憎悪を具現化したような黒いオーラを纏いながら、こちらに歩いてくる一人の男。顔全体に血管が浮き出ており、濁った金色の目は血走っている。法衣に身を包んだその身体ははち切れんばかりに肥大しており、拳を握りしめる音がここまで聞こえてくる。
誰が見ても分かる怒りの感情に私は気圧されてしまう。でもリリシアは、まるで小馬鹿にするように笑みを浮かべている。
「あら、今頃お目覚め?」
「リリシアッ……このクソ女がぁぁ。よくも私に毒を浴びせてくれたなぁッ」
ギリギリと歯を鳴らしながら男はリリシアを睨み付けている。
そんな男に、リリシアはどこかへ行けと手を払っている。
「神官とは思えない下品な口ね。こっちは取り込み中なのよ、すっこんでなさい」
「貴様ぁ……こんなことをしてただで済むと思っているのかッ」
「はぁ? 元々この程度の毒でやられるアンタが悪いのよ。
「私が貴様に手出しできないと高を括っているのかッ」
「あたしたちノヴァリス四姉妹には、教団の者は絶対に手出ししてはいけない。もし手を出せば、教団の執行者があんたを殺しにくるわよ」
「執行者など知ったことか! 貴様を殺したとしても予備はまだ三つもあるッ。ディセント計画に支障はない!!」
男の言葉を聞いた瞬間、リリシアの表情から笑みが消え、指先から男に向かって魔力が放たれる。魔導具なしで直接魔力を放つと、様々な要因に阻まれて霧散してしまう。霧散せずに放たれたということは、それだけリリシアの魔力が強大だということ。
でも、男に着弾した魔力は身体の表面をなぞり、あらぬ方向へと弾き返されてしまった。
「……ん?」
「クックック、なんだ今のは。それが神域者の攻撃かぁ?」
魔力を受けた男の胸元……破れた法衣の下からは、黒光りする鱗のようなものが見える。やがて男を包んでいたドス黒いオーラが、視認できないほどに男を包み込んでいく。
膨れ上がる闇から現れたのは、翼の生えた巨大な爬虫類だった。その身体は黒曜石のような鱗で覆われていて、巨大な角と鋭利な爪が鈍い光を放っている。
ライザールの指揮官であるヴィクターは怪物を宿していて、力を持つものは自由に怪物の姿に変身出来ると聞いてはいた。
でも、聞くのと目の当たりにするのではまるで違う。こんなの……人が戦えるような相手じゃないッ。
「この『黒曜のパンチェール』を侮ったこと、後悔するんだなぁ!!」
怪物に変貌した男が、大気を震わせる咆哮を上げる。全身が痺れるような殺気……でも、リリシアは怯えるどころか不敵に鼻を鳴らして怪物に立ちはだかる。
「ふん。トカゲ風情がいい気になってんじゃないわよ。アンタを殺す方法なんていくらでもあるのよ」
リリシアの目が輝きを増して金色へと変化していく。パンチェールの瞳とは比較にならない輝き……これが、真の神域者の力。リリシアの言葉は決して虚勢なんかじゃない。本当にこの恐ろしい怪物を倒せるだけの力を有している。
溢れ出るリリシアの魔力が何かの形を成そうとしたその時──オウガ様が二人の間に割って入り、リリシアを静かに手で制した。
「俺がやろう」
「はぁ?」
「なんだ貴様はッ!!」
「後ろには俺の仲間がいる。ここで暴れてもらっては困るんだよ」
「そんなの知ったこっちゃないわよ! 引っ込んでなさい!!」
「そうだ! 出しゃばるな!!」
「悪いが先約は俺でね。トカゲ君にはさっさとご退場願おうか」
「なぁにぃぃ……舐めた口をききやがってぇぇぇ!!」
パンチェールが巨大な身体を動かし、その濁った瞳をオウガ様に定めた。
「いいだろうッ……ならば貴様から血祭りにあげてやる!」
「トカゲ君もこう言ってる。下がっていろリリシア」
「……分かったわよ。もたつくようなら二人まとめて吹っ飛ばすからね」
