2025年1月21日(火)14:39
群馬県桐生市
関口 ヨネ(87)
朝6時には起きる。朝食を済ませて、朝のニュースを見る。昼までぼーっとテレビを見て、昼になれば昼食を食べ。そしてワイドショーをただ眺めて今に至る。これをもう独りで十年以上繰り返している。長女の家、二世帯住宅の一角に住んでいる。が、長女との会話はほとんどない。長女の旦那との会話もほぼなく、互いに干渉しない。夫が先立ってしまって十年、友人もいなければ話し相手もいない。次女の佳子には「いつまでもお姉ちゃんの世話になってないで、老人ホームとかに入れば? 友達もできるかもよ」なんて言われたけど。なんて薄情な子だろう、親に老人ホームに入れ、だなんて。みっともない。子供に面倒見てもらえない親ですと言っているようなもの。みっともなくてそんなことできるわけない。
早く迎えにきてほしい。じいちゃんのところへ行きたいが、まだ当分迎えにはきてくれないようだ。この生きてるのか死んでるのか分からない生活を、あと何日繰り返せばよいのか。
「寂しいよお」
テレビを見ていると、キジトラ猫が膝の上に転がってきた。長女夫婦が飼っているデブ猫。廊下を潜り抜けてよく私のところにやってくる。先週から喋り出したからびっくりして長女に報告したが、怪訝な顔をされた。ああ、ついにボケちゃったのかなこの人、という顔をしていた。長女はいつもこうだ、私を邪険に扱う。でもさすがに私も、猫が喋るなんて聞いたことがない。自分でもボケたのかと受け入れざるを得ない。
「長女も冷たいし、最近は次女も顔を見せないし。孫たちも全然帰ってこないし。ずっと独り、寂しいよお」
デブ猫が、にゃおーんと鳴いている。ゴロゴロと喉を鳴らしながら、低く渋い声で鳴いている。まるで私の状況を見透かしているかのように、猫は私の名前も家族の名前も皆知っている。不思議な猫。
先週、久しぶりに佳子が顔を見せにきた。いつも特段明るいわけではないが、特に元気がない様子だった。娘に対していうのもあれだが、すごく老けたなと思った。何かあったのか、と聞いても別に何もないよ、としか答えない。そういえば佳子は私にあまり自分のことを話してくれない。昔からそうだ、いつからだろう。
最近、もうすぐ死ぬのだという感覚が強くなってきている。そのせいか、昔の記憶がどんどん頭に流れ込んでくる。思えば嫌なこと、辛いことばっかりの人生だった。それなりに楽しいこともあった幸せな人生だと思いたいけど、でももう一度やり直したいかと言われたら絶対に嫌だ。思い出したくもない思い出ばかりが、やけに最近は思い起こされる。
いつものように何気なく、佳子に孫たちの様子を聞いたら急に不機嫌になった。末っ子のことは、元気にしてるよと答えたけど。長女、長男のことを聞いたら、知らないよ、とだけ返してきた。随分強い口調だった。知らないって何よ。連絡取ってないの? そう聞いたのがまずかった。だから知らないって言ってるでしょ! 佳子は語気を荒げて言った。この子も最近は私に冷たくなってきた。一生懸命育ててきたのに、なんていうつもりはないけど。なんでこんなに冷たくされなきゃいけないの。
昨日、佳子の孫たちに電話した。自分の子供なら大丈夫なのに、孫になると少し気を遣う。成人した孫って、なんだか不思議な存在だ。自分の子供より可愛いと思う気持ちもあるけど、自分の子供以上によく分からない。そして何でだろう、嫌われたくないという気持ちが強い。
長女、次女は出てくれたけど。駿は出てくれなかった。だからさっきも電話したのに、ずっと呼び出し音が鳴るだけだ。佳子に聞いても教えてくれないし、何かあったのか。
「着信拒否にされてるねえ」
膝の上で転がる猫が呑気な声で言った。え、なんで。なんでそんなことわかるの? 聞くと、だってずっと呼び出し音っておかしいもん、と猫が答えた。どういうこと、ずっと呼び出し音っておかしいのか。いやそれよりも、なんで私が駿に着信拒否されなきゃいけないの。別にあの子を怒らせたことなんてないはず。一年前ぐらいに一度電話したきりだけど、その時だって普通に話してくれた。多分、あの子の身に何かあったんじゃないか。なんで佳子は教えてくれないのか。
「佳子もわかんないんでしょ」
猫はそう言うと、膝から転げ落ちた。畳の上に転がった後起き上がり、ストーブの前で再び丸くなる。ああああ、あったけえええ、とおじいさんのようにぬくぬくしている。
