2024年12月27日(金)21:41
東京都新宿区
西山 瑠花(28)
年末でごった返す地獄の新宿駅に入り、深い深い地下鉄大江戸線に乗り10分ほど。落合南長崎駅に降り立ちスーパーに寄り最低限のものだけ買い、早くもなく遅くもなくただ歩く。何も考えたくない。徒歩7分ほどのマンションに帰ると、案の定部屋が真っ暗。部屋奥のテーブル、PCの画面だけが光る部屋。液晶画面によって照らし出されるコンクリート調の天井と壁。私の唯一の居場所。
電気ぐらいつけなさいよ。何度言ってもいうこと聞かないのでもう諦めている。ただいまー、とだけ言う。おーう、と低く響く声がいつも通りに返ってくる。おそらくはPC画面を見ながらソファで転がっているのだろう。いつも通りyoutubeを見ているようだ。にゃっはっは、と笑い声が聞こえる。
ああ疲れた……本当に疲れた。もうやばい、足がパンパンだ。ヒール履いたわけでもないのにふくらはぎが張っている。腰も少し痛い。なんのやりがいもない、ただ生きるためだけの労働を今年も終えた。何の感傷もない。ゾンビのように、というほどでもないがもう3%ぐらいしか残ってないエネルギーを振り絞りただ思考停止してルーティンを済ませにかかる。洗面台に行きメイクを落とし、スト値を6→4に落とす。顔で稼げる訳でもないがブスと言われる訳でもない。本来の私が鏡に映り、ヘアバンドで髪を制御したら解放される。
夕食はキッチンで済ませた。もうリビングまで持っていくのもめんどくさい。鍋に水入れて沸騰させてめんつゆ入れてうどんとカット野菜と豚肉の細切れを入れればもうそれで終わり。鍋のままかき込もうと思うが火傷しそうなので仕方なく丼に移しそのままキッチンで食べた。母親から今年は帰ってくるのかとLINEが来ていたが返信してない。別に栃木までなら2時間もせずに帰れるが、本当にめんどくさい。18から東京に出てきて、一応毎年一回帰省してきたが、帰るたびに嫌な気持ちになる。もう絶対に帰省しない、と思ってもなぜか負けてしまうを繰り返して10年が経つ。もう無視しようかな、と思うがそれを完遂できるイメージが湧かない。
キッチンから見えるリビング、テーブルとソファ。ソファの背もたれに隠れているが、今も確実に奴はいるだろう。相変わらず私のMacを勝手に開いて勝手に動画を見ている。画面にはでかいメガネをかけた中年童貞が騒ぐ姿。最近ハマっている、バキ童ch.だろうか。バキバキ童貞ですで一躍スターとなったらしい中年童貞がふざけて笑いを提供するチャンネル。ヨコヅナが大好きでほぼ毎日見ているが、何が面白いのかはよく分からない。
にゃっはっは、と笑っていたヨコヅナが背もたれから顔をひょこっと出した。前足二つの上に、ぷっくり膨らんだ顔を乗っけている。体重8kg超え、なぜか人の言葉を喋るデブ猫。拾った時は小さくて可愛かったのに、いつの間にかこんなにデカくなってしまった。猫とか犬の何が可愛いかって、人の言葉を喋らないからなのに。人の心に干渉せずにただ無力ですよ甘えさせてくださーいとお手上げ状態なのが可愛いのに。最大の長所を自ら放棄してしまった愚かな猫。最初はココちゃんと名付けたのだが太りすぎたのでヨコヅナと呼んでいる。
「えーん、疲れたよお。ふくらはぎが痛いよお。腰も痛いよお。もう背伸びしたくない、荷が重いお仕事はやだよお」
低い声。竹野内豊を連想させる響く声でこんなことを言うからなんかすごくやだ。だいたい猫にふくらはぎなんてあるのか。
最初にヨコヅナが喋り出した時、一応びっくりしたからなんでと聞いた。なんでって、瑠花ちゃんの身体だからねえと憎たらしい顔で答えた。はあ? としか言えなかった。だから、瑠花ちゃんなの。ご身体、御神体。答えになってない回答でにゃっはっはと笑っていた。そこで理解を諦めた。
洗い物を済ませリビングに。お気に入りのソファに体を預ける。L字型のアイスグレー。横になりたいが食べたばかりなので、しょうがなく背中は起こして背もたれを預ける。私と同じ姿勢で、後ろ足を前に放り出して背もたれに寄っかかっているヨコヅナ。猫感がまるでない、ただのおっさん。
特に理由もなくスマホを開く。友人たちのグループの未読が溜まっている。開くと他愛もないやりとりが延々と続いている。返信する必要がなければいいなとぼんやり見ているとその必要はなかったのでなぜかホッとし、だったらつるむなよと一人ツッコミを入れる自分がいる。一覧に戻ると、母親から追いLINEが来ていて心底うんざりする。
ねぇ、返信ないけど大丈夫なの?