リリシアは観念したのか大人しく引き下がってくれた。まぁ、その顔は不満に満ち満ちているけど。
でも、私は少し安心した。
『妹を守る』という強い想い……誰かを守る為ならA・Sは戦える。でも、リリシアが本気なら私たちはとっくに花粉で死んでいたと思う。それをしなかったってことは、リリシアがおバカだからじゃなくて本能的に殺人を避けたんだ。
誰かに戦いを任せる……それは卑怯なことだとは思う。自分の手は汚さず、代わりに汚れてもらおうとしているのだから。でも、ここはオウガ様に任せるのが一番だ。オウガ様ならきっと────
鞘から引き抜かれた白銀の剣。装飾などの飾り気はまるでなく、無骨と言っていいほど単純な直剣。でも、その淡く輝く刀身は月が舞い降りたかのように美しくて、オウガ様の気高い精神がそのまま具現化したかのようだった。
「ほう、その輝き……貴様 『
「そう、これが俺のレガリアだ。火を纏うことも、風を巻き起こすこともできないただの剣だ」
「クックック。そんな小剣では、神域者である私の装甲に傷一つ付けることはできん」
「レガリアだと見抜いたならもしやと思ったのだが、やはり所詮はトカゲのようだな。レガリアの強さは心の、魂の強さで決まる。お前のように足を踏み入れただけの神域者ではない。真の神域者の力、最期に味わうといい」
怒りの咆哮と共に、パンチェールの巨大な鉤爪がオウガ様へと振り下ろされる。一瞬の出来事……轟音が響き渡り、砕かれた岩石が辺りに散乱する。
「オウガ様ッ!」
私は思わず叫んでいた。
パンチェールの攻撃で大きく抉られた地面。でも、そこにオウガ様の姿はなかった。
私の隣にいるガウロンさんは腕を組み、慌てる様子が微塵も感じられない。ガウロンさんの顔が少し上を向いている。その視線を追うと、パンチェールの上空にキラキラと輝く光が見えた。
「────ッ!?」
パンチェールもその光に気づいたのか、すぐさま視線を上空に向ける。
その光の正体……それは紛れもなくオウガ様だった。深紅のマントをたなびかせ、両手で剣を構えている。
上空から剣を振り下ろすオウガ様に、再びパンチェールの鉤爪が襲いかかる。剣と爪が火花を散らして衝突した────
5mはあるだろうパンチェールの巨体。黒曜石の鱗で固められた全身……触るまでもなく、鈍い輝きがその強固さを物語っている。でも、まるで大質量の物体を叩きつけられたかのようにパンチェールの爪と鱗は砕け散り、そのまま潰されるように身体は二つに断たれていた。
巨人の剣による斬撃……そう表現する他なかった。その斬撃の威力は、パンチェールを超えて大地にまで刻まれている。
力無く倒れるパンチェールの身体。その身体からは黒い瘴気のようなものが立ち昇り、まるで蒸発するかのように巨体が消えていく。そして、その瘴気がオウガ様の鎧へと吸収されていく。
「さて、邪魔者はいなくなった。どうする、リリシア?」
オウガ様がリリシアに向き直る。
これほどの実力を見せられたんだし、流石にリリシアも────
「ふん、中々やるじゃない。でもね、あたしだってやろうと思えばそれ位できるのよ。それを思い知らせてあげるわ」
────やる気満々だった。
「な、何言ってるんだよリリィ姉様! 今の見たでしょ!?」
「そ、そうだよ! あんなので斬られたら死んじゃうよ! 木っ端微塵だよ!」
「あたしの皮膚は神の皮膚。あんなトカゲの鱗と一緒にするんじゃないわよ」
二人の妹が一生懸命説得しているけど、リリシアの意志を変えることはできないみたいだ。
リリシアって凄く負けず嫌いなんじゃないかな。自分に自信があるんだと思う。治癒士にとって自信は必要不可欠な要素。リリシアは治