よく分からない。結局私は、娘二人のことも、孫たちのこともよく分からなかった。でもどうすれば昔みたいに仲良く話せるのかも分からない。それに今更何かを変えるのはもうつらい。
「まだ遅くないよお」
猫は私に背を向けたまま言った。佳子ちゃんは、3歳の時からずっと泣いてるよお。ママとパパが夕食の時、いっつも怒鳴りあってたのを見せられて泣いてるよお。小学生の時、佳子ちゃんが靴下の長さが揃わないってずっと触って泣いてたのは、強迫性障害って病気。それはママのせいなのに、ママがいい加減にしなさいって怒鳴っちゃったから、もう佳子ちゃんはずっと我慢してきたんだよお。佳子ちゃんが最初の旦那と離婚したい、実家に帰りたいって言った時に、ママがみっともないって言っちゃったから。もう二度とこの人には本当のことを言わないって、決意しちゃったんだよお。だから、今からちゃあんと、丁寧に謝ろうねえ。
長々と、他人事のように。淡々と猫は言った。言い終わった後、くるっと私の方に顔を向けた。にゃっはっはと笑っている。人を馬鹿にしたように笑っている。
まるで見ていたかのように言う猫。だけど、そんなことあったかしら。いっつも怒鳴りあってた……? そりゃあたまには喧嘩することもあったけど、別に佳子、泣いてなかったと思うけど。靴下にしたって、そんなこといちいち覚えてない。大体、嫁いだ女はそこでつとめあげるものでしょ。そんなちょっと喧嘩したぐらいで離婚してたんじゃ孫たちが可哀想だし。だいたい、離婚したら女独りでどうやって食べていくっていうの。手に職があるわけじゃないんだし、年齢も30半ばになってたし。再婚ができるか分からないし。何より、実家に娘が帰ってきたら、佳子だって近所の人から変な目で見られるのに。多分あの子は何も分かってなかった。だからあの子のために教えてあげただけなのに。なんで私が謝らなきゃいけないの。
そんな風に思っていると、見透かしたように猫が私を見ている。口元を歪めて、人を馬鹿にしたような笑いを浮かべている。本当に可愛くない猫。
「えーん、ホントは娘たちと仲良くしたいよお。孫たちにも愛されたいよお。みんなに大事にされて看取られたいよお」
猫がストーブに身体を向けたまま、前足で器用に顔を覆っている。顔も私ではなくストーブに向け、肉球で顔を覆い泣き真似をしている。どこまでも年寄りを小馬鹿にする猫。
もういい。私はできるだけのことはやってきたんだし。それが伝わらないなら、もうそれでいい。もう嫌なことは思い出したくない。義母から揖斐られ続けたことも、娘たちから責められてきたことも。もううんざり、これ以上私を責めないで。
テレビを見遣ると、ちょうどワイドショーで高齢者からの相談コーナーをやっている。テーマは、親の心子知らず。今の私には心地よい言葉、と思うがすぐに言い知れぬ虚しさがやってくる。そこに蓋をしようとしていると、再び猫が近づいてきた。いつの間にか私の前で、黒黒とした眼球をこちらに向けている。まだ日中だと言うのに、まるで夜中のように黒黒としている。
「もう責められたくない?」
猫のいつもの呑気な様子が消えている。表情は消え、低い声で。まるで詰めてくるかのような調子で私に言う。
「……」
「娘には、もう絶対謝らない?」
「……」
そんなことを言われても。誰も好きこのんで責められる人間はいない。娘にだって、何をどう謝ればいいか分からないし。考えてもたぶん分からないのに、考えてもしょうがない。それに、もうこの歳になって今更、もういい。もうくるしい。
「そっかあ」
猫は肩を落としている、という動き。頭をうなだらせ俯いている。心底残念そうに呟く。そっかあ。せっかく頑張って喋ったのになあ。チャンスだと思ったのになあ。そう、独りごちている。
トン、と小さく音がした。猫が器用に、後ろ足2本だけで立っている。妙な安定感を伴って、私の頬に前足を添えてくる。
"じゃあ、全部もらっちゃうねえ。これでもう安心だねえ"
そう言って、猫はにゃっはっはと笑った。すーっと、私の視界から猫が消えていく。
猫だけじゃない。テレビも、部屋の畳も。じいちゃんを包む線香の匂いも、すーっと波が引くように消えていく。真っ白、何も映らなくなった。 私にはたしか娘がいた。今、小さな女の子を抱いている。ミルクの甘い匂いを感じさせながら、キャハハと笑っている。もう一人の大きな女の子が、私に抱きついてきて。可愛いねえと笑っている。
あれ。この女の子たちは、だれ……?