俺は昔からトラブルに巻き込まれやすい体質ではあるのだが、今日ほど大きな事件に直面したことは無かった。
春から始まった警察大学での寮生活、たまの休みに都心へと繰り出し、今日開業の複合施設に何かの話題くらいにはなるかと足を踏み入れてみれば――俺の目の前で、建てられたばかりであろうオブジェがばらばらに崩壊した。ちょうどこの前ニュースで見たタワーマンションの崩落のように、到底物理法則に則ったとは考えられない不自然な壊れ方だった。
ビルの三階に達するくらいの高さだったオブジェが崩れたにも関わらずあの人混みで怪我人が出なかったのは奇跡としか言いようが無いが――壊れたオブジェが一つだけではなかったというのは、恣意的な超常現象としか思えない。
次々に不自然な破壊に見舞われる広場の建造物。
ただ事ではない事態の只中にいる。
「――落ち着いて! 落ち着いてこの場から離れて下さい!」
パニックに陥る周囲の人々へ、俺は咄嗟に声を張り上げる。
未だ訓練期間とはいえ、俺は警察庁に総合職で採用された警察官だ。こういう不測の事態で自分に求められる役割については、頭に叩き込んできたつもりだ。
目の前で何が起ころうと、俺だけは冷静に、秩序を維持する。
「――うーん、もう少し派手に色々ぶっ壊したいなぁ。今日は極力死人を出さないようにって話だったけど、極力ってことはぁ、力及ばなかった場合は仕方ないってことだよねぇ」
不意にすぐ傍からこの事態にそぐわない落ち着いた少女の声が聞こえてきた。
振り返ると、そこには袖の長いモノトーンのワンピースを身に纏った小柄な少女。
俺は自分の妹と同い年くらいのその少女から――これまで感じたことの無いくらい不気味な雰囲気を感じ取った。
ただ者ではない。普通ではない。
この少女は、自分とは違う世界に生きている。
纏う空気が、こちらに向ける不気味な笑顔が、ゆっくりと揺れるように近付く足取りが。
全てが異質だと、俺の脳は叫んでいた。
息をするのも忘れるほど、俺はその少女に呑まれていた。
「……おにぃさん、逃げないの? もうみぃんなどこかへ行っちゃったよぉ」
「……俺は警察官だ。不審な人物を見かけたのに、放置するわけにはいかない」
「それって、ボクが怪しいってことぉ? 失礼だなぁ、壊しちゃおっかなぁ」
「……君、名前は? この騒ぎを起こしたのは、君なのか?」
「ボク? ボクは破壊子ちゃん。子供を破壊するちゃんで破壊子ちゃん。うふふ、覚えてくれたぁ?」
「――この騒ぎを起こしたのは……、君なのか……?」
「おにぃさんの、お名前は?」
「…………」
「人に名前を聞いたんだから、自分も名乗らないとフェアじゃないよぉ。第一、警察官ってあの手帳を相手に見せるもんじゃないのぉ?」
「……清瀬
「ふぅん、そう――どうでもいいけど」
直後、辺りに散乱していたオブジェの瓦礫が次々に宙へ浮かび上がる。
常識外れの光景――そして身に突き刺さる殺意。
逃げなければ、動かなければ。
その思考が行動へと至る僅かな時間の間に、俺の耳は目の前の少女とは異なる少女の声を捉えた。
「へ〜んし☆ん!」
直後眼前を縦横無尽に横切った人影が浮遊する瓦礫を殴り蹴り突き飛ばして破砕する。
フルフェイスのヘルメットと、特撮戦隊ものを彷彿とさせる身体に張り付くような白いスーツ。関節部や背中などには軍用の高機動パワードスーツのものと似たフレームが見て取れる。華奢な身体つきで並外れた速度とパワーを発揮したのは、そのスーツに仕掛けがあるのだろうか。
「あーあ、この変身だってただじゃないんだけどなぁ。また割に合わない仕事ばっかりしてるって、弥生にどやされるよこれ……」
ヘルメットを通して、うんざりしたような様子の少女の声が聞こえてくる。
今更ながら俺は気付く。彼女は先日のタワマン崩落事件の際にテレビカメラへ映っていたという謎の人物そっくりだった。
「――待ってたよぉ、正義のヒーロー」
そんな彼女に両の瞳を爛々と輝かせながら、先程破壊子ちゃんと名乗った少女がにたりと笑う。
「……正義のヒーロー? 誰ですかそれは。私は正義でもヒーローでもありませんが」
「嘘つきだねぇ。キミをそう呼ばずして、なんと呼ぶのさ!」
その言葉を合図に、まだ散乱したままになっていた残りの瓦礫が一斉に浮遊し、ヒーロースーツの少女を大きく迂回するようにして左右から俺目掛けて飛んでくる。
「――そうですねぇ」
直後、俺の身体に訪れる浮遊感。そして目まぐるしく転換する景色。
「ただのアルバイトですよ、通りすがりの」
少女に抱きかかえられて迫りくる瓦礫の礫から助けられたのだと俺が認識したのは、彼女の腕から地面に降ろされた後だった。
「お兄さんはここを離れてください。なんかあの子危なっかしいので、逃げた方がいいと思います」
「し、しかし……! 俺は警察官だ! こんな非常事態を前にして、背を向けるわけにはいかない!」
「でしたら、あっちでお客さん達の避難誘導をお願いします。群集事故が起こりかねない混乱だったので、どうしたものかと悩んでたんです」
彼女の返答に、一瞬答えに悩む。
確かにこの場から我先にと逃げようとする人々で危険な混乱が起こっているのは想像に難くないし、一方で俺がこのままこの場にいてもできることなど無いように思う。
合理的に考えるならば彼女の言う通りにするのが一番だろうと思えた。
「……済まない。それでは、あの少女のことは君に任せる」
「任されても、どう対応したものやらなんですけどね」
自信無さげにそう呟く少女へ現在日本で最も厄介であろう事件を預け、俺は現場を後にした。
こんな無力感を味わうのは警官人生最初で最後にしたいものだと、強く思った。