"ガラスの靴を履ける女性を探せ"
王子から各村に伝達が降る。1ヶ月前から国中が大騒ぎ。王族入りを目指し成人前の女性が王宮に集う。だが靴はあまりにも小さい。争いは苛烈を極め、娘の踵を削り指を切り落とす母親が続出。血塗られた舞踏会は日夜繰り広げられるが未だ王子は納得せず。命を落とす女性が後を絶たない。
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レア とある森にて
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太陽が今日も降り注ぐ。日差しはいつもより強く、逞しく。森の鬱蒼として雰囲気にメスを入れてくれるよう。早朝の晴れやかでいたい気分を後押ししてくれる。どれだけこの光が暖かくても、現実を照らしてくれることなどないとは分かっている。でもこの光を浴びないといてもたってもいられない。村に蔓延する空気は大嫌い。どいつもこいつも、人間じゃない。
温かい春。大地と木々の力強い匂い。鼻を柔らかく刺す匂い。自分が傲慢な人間であることを一瞬忘れ、このグリーンとブラウンに溶け込んでいく。朝はいつもここにくる。ここに来ないと1日を乗り越えられない。
アメリー、コレット、イザベル姉さんたち。私の愛する姉たち。ちょっとおバカだけど、でもそこが愛おしい。三人とも愚かな母親、村の老婆たちに騙されて。アメリー、コレット姉さんは魔女たちに呪いをかけられて殺されてしまった。あんな踵が窪んだ、指のない、鳥のような足にされて。そして今日、イザベル姉さんが餌食になる。
痛みに耐える顔、それでも母の愛を欲する愚かな姉たち。姉さんたちは何のために生まれてきたんだろう。そんなことばかり考えては目頭が熱くなる。
母親のために、喜んでもらうために。そして王子に貰われれば裕福で幸福に包まれた生活が待っていると信じて死んでいった。裕福と幸福には何の関係もないのに。現に王族で満ち足りた顔の者など一人もいないのに。皆の目には、あれらがどれほど高貴で徳に満ちた顔に見えているのだろう。彼女たちが呪われているのか、それとも魔女に呪われたのは私だけなのか。
湖畔に着いた。壮大な山々に囲まれ、澄み切った透明な湖。底が深いことが容易に確認できるほど澄んでいる。白鳥たちが浮かび、太陽に照らされた彼らはまるで天使。彼らを見ていると、ふいに妹の顔が浮かんだ。エマ、私の愛しいエマ。まだ12歳の彼女は、流石に舞踏会に連れて行かれないだろう。でも油断はできない。あのクソロリコン王子、ついに14歳にまで手を伸ばし始めた。今日、イザベル姉さんが連れて行かれた後は遂に私の番。どうする、どうすればいい。
ちゃぷ。
水面に踏み入れる音が聞こえた。いつの間にか左隣に猫がいる。まったく気配を感じさせない不気味な猫。前足を水面に浸け、湖畔の水を飲んでいる。ぺろぺろと舌で水を掬い上げ、コクコクと頷くように水を体内に入れ込んでいく。
ぷはー、やっぱここのが一番良いな。猫がそう呟いた。
呟いた……? その異様さに少し遅れて気づく。今、たしかに喋った。
「なんだよ」
猫がこちらを見る。初めて見る奇妙なそれに面喰らう。ぱっと見はどう見ても普通のキジトラ猫。ただ明らかに太っている。下顎が垂れている、と明らかに分かる猫なんて初めて見た。お腹もやはり垂れており、これでは軽やかなジャンプなどできそうにない。それができない猫なんてもはや猫と言えるのか。
「失礼なやつだなあ」
ムッとした顔になった。え、なんで。なんで分かったの。心を見透かされるの……? 喋れるし見透かすし太ってるし、なんなの一体。
「なんなのって。レアだけど」
「……あ、そうなんですね。私もレアっていいます。同じ名前ですね」
「同じ名前っていうか、同じなんだけど」
「……?」
いよいよ意味がわからない。たぶん私は、これぞなんとも言えない表情っていう表情をしている。それを見たデブ猫は、にゃっはっはと笑った。まぁ驚くよねえ。でもこんな世の中だしさ、猫だって喋るよ。そう猫が言った。ああたしかにとは全くならないがもう諦めた。
猫が水面を離れ、木陰の倒れた丸太に腰掛けた。よいしょ、と。そうお爺さんのように丸太に背を預け、後ろ足を伸ばした人間のように地面に座った。今気づいたが無駄に良い声だ。シルベスター・スタローンを連想させるような、低く響く声。なんかすごくやだ。
「てかさー、怒りがすごいよねえ」 猫がこちらを見てぼやいた。怒り?
「もう、おでこに皺ができちゃって。綺麗な顔が台無し」
そう言って猫は前足を器用におでこに持っていく。肉球で、んしょんしょとシワを伸ばしているが一向になくならない。
怒り。そうだ、私は怒っている。どうしようもないクズな母親にも、周りに群がる近隣の老女、魔女たち。でも一番腹立たしいのは姉たちだ。アメリー姉さん、コレット姉さん。あれだけ行かないでって言ったのに。結局は母親を取った。結局は自分にかけられた呪いに負けた。置いていかれた私のことなんてどうでも良かったんだ。あんなに、レア、レアって撫でてくれたのに。あれも全部演技、くだらないままごと、姉妹ごっこだったんだ。
「うわーやめてえ」
猫が騒ぎ出す。肉球でシワを伸ばす動きが早くなっている。いつの間にか眉間に深い皺がよっている自分に気づく。
でも姉さんたちを恨んでもしょうがない。だって結局は、連れ出せなかった私が悪いんだもの。行かないで、って、もう子供じゃないんだから。無理やり引きずってでも逃げれば良かったんだ。でも逃げられない私がいた、ただそれだけだ。
「レアちゃんは悪くないよ」
猫が穏やかに言った。私の目を見て、にっこりと笑っている。こんな柔らかい笑顔は久しぶりだ。最近は妹のエマも笑わない。昔みたいな、心からの笑顔はもう見れないのだろうか。
「呪いを解こうねえ」
また遊ぼうねえ、みたいな調子で猫が言う。軽々しく。どうやって? あの女たちがかけたものは、それはそれは強力なのに。
「殺すんだよお」
変わらず穏やかに猫が言う。少し顔を顰めたであろう私など意に介さず。淡々と猫は続ける。親は偉大、強いものには逆らったら死ぬって思い込み。これを外そうねえ。猫は孫をあやすかのように、優しく包むように私に言った。
殺す、親を殺す。なんで今まで思いつかなかったんだろう。そうだ、無意識に、あの女には絶対に勝てないって思い込みがあったんだ。もう小さい時からぶたれて育った。床の掃除がちゃんとできてないと箒がボロボロになるまで、あざだらけになるまで殴られた。アメリー姉さんが連れて行かれる日、口答えしたら指を切られそうになった。この村には、ううん国中か、親に逆らったら村八分にされる風習がある。仮に母親を殺したら、近隣の魔女たちから今よりも酷い目に遭わされる。多分、そう思い込んでいた。
「でも親を殺したら死刑、って法律もないしねえ」
猫が指摘した。そうだ、ただ殺人罪の規定があるだけ。別に一人殺したって、10年か15年刑務所に行けば良いだけだ。それに村八分にされるって言ったって、他の遠く離れた村に行けば別に問題ない。あるいは国を出てもいい。そうだ、やりようなんていくらでもあったんだ。
ただ。殺したとして二人とも私についてくるだろうか。イザベル姉さんは、連れて行かれても私は死なない、王子に選ばれるんだと信じている愚かなひと。一番母親に懐いていて、一番母親の愛に飢えている人。そして母親から一番見下され、都合のいい奴隷だと思われている人。
エマはどうか。なぜかあの女から一人だけ暴力を受けていない子。母親に怯え切っていて、口答えひとつしたことがない子。私のことを大好きと言ってくれるけれど、絶対的な恐怖の前では脆い気がする。
「二人は付いてきてくれるかな」
「……」
猫は黙っている。でっぷりと垂れたお腹に前足を乗せたまま、じっと私を見つめている。
「せっかく殺しても、あの二人がついてきてくれなきゃ意味がない。イザベル姉さんは殺されてしまうし、エマも親殺しの家の子だとなったらどんな酷いことされるか……」
私も猫を見つめる。猫はしばらく私を見た後、スッと目線を離した。そして湖畔を見つめる。太陽に照らされて光の粒が大量に漂っているような湖畔を眩しそうに見つめている。
「それも呪いだねえ」
口をきゅっと閉じて、もの悲しそうな表情に変わる猫。水面には太陽と、澄み切った空の漂う雲たちが映っている。それらを見て何を思うのか。
「ま、殺せばわかるよ」
猫はまたこちらを見て、にゃっはっはと笑った。殺して、ただの肉人形に変わり果てた豚を見下ろして。あ、返り血は拭かないでね。そのままの格好で姉さんと妹に言うんだ。さあ、お前たちはどうするって。その時の二人の顔を見れば分かるよ。ああ、私の幸せとこの二人の行動は、何も関係ないんだなあって。
猫は淡々と言った。私にはよくわからない。ただすごく残酷で、絶望を感じる何かだなということだけはわかった。なのにどうしてだろう、猫の顔はさっき会った時よりも朗らかで、とても満たされた顔になっている。いつの間にかおでこの深い皺が薄くなっている。
猫がよいしょ、と言って腰をあげた。猫らしく四足歩行に変わり、のっそのっそと私の元へ近づいてくる。私の目の前まで来ると、後ろ足をぴん、と伸ばして私の顔に近づく。私も膝を曲げて顔を猫に近づける。器用な安定感を伴って、猫は二本足で立っている。前足を伸ばして、肉球を私の頬に添えた。身体中がほぐれていくような、とても大きなものに包まれるような感覚。自分を超えた、この世の原則とでも言いたくなるような、それぐらい大きなものを感じてしまう。
内側から込み上げてくる。墨のように黒々としたものが身体中に溢れていく。怖い、けどわくわくする。そんな嬉しさを覚えると、いつの間にか猫は消えていた。