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第8話:コタキナバルにて勃ちません

 2015年8月29日(土)02:47

 コタキナバル

 平河 冴(22)


 ここがどこなのか分からない。いや分かってはいるんだけど、東南アジアのどこかにいるってのは分かってるんだけど。ここがフィリピンなのかマレーシアなのかインドネシアなのかとか、そういうレベルでよく分かってない。東南アジアは大体同じ。沖縄の左下のどこかしらにいるってのは分かる。出発前には聞いた気がするんだけど、全部彼女に任せているから詳しくは分からない。あと今泊まっているホテルがヒルトンってことと、また今日も勃たなかったということもわかってる。

 静かに寝ている、と思われる彼女を置いて部屋を出た。廊下に出た時の開放感たるや。そしてエントランスを抜け、日中のむさ苦しさが抜けた外気を吸うと、今初めて、ああ旅行に来たんだなと思い知る。彼女と一緒に羽田空港に行き飛行機に乗りコタキナバル空港に着いてそこから車で移動して、という行程も楽しかった。と言い聞かせたい。だが今、この街にきて初めて身体が緩んだ気がしている。昔サッカーの遠征で海外に来たことがあるがまさにそんな感覚。なんだろう、仕事感があるんだよな。で、束の間の休息をスケジュールの合間を潜って無理やり獲得する、みたいな。 

 ホテルを出て通りに出る。夜中でも最低限の明るさはある。ホテル内でもそうだし、街に出ても臭うこのバナナの皮みたいな匂いには慣れない。ああ、日本にはいないのだなとつくづく思い知らされる。あれ、ここは治安がいいんだっけ。たしか彼女はいいと言っていたはず。でもまあ、攫われてもいいか、と自分に言い聞かせる。本当に攫われた時を思うと少し強張るが、それでも今は魂の牢獄から抜け出したい。どこか、発狂したくなる気分が紛れる場所へ。


 少し歩くと海辺に出た。海風の気持ちよさは万国共通。気温も日本とあまり変わらない、だから夜の涼しさも同じ。海辺のコンクリートに腰掛け、持ち込んだタバコに火をつける。海外のタバコはなんか怖いから、お気に入りのマールボロゴールド。ずっと我慢していた一本は至福。視界の先にぼんやりと黒い影が浮かぶ、おそらくは島を眺めながら煙を吐き出す。魂まで一緒に煙となって消えていくような感じが好き。

「若いのに勃たないのかあ」

 後ろから声がした。低く響く声、おそらくはおっさん。だが振り返っても誰もいない。夏なのに、いや夏だから余計に鳥肌がたった。なんだ、出るのかここは。そう思いながら前を見ると、出た。いつの間にか、全く気配も感じなかったものが出た。

 太った猫。左隣にいる。後ろ足を前に投げ出し、人間のように腰をコンクリートにつけてくつろぐデブ猫がいる。うお、と思わず言ってしまった。猫はにゃっはっはと笑っている。すまんすまん、と右前足をあげて謝るポーズを取っている。なんだ、東南アジアの猫は喋るのか。

「そういうことじゃねえよ」

 にゃっはっはと猫は笑っている。あ、一本もらえる? と言われたので素直に応じてしまう。悪いねえ、と言って猫は器用に火をつけ、煙を深く吸い込んでいる。蒸すのではなく、しっかり肺に入れている。なんなんだこのおっさんみたいな猫は。

「お前がおっさんみたいだからさあ。おっさんモードなの」

 そう言って、猫は器用に肉球の間にタバコを挟みぼーっと遠くを眺めている。なんだ、俺がおっさんみたいだと。というかこいつ、勃たないのかあって言ったか。なんで分かるんだ。

 まあそれはどうでもいいじゃないか。デブ猫は煙を吐きながら続ける。大事なのは、ちんちんが勃たないことだよ君、とタバコの火先を俺に向けて偉そうに言っている。男にとってこれはもう一大事だ。存在価値が危うくなる。俺は劣等生物下等生物なのだと、もう脳みそが騒いで死にたくなるよなあ、うんうん、わかるぞおと独り言を続けている。 

 なんなんだこのバカ猫は。だが……言っていることは大袈裟だが、的外れでもない。いや大袈裟でもないのかもしれない。現に俺は知らない海外の街で、治安状態すらもよく知らない中でふらふらと夜中に出歩いている。ぼんやりと、生きることへの執着が消え掛かっているのも感じている。死にたい、と明確に思うわけでもないが、生きるのが楽しいなんて微塵も思わない。一切の苦痛なく死ねるならそんな幸せな事もないだろう。

 今日も勃たなかった。彼女と付き合ってもうすぐ3ヶ月経つが、一度もまともにできたことがない。調子がいい時は勃つが、多分俺の余裕がないからだろう、彼女の身体が強張り痛いと言われる。ああ、俺の皮膚が強張っているから、それが伝染しちゃうんだ。そう思うと余計に余裕がなくなってくる。セックスしたいという純粋な欲が、重ったるい荷物に変わっていく。そんなこんなで最近してこなかったが今日は海外旅行だ。流石にするだろうな、というかしなきゃダメでしょ、頑張らないとダメでしょ。そう勝手に思い臨んだがやっぱりダメだった。彼女が気を利かせて上に乗ってくれたが、その途端にああ怖い、もう苦しいとなって萎えてしまう。彼女が乗った途端に萎えたもんだから、それはそれは無神経な愚息だ。変なメッセージになってしまったのだろう。その時の彼女の顔……部屋が暗がりでよかった。まともに見えていたら辛すぎて失神していたかもしれない。それが容易に想像できるほど、彼女の醸す雰囲気は残酷だった。

 なんでだろう。思えば俺のセックスは多分、純粋なそれだったことは一度もないのでは。18歳で初めてやった時も全然タイプじゃなかった。でも大学生にもなって童貞はヤバいだろと勝手に焦りまくっていた男子校出身の俺は、9個上のお姉さんに抱いてもらった。クソ非モテな俺でも、明らかに好意を寄せられているのに気づいたから甘えた。全然気持ち良くなかった。

 ああそうか、タイプじゃないから気持ち良くないんだ。俺が非モテ陰キャ野郎だから綺麗な子と付き合えないんだ。そう、世の中を学んだ気でいた俺は、それをゲームのように楽しむことなどできず。己の存在価値を示すため。「お前の彼女ブスだなー」と言われないため。うわ、お前の彼女すげえ綺麗だな……と他の男共の劣等感を逆に煽り散らかしてやるため。自分が学生時代に受けてきた屈辱を晴らすためだけに、頑張って頑張って女性と相対してきた。そのなれの果てが今。

「えーん、辛いよお。モテなくても、クソ陰キャでもダサくても、女性から愛されたいよお」

 デブ猫がわざとらしく喚いている。前足を顔に持ってきて泣き真似をしてやがる。腹立つデブ猫。じっと見ていると、前足をずらしてチラッと俺を見た。目が合うと、にゃっはっはと笑って泣き真似を解いた。笑い事じゃない。

「てかさあ、なんで勃たないといけないの?」

 猫が真顔で問うてくる。なんなんだこいつは。


 勃たなきゃセックスできないだろ。

 んー。なんでセックスできなきゃいけないの?

 ヤれない男なんて選ばれないだろ。

 なんで選ばれなきゃいけないの?

 ……選ばれない男なんてゴミだろ。

 なんで?


 猫が詰め寄ってくる。なんでなんでをバカみたいに繰り返しやがる。ムカつく。

 でもそうだ。なんでを繰り返せばそこになんの答えも意味もないことなどすぐわかる。選ばれるかどうかと存在価値は関係ない。存在価値は己が算定するもの。他人が算定してきていると思い込んでいるだけでそれは己の算定。目の前の現実は意識が生み出しているだけ。他人がどういう発言をしてくるか、どう己に影響を与えてくるかも全て己の意識が創り出す。そんなことはわかってんだよ。理屈ではどうとでも言える。だけどそれを本当に感覚として持てるかどうかは別次元の話だ。

「そう、それだ!」

 猫が声を上げた。なんだーよくわかってるじゃないかあと騒いでいる。興奮して二本足で立ち上がった。それができればもう、ワシみたいにヤリ放題だぞおと腰振って喚いている。海に突き落としてやりたい。

 どうすればいいんだ。そもそもなんで俺はまだ20代なのにこんなジジイみたいな情けない悩みを抱えているんだ。

「冴ちゃんはまだ3歳なんだよお」

 猫は腰振りをやめた。が、奇妙な安定感を保って二本足で立っている。違和感しかない体勢で、真顔でこちらを見ている。

 3歳はセックスしないでしょ。だから勃たないの。余裕がないのは安心感がないから。安心感がないのは、それを奪われたから。

 猫が淡々と言った。笑うこともなく、一応真剣な話をしているようだ。だが言っている内容はふざけているのかと言いたくなるようなよくわからない内容。だがどこを探しても、どの本を読んでも手に入らないような話であるような気はしてる。

「安心感を奪ったのは誰だろうねえ」

 それを考えて、また明日おいで。そう言って猫はトン、とたるんだお腹を揺らして飛んだ。腰掛けていたコンクリートから降りた。

 あ、タバコも忘れないでねえ。

 猫は背を向けて、街の闇に消えていった。











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