2025年1月19日(日)24:16
栃木県足利市
関口 佳子(59)
つまらない。何をしても、何を観ても。ゴーストなら気分が紛れるかと思ったけど、流石に10回以上観ているからもうだめだ。全然面白くない。
残り5年のローンが残った一戸建て。JR両毛線沿いの、電車が通ると若干揺れる一軒家。もうこの時間になれば電車は通らないから今は静かだけど。
いつも通りリビングのこたつに足を入れ、ただ体を座椅子に預けて過ごす。はあ、明日からまた仕事だ。本当に嫌になる。
別に不幸ではない。男も追い出したし、大学生の末っ子もほとんど互いに干渉しないし。2年後に卒業して出て行ったとしても、特に何も変わらないだろう。友達もいるし、姉もいるし。寂しいとかは特にない。でもつまらない。なんでこんなにモヤモヤしているのかはなんとなく分かっている。長女から勝手に音信不通にされ、長男から「二度と連絡してくるな」と言われたから、だと思う。
"子供3人中2人から縁を切られるなんて明らかに頭がおかしい。それに気づけ"
そう吐き捨てた長男。なんなの、私が一体何をしたっていうの。そりゃあ、子供を一身に思う完璧な母親じゃなかったとは思うけど。でも完璧な親なんていないでしょ。虐待したわけでもない、別に育児放棄してきたわけでもない。ちゃんと育てたじゃない。
「ホント、親の気も知らないで。頭おかしいのはお前だろ」
こたつの反対側でぬくぬくしているのだろう奴が言った。先週から急に喋り始めた猫。キジトラ、肥満、声が渋くて響く気持ちわるい猫。姿は見えないけど、たしかにそこにいる。
頭おかしいとかは別に思わないけど。母親として、子どもをそんな風に思うなんて、特にないけど。でも、そんな風に言わなくたってよくない? 私だって一生懸命頑張ってきた。別に裕福な思いはさせてあげられなかったけど、特別困らせたこともない。でも私がやってきたことを全否定された。そんな権利、あの子にあるわけ?
最近急に歳をとった気がする。気怠いし、肩も腰も痛い。それに去年から右腕がずっと痺れてる。仕事に支障があるわけではないけど、先週から痺れが酷くなってきた。めんどくさいけど、流石に医者に行った方がいいんだろうか。
「医者に行っても治らないよお」
ひょこ、と奴が顔を出した。キジトラのデブ猫。まんまるの大きい顔をこたつの上に乗せて、こちらを見ている。
「長男くんがいっぱいヒントくれたじゃない。あれ、もういいかげんやろうよお。もうワシ、前足痺れて爪研ぎしづらいよお」
口をへの字に曲げて、呑気な声で喋る。ヒントってなに。ああ、小難しいこと言ってたわね。ホント昔っからそう、気難しくて何を言っているのかよくわからない子だった。
お前は自分の本音がわからないから子供に寄り添えないんだ
だから子供から縁を切られるんだ
母親だと言い張るなら、子供の気持ちに寄り添う努力をしろ
そのために、まずはお前の母親と向き合えよ
だっけ。うん、たしかこんな感じだったと思う。本音、って何? 別にあの子に嘘をついてたことなんてないし、あの子と話した時だって私、嘘なんかついてないけど。気持ちに寄り添うって、 なに。そのために母親と向き合うってなに。
"俺がお前に感じてる怒りは、お前が母親に感じてきた怒りと同じだ。だからその怒りを思い出せ。そして母親にぶつけろ"
そう、こんなことも言ってた。え、同じだってなんで言い切れるの? というか、私が母に感じてきた怒りってなに。別にそんなの特にないけど。そりゃあ全くムカついたことがないわけないけど、そんなの普通に親子ならあるもんだし、そんなこといちいち言ってどうするわけ。何の意味があるの。
今更になって色々モヤモヤする。あの子、バーって畳み掛けてくるから何を言ってるのかわからないし、その時に何がわからないのかもわからないから、何も言い返せなかった。思えばいっつもそうだった。あの子がいつだったか、庭でタバコを吸ってた時、私が頬を叩いたら逆上してきた。私のこと蹴り飛ばしてきた。物凄い顔で怒鳴って捲し立ててきた。元々変わった子だったけど、それからはもう言ってることがよく分からなくなってきた。
「はーあ。子ガチャ失敗したかも」
デブ猫がため息ついている。顔はこたつの上に乗せたまま。それ、どうやってるの。足とか体勢どうなってるの。まあいいか、あの子もこの猫も、何が何だかわかんないし。考えてもわかんないし。
"だからお前はバカ女なんだ"
あの子の声が聞こえる。イライラする。私のことを何回も、バカ女バカ女言ってきた。もう呆れて笑っちゃうわ。親のことを親とも思わずにバカにして。そんな人間の考えることなんて分かるわけがない。長女も本当に気難しい子だし。もういいや、これからは一人で生きていこう。
「えーん、寂しいよお。ホントは子供に愛されたいんだよお。私を大事にしてくれる男も欲しいよお。独りで死んでいくのは辛すぎるよお」
猫が騒ぎ出した。前足を顔に持ってきて、器用に肉球を目に押し当て泣き真似をしている。うるさい猫。腹の立つ猫。
「うるさいな」
苛立ちを抑えられなかった。これは本音な気がする。あんなに可愛かったペットなのに、人の言葉を喋った途端こんなにイライラするなんて。でも捨てるわけにもいかないし。そう思いながらデブ猫を見つめていると、猫から急に表情が消えた。こんな、いわゆる真顔に猫ってなるものなのか。
「捨てたいの?」
猫が真顔で問うてくる。目が据わっている。
「もう僕とは向き合ってくれないの?」
猫がこたつの上にとん、と飛び乗った。私に顔を近づけてくる。なんだか気味悪い。
「……なに言ってるの」
言い返すが、何を言い返すべきなのかも分からない。気持ちの悪い猫。なんか言ってることが駿みたいでモヤモヤする。
「もう一生、このままでいいの?」
黒黒とした眼球の猫。猫の分際で、一丁前に私を詰めてくる。
「いいも何も、しょうがないでしょ」
もうだめだ、ここにいるとイライラする。明日も仕事だしもう寝よう。そう思いこたつから足を出し、こたつの電源を切る。空のコーヒーカップを手に取り、台所へ向かう。そっかあ、という猫の声が後ろから聞こえる。そっかあ、うん、そっかあ。そうだよね、しょうがないよね。猫は黙らない。自分を納得させようとしているのか、独り言を繰り返している。コーヒーカップを洗おうと水を出した瞬間、にゃっはっはっはと大笑いが聞こえた。あまりの声量にびっくりする。振り返ると、猫が二本足でこたつの上に立っている。猫は私を見ながら、にっこりと笑っている。
"じゃあねえ"
そう言って、猫は大きな爪を立て首を掻っ切った。ぶちぶち、と太い音が響き、身体が倒れた。こたつの上で魚のようにピクピクと踊り跳ねる猫。首元から力強い血飛沫が飛び散る。ぴゅ、ぴゅ、と不規則だがそれが生命を持っているかのように暴れている。
……何が起こったのか分からない。でもそれが何を意味しているのかは分かった、気がする。