「……だいぶ人が少なくなってきたね」
不安げな顔のまま、隣に佇む奈留が言う。
咲良と別れてから十数分。施設から出ようとごった返していた人の波は、最初よりかは勢いを弱めているように見えた。と言ってもまだまだ混雑していることには代わりないし、出口付近へ近付けば近付くほどに人がひしめき合っているであろうことは想像に難くない。
「まだ波に乗るには早いんじゃないか。もう少しここで休憩していた方がいいように思うけど」
私がそんな判断を伝えると、奈留はううんと首を振った。
「このまま出口に向かうより、咲良ちゃんを追いかけようよ。咲良ちゃんが向かった方向へはもうほとんど人はいないし、今なら走って追いかけられそうだしさ」
今の事態に不安を覚えていることは確かだろうに、奈留はそんな強気なことを言う。
「なんだよ、お前もトラブル大好きっ娘ちゃんだったっけ」
「ち、違うよ! 私はただ友達が心配なだけ!」
私がからかい口調で言うと、心外だとばかりに言い返してくる奈留。
「恥ずかしい奴」
「からかわないでよ! 紅歌ちゃんだって心配な癖に!」
そうやって自分の胸中を決めつけられるのは些か業腹だったけれど、残念ながら奈留の言う通りな心境ではあったので、反論するのはやぶ蛇だと判断した。
「仕方ない。ちゃんと走ってついてこれるんだろうな、奈留」
「うん、休憩できたし、大丈夫だよ」
そんな友人の返事を受けて、私は走り出した。
人混みの流れとは逆方向に。
みんなが離れようとしている「何か」に向かって。
走り出してから数分で、私達の周りには誰も人がいなくなった。
嘘みたいに閑散とした少し不気味な施設内を駆けるのは、あまり心地良いものではなかった。異常なことをしているという感覚が有酸素運動以上に鼓動を早める。
心拍数が上がって不安感が増したのか、不安感が増して心拍数が上がったのか、とにかく私は、何やら嫌な予感のようなものを感じていた。
とっとと咲良を見つけて戻ろう――そう思った矢先に、前方へ不意に一つの人影が現れた。
「おやおや、わざわざこちらに向かってくる子供がいるとは。取材熱心なジャーナリストでもあるまいに」
そんな台詞と共に私達の前へ立ったのは、今の季節には暑そうなダークスーツをぴっしりと着込みネクタイまで締めた長身痩軀の男性。
黒の中折れハットを目深に被っていて顔はよく見えないけれど、立ち居振る舞いと声からしてかなり若い。弥生サンより二つ三つ上くらいの年齢だろうか。
「テレビの取材陣以外には、今、ここから先へは行って欲しくない。邪魔だからな」
かつかつと足音を立てながらこちらへ近づいてくる男。
私も奈留も走る足を止めて顔を見合わせた。
「……悪いけど、友達がこの先に行ってるかもしれないんだ。状況が状況だし、早く見つけて連れ戻したい。だから通して欲しいんだけど」
「そうか……。聞き分けの悪い子供だな。私は二度同じことを言いたくない。だから次は要望ではなく、命令しよう――今すぐ背を向けて来た道を戻れ、さもなくば迷惑料を絶望でもって支払うことになる」
語気は決して荒くない。しっとりと穏やかな口調。けれど不思議と、有無を言わせぬ威圧感がその言葉にはあった。
こいつはやばい奴だ――私の直感がそう叫んでいる。
逆らえばどんな目に遭わされるのか分かったものではない。
けれどこんなやばそうな奴がいる空間に友達を一人残して帰るなんてことはできない女だった、私は。
「――あんたから命令を聞かないといけない理由がどこにあるんだよ」
「そうか――ならば警告した通り排除する。多少の死人や怪我人は、事件の深刻さを彩るスパイスになるだろう」
男がゆっくりと右腕を上げ、手の平を私達へと向ける。
何かが来る――私の直感はそう予感した。危険で、強烈で、不可逆な何かが。
けれど実際にその何かが起こる前に、私の視界は見覚えのある背中に遮られた。
「やれやれ……。依頼でもないのに、こんな事件へ関わる羽目になるとは。赤字確定だね、今日は。これじゃ咲良のことを言えない」
その声は、昨日散々聞いた男性の声。
どこか疲れたような、諦念の混じった声。
けれどその背中から発される空気は力強く、この場の不安を打ち消してしまうようだった。
「弥生さん!」
隣で奈留がその名を叫ぶ。
それに応えるように彼は肩越しにこちらを振り返って、小さく笑った。
「少し、離れていてくれるかな。あの人はどうにも、危なっかしい」
あの黒スーツの男には従えなかった私達だが、その言葉には素直に頷いて言われた通りに後ろへ下がった。