお吉の家を見張っていやしたところ、お吉の奴が、旦那が出かけたきり戻らないと騒ぎだしやしてね。あっしらが忠兵衛の骸を見つけたってえわけです。で、すぐに右膳さまにお越しいただいき、いまは町奉行所へおねげえして検使与力の旦那のお越しを待っているところでやす」


 近くで見る平太の鬢には白いものが目立った。


 下っ引きがふたり、子細に周辺のくさむらや水辺を探っている。


「これは若竹屋の里助さんじゃねえですかい。あっしです。御影楼の文吉です。忠兵衛さんがてえへんなんですよ」


 善次郎を見て貧相な中年男が声をかけてきた。


 風体から見て遊廓の若い衆だろう。


 男のうしろには取り乱した様子の年増女が、身体をぶるぶると震わせながら立ち尽くしていた。


 自堕落に着崩した姿からあふれ出す汚らわしい色香がこちらまで臭ってきそうで、崎十郎は思わず顔をしかめた。


「お吉姐さん、大丈夫ですかい」


 善次郎はお吉に近づくと、羽織を脱いでお吉の肩にそっと着せかけた。


「ああ、英泉先生でしたか。うちのひとが……あのひとが……」


 お吉は、小皺の目立つ顔をさらにくしゃくしゃにしながら善次郎の胸に飛び込んで、大仰に泣き崩れた。


「てえへんだったな」


 善次郎はお吉の丸身を帯びた背中を、子をあやすように優しく、とんとんと叩いた。


「昨日の晩、頭巾をかぶった恰幅の良いお武家が訪ねてきなさったのさ。あのひとは上機嫌で『遅くなるから先に寝てろ』なんて言いながら出かけたんだ。朝になっても帰ってきなさらねえもので、文吉と手分けして探していたら……」


 お吉は、泣きじゃくりながら途切れ途切れに訴えた。


 斬り口をあらためれば、例によって腋を斬られているに違いなかった。


(仲間割れってことか)


 黒幕だと思っていた忠兵衛が、あっさりと斬られてしまった。


 力んでいた肩の力がどっと抜けた。


「平太親分、こんなものが落ちてやした」


 水辺を探っていた下っ引きが、繁茂した水草の中からなにか拾いあげた。


「右膳さま、これは……」


 受け取った平太が右膳に手渡した。


 印籠だった。


「あ」


 声を上げそうになって慌てて口を閉じた。


 遠目なので紋まで確認できなかったが、なくした印籠に違いなかった。


 印籠の柄を見た右膳は、愕然とした表情を浮かべて動きを止めた。


 右膳は、鼠図の蒔絵が施された、崎十郎の印籠を見知っている。


 過日、右膳に問われたおり、蒔絵師山本家の祖、初代山本治三郎春正の作で百三十年ほど前の品だと答えた覚えがあった。


 背筋が凍る。


 印籠の表裏を見返しながら、右膳は悲しげな顔で首を振った。


 静かに歩み寄ってくる顔からは感情が消えていた。


「崎十郎殿、念のため太刀を拝見いたしたい」


 つい昨日、人を斬ったばかりである。


 大刀をあらためられれば血糊が認められる。


 右膳が親しい友を簡単に下手人扱いするとは思えなかった。


 事情を説明すればすぐに信じてくれるだろう。


 だが、火付盗賊改の頭、永田与左衞門がどう判断するか……。


 火付盗賊改は出世の手蔓となるお役目だった。


 目立つ事件の検挙数が多ければ、京や大坂の町奉行などへの出世もあり得た。


 与左衛門は手柄を得るに性急な男だと右膳から聞いている。


 真吾の一件から考えても、冤罪を恐れて詮議に慎重になることはないだろう。


 たとえ潔白を証明できるとしても刻がかかる。


 真吾を救うには刻がない。


 悠長にしてはいられなかった。


 掌に汗が滲んだ。


 真吾を救えば、我が身の潔白も晴れるのだ。


「右膳殿、これには子細がある。信じてください」


 崎十郎は脱兎のごとく逃走した。


「おい、崎十郎」


 善次郎の裏返った声と、捕り方の怒声が追いすがってきた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?