この一言。悪気はないのはわかってる。ただ何も考えられない人なだけ。なぜ返信がないのか、一秒だけ想像する時間を設ければいいだけなのに、それすらも頭に上ってこない人。全ての会話においてズレを感じるから、一緒の空間がストレスでしょうがない。そして何がストレスかといえば、そんなふうに思う娘がひどい子供、と思わされるあの田舎の独特の空気。それが本当に大嫌い。未だに結婚しないのかとか彼氏はとか聞いてくる奴ら。もうこっちでそんなことごちゃごちゃいう奴、年寄りぐらいだけど。
一回ぐらい結婚しといた方がいいわよ。そう、母親は馬鹿の一つ覚えみたいに今まで何回も言ってきた。結婚に3回も失敗してるくせにどの口が言うのか。だいたい一回ぐらい、の意味もわからないし。というか何もかも意味がわからない。結婚なんかなんでするのか。人と人の関係を契約で縛るという発想自体が違和感しかない。まるでビジネスだ。信頼関係築きたいとか言っているくせに契約がある時点でそれは信用。根底から矛盾している。あんなに戦争みたいな喧嘩を年中私に見せつけておいて。なかなか離婚できない、しかも相手の男は働いてないから離婚したら婚姻費用払わなきゃとかなんとか騒いでたくせになんで結婚なんか私に押し付けてくるのか。頭がわいてるんじゃないか。でも一番ムカつくのは、どの立場でそんなこと言うのと言った時のあの母親の顔。はあ、とため息つくような顔。ほんと、あんたは気難しいわねぇという言葉選びをする無神経さ。子供をわざわざ苦労させたい、自分と同じ目に遭わせて傷の舐め合いができる仲間を作りたい、という心理が丸見え。だから彼氏できないのよみたいなこと思ってるんでしょうけど、ご心配なく。あなたと違ってちゃんと振る舞えるので。でも男なんて、ほんと無神経なやつばっかり。母親そっくり、だから苦手。だったら別に無理して彼氏を置いておく必要なんてない。
「えーん、寂しいよお。ちゃんと大事にしてくれる人が欲しいよお」
ヨコヅナが騒ぐ。前足二つを顔に持ってきて、器用に肉球で涙を拭う動作をしている。もちろん涙など流れていない。
「本当は寂しいんだよお。だから最近ちょっと食べ過ぎちゃうんだよお、タバコも再開しちゃったんだよお。だからたまにどうでもいい男に連絡してヤっちゃ
「もうご飯あげないよ」
「はいすみません」
黙った。前足をでっぷり垂れたお腹に置いて、静かに動画に集中した。
みんなどうしてるんだろう。本当に仲のいい親子なんて都市伝説だとわかってるけど。みんなどう折り合いつけてるんだろう。
わかりやすいクズ親だったらこっちも悩まなくて済むのに。この曖昧な、無碍にすると罪悪感を植え付けてくる微妙な家族。鬱陶しい。でも切るのはなんだか気が引ける。でもなんとなくわかってる、切ったらどう思われるかを気にする自分よりも。多分、孤独になるのが怖いんだ。だから相手に合わせて、勝手に疲れて。男にも要所要所で愛想良くして。気に障る言葉なんて無数にある。あげたらキリがない。でもそれ全部、どういうこと、何でそんなこと言うの。私傷ついたんですけどと言うなんてありえない。なんだこの女めんどくさ、って顔されるのは耐えられない。あの女みたいな顔を見せつけられるのは。でもだったらどうすればいいの。誰かと一緒にいても辛い、一人きりになるのも辛い。お互い素でいられる関係なんて嘘だ。そんなもの漫画の中でしか見たことない。
「わかるわー」
ヨコヅナが呟く。分かるわけもないのに。
「だいたい、表情とか見れば相手が嫌がってるとか、これ言ったら傷つけちゃうかもとか普通に分かるでしょ。なんでそんな簡単なこともできないのかなあ。あの女も、言い寄ってくる男も」
ヨコヅナが続ける。私を見ることもなく、ぼーっとPC画面を見ながら愚痴をこぼすように呟く。
でもそうじゃないこともわかってる。察してちゃんになんかなりたくない。全部汲み取ってもらうなんて無理。だから伝えなくちゃいけない。でもサインを出すとかもまどろっこしいしそういう女みたいなことするのもダルいし。でも馬鹿正直に伝えちゃったらもう人間関係終わっちゃわない? なんでみんな我慢できるんだろ。なんで私は我慢できないんだろう。みんなはそこまで傷つけない良い男を見つけられてるってこと? 私がただ気難しいメンヘラ女ってだけ? そもそもそんな男いるかも謎だけど、いわゆるいい男ってのが現れないのは、私の魅力の無さってことなんでしょう、どうせ。
「……」
ヨコヅナが黙っている。そんなことないよお、って言いなさいよ。ヨコヅナの鼻をつまむ。ふぎっ、と声が漏れる。くしゅんとくしゃみをした。
「いい男はいるし、いい男になれる男も結構いるんだよお」
ヨコヅナが応えた。今度は私の眼を見て言っている。
「ママに言うの。ママの無神経なところが悲しい。結婚しろとか、こう言われたこととかああ言われたこととか、全部嫌だったし傷ついた。なんでそんなこと言うの? って」
「……」
そんなこと……言ってどうなるんだ。あの女は絶対に理解しない。絶対に的外れなことを言い返してきて騒いで終わりだ。正直、それが恐ろしい。
「ワシがついてってやるから。安心しろ」
ふふん、と得意げな表情を浮かべている。なんて頼りない。
「これが言えたら、言い寄ってくる男の質爆上がりだよお」
前足を腕組みして、にゃっはっはと高らかに笑う。本当にムカつく猫。また鼻をつまむ。またふぎっと言ってくしゃみをした。
生意気ばっかり言って。イライラするからお風呂入ってこよ。ソファから離れ浴室に向かう。もう丸焼きにしちゃおうかしら。
「勘弁してくれえ」
後ろから情けない声が聞こえた。