目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話:指を喰らう

 2007年1月17日(水)21:49

 栃木県足利市

 サク(10)


 犬の外飼いは虐待。昭和をとっくの昔に過ぎているのに、田舎では外飼いが普通でしょ、という風潮が蔓延っている。

 屋外飼育は犬を孤立させる。暑さや寒さ、雨風をモロに喰らう。虫刺されによる病気感染、毒蛇に噛まれる可能性、泥や糞尿による汚濁。餌箱も不衛生となり、毒を食わされているようなもの。

 JR両毛線沿いに建つ野村家。柴犬とゴールデンレトリーバーの雑種犬、顔がゴールデンなのに体毛が黒いサクはそこで外飼いされている。汚い犬小屋の前に楔を打ち込み鎖に繋がれている。


~~


 寒い、寒すぎる……

 もうすぐここにきて10年がたつが、この大寒波には全く慣れない。もう歳かな、年々辛くなっている。この家に住む駿というガキが毛布をくれたが、そんなもん何の足しにもならない。小屋もボロくて隙間風が厳しい。夜の冬風はいのちを削る。

 小屋の中から、野村家のリビングの灯りが見える。今日も騒がしい。最近住み始めた、腹の出た気持ち悪いおっさんと駿の母親がまた喧嘩しているのだろう。暖かい家の中で奴らの醜態を見せられるか、比較的静かな凍える屋外で独り過ごすか、どちらがいいのだろう。と思った時に、また真横を電車が通過していく。本当に真横だから震動がすごいし、何よりうるさい。全然静かじゃなかった。何もいいところがない。これなら、空気が凍てついているエアコンの効いた家の中にいた方がまだいい。

 もう物心ついた頃からこの家に飼われている。母親の顔はわからない。まだ小さい時は家の中で入れてもらっていたのに。でも僕が、昼間誰もいなくて寂しすぎて、壁をガリガリしちゃったり、おしっこ漏らしたりしたらものすごく叩かれた。今住み着いている腹の出たおっさんじゃない、前に住み着いていた別のおっさんに。あと駿にも叩かれたな……あのクソガキ、許さん。


 もういつ死んでもいい。どうせあと数年の命だろうし。僕の犬生、何の価値もなかった。人間のせいで母親から切り離されて、人間の都合で外にほっぽり出されて。サクかわいいね、と家の玄関を出入りするときだけ、ここの長女と母親は撫でてくれるけど。そんなのは偽善だ。私は犬を大事にしている、犬を愛しているなんて顔を貼り付けている悪魔だ。たまに撫でるだけで餌やりは駿にやらせている。というか母親なんて、僕が汚いからだろうな、家鍵の先っぽで鼻をツンツンするだけだ。誰のせいでこんな汚い身体になってるんだ。僕がした糞の掃除だってたまにしかしてくれない。だからハエやらがたかってすごく臭いし嫌な環境だよ。散歩もたまにしか連れて行ってくれないし。ご飯の皿だって全然掃除してくれないから汚いし。水を飲むのだって、汚いバケツに入れられて、底にカビが生えてるのに全然掃除してくれないし。もうやだよ、辛いよ。


「辛いよなあ」

 小屋の上から声がする。僕と違って、低く響く声。猫のくせに大型犬みたいな声のなんだか変わった猫。最近よく来るんだ。

「おおお、さみさみ」

 そう言って、ヒョコっと猫が顔を見せた。下顎が明らかに垂れているキジトラのデブ猫。初めてここに来た日、俺はヨコヅナ、と聞いてもないのに言っていた。地位なのか名前なのかは分からない。

 ヨコヅナは自分家のように小屋に入ってきた。狭いからぎゅうぎゅうづめだ。いやあ、お前はあったかいなあとぬくぬくしている。僕は体温を奪われるだけ。

「早くワシの家来になれよお」

 にゃっはっはと笑いながら言った。最近さあ、ここらのナワバリ争いがしんどくてさあ。犬がいれば一網打尽なんだよお、と偉そうに言う。

「無理だよ」

 僕はいつものように答える。なるべくそっけなく。嫌だよ、が正しい言い方かもしれないが、それはなんか反感を買いそうで怖い。だがヨコヅナは引かない。いつものように、もう何十往復もしたやりとりを繰り返す。


 なんで無理なんだよお。

 だって、ここから出られないし。

 お前この前も楔引っこ抜いて、おっさんにぶっ叩かれてたじゃねえか。

 ……。

 脱走ならいつでもできるだろ。

 ……脱走したって、食べていけないだろ。

 大丈夫だって。ワシが食わしてやるからよ。

 ……それじゃ今と大差ない。

 大差しかねえだろお。ぶっ叩かれることもない。逆にお前が猫どもをぶっ叩いて生きていくんだよお。誇り高き犬生を取り戻せるんだよお。

 ……。


 もう何十回も聞かされた。誦んじることも余裕でできる。いつもはここで僕が黙って終わるのに。ヨコヅナはじゃあなーって言って帰っていくのに。なぜか引き下がらない。

「てか昨日、ガムテープで口ぐるぐる巻きにされてたな」

 にゃっはっはっはと大笑いしている。笑い事じゃない。

 昨日、夜中に嫌な気配がした。玄関を見ると、白装束の女が立ってるんだ。怪しい奴がいたから吠えて撃退してあげようとしたのに。この家を守ってあげようとしただけなのに。あのクソジジイが出てきて。ウルセェと怒鳴ってきて。僕の頭を叩いた。僕の口をガムテープでぐるぐる巻きにしたんだ。僕が吠えれなくてモゴモゴしてると、白装束の女がくすくすと僕を小馬鹿にした。クソジジイには女が見えてないのか目もくれなかった。翌朝、駿の母親が僕のぐるぐる巻になっているのを見て助けてくれたけど。クソジジイに怒鳴りつけてくれたけど。でもさあ、そもそもあんたが家に入れてくれないからだよね。自分が飼いたいって言ったんじゃないの? それに、何でそんな虐待する奴を、今日もまた家に入れてあげてるの? 僕は入れてくれないくせに。本当に腹がたつ。思い出したらまたイライラしてきた。

「ワシの家来になれよお」

 ヨコヅナが壊れたように繰り返す。ワシの家はもっと広いし、あったかいぞお。餌にも困らんし、何より自由だ! 人間どもに支配されないし、逆に人間どもを騙して食糧を奪い取ってやるんだ。犬畜生だの猫畜生だの、馬鹿にされることもない。誇り高き生物なのだ、我々は!

 耳元でヨコヅナが騒ぐ。それにワシの家来になったらな、めちゃんこ別嬪なワンコ紹介してやるぞお。お前去勢されてないみたいだからな。童貞のまま犬生終わるなんて悲しすぎるよお。

 にゃはは、と笑っている。どこまで本気なのだろうかこの猫は。くだらない話はどうでもいいけど、でもやっぱり今の生活はどう考えてもおかしい気がする。僕が何をしたっていうんだ。ただ人間どもに従って、ちゃんと愛想と尻尾を振り撒いてきたのに。母親から離されて、凍え死にそうな目に遭わされてるのにおまけに殴られて。

「そうそう。その調子だぞお」

 ヨコヅナが隣で勝手に満足そうに頷いているのを気配で感じる。ちょっと待ってろと言うとヨコヅナは小屋から出て行った。だがすぐに戻ってきた。 口にでっかいネズミを咥えている。首元がパックリと裂けている。

「これとおんなじ目に遭わせてやれ」

 小屋の前でヨコヅナがにっこりと笑っている。

「……え?」

「まあここまでしなくてもいいけど。あのクソジジイに噛みついてやれ」

「……」

「噛み返さない犬はボコられ続ける。そんなんじゃあ、ワシの子分になっても他の子分どもに舐められていじめられて終わりだ。しっかり首輪を外してこい」

 ヨコヅナはそう言って、とん、と飛び上がった。でっぷりしたお腹をたゆらせながら、小屋の上に飛び乗ったようだ。天井にまだヨコヅナの気配を感じる。

 ネズミの肉片を撒いていくから、それを辿ってこい。待ってるぞお。

 そう言って、またとん、と音がした。ヨコヅナは去ったようだ。


~~


 翌日 2007年1月18日(木)06:57 


 一睡もできなかった。ただ凍えてたから、じゃない。ヨコヅナに洗脳されていたから、でもない。いやそれはきっかけではあるのだけれど。僕の生まれた意味、今まで生きてきた意味。犬としての誇り。そんなものを生まれて初めて、ぐるぐると考えてしまった。もうどうでもいいじゃないか、寝よう。どうせ犬である限り、犬畜生だのなんだの言われて終わる犬生なんだし。転生やら何やらがあるならもう来世に賭けよう、っていつもなら逃げられたのに。どうしても寝られなかった。怒りが強すぎて、もう10年分のそれを抑えることができなかった。

 いつの間にか朝日が昇っている。相変わらず馬鹿みたいに寒いけど、夜よりはいくらかマシ。かじかむ両足を動かして小屋を出る。ちょうど小屋の前には日差しが差す。

 ……こんなにあったかいものだったか。そんな違和感を覚える。いつも通りの太陽なのに、いつも通りの朝なのに。何百回、何千回と迎えてきた朝なのに。

 何かが解けていく。身体の強張りが消えていく。俺は今まで何に怯えていたのか。こんな鎖、もう1歳をすぎた頃にはいつでも力づくで外せたのに。叱られること、殴られること、飯をもらえなくなること、つまり死んでしまうこと。こんなくだらないことをなぜ恐れていたのだろう。 もういつ死んでもいい。どうせあと数年の命だろうし。そうほざいてたじゃないか。そう思った時点でもう死んでいたのに、なぜ死んでしまうことなど恐れていたのだろう。


 弾けた。怒りに命が宿ったように、身体中から迸る。遠吠えでもない、勝利の宣言でもない。ただただ、身体中が叫ぶ。

 早朝の静けさを壊す。ふふ、案の定、クソメタボジジイがドタドタと歩く音が聞こえる。何やら叫んでいるようだ。ガン、とドアが開き、眉間に深い皺を寄せた老害が早歩きで迫ってくる。

 この馬鹿犬、黙れ

 ジジイが喚く。俺の嘴に手をかけて、またガムテープを巻こうとした。とても景色がゆっくりと推移していく。身体中の血流が上がってどくどくと高鳴る。

 ごきぃっ

 なんか鈍い音がするなぁ、と思ったら口の中に指がある。指毛の生えた汚い指が。顎にすごく負荷がかかっているなあ、なんかちょっと痛いなあ、外れてはいないだろうけど。そんな他人事のような感覚。意識がただ傍観者、身体が勝手に暴れ回っている。血の味がする。

 ジジイが叫んでいる。声にならない、首を絞められた鳥みたいな情けない声。飛び跳ねて、後ずさった。だがこの後、睨んで俺を殺そうとするだろう。それがものすごく緩やかに流れる映像の中で、確かに感じ取れた。


 あっははははは。

 楔を外すのは朝飯前だ。思いっきり線路に向かって走り出す。首を少しだけ絞められるがなんてことはない。楔は外れ、もう俺を縛り付けるものは何もない。汚い指を線路沿いの茂みに吐き捨て、全速力で走り抜ける。そして今度こそ、生まれて初めての勝利の雄叫びをあげた。

 こんなに気持ちいいんだ。ずっと怖い、こんなことしたらダメだって逃げ回っていたけど。これが本当に正しかったんだ。そう、身体中の細胞が教えてくれる。身体中があったかい。もう10歳なのに今までで一番早く走れている。頬を打つ風すらも暖かい。今なら電車を追い越せる気がする。

 さあどうしようか。ヨコヅナの住処に行くか? ふん、冗談だろう。それじゃあ結局また媚び諂うことになる。俺はもう、誰にも依存しない。猫どもの餌場を奪い取ってやる。俺を捕獲しようとする人間は全員噛み殺す。俺は死ぬまで、俺を全うするだけだ。








この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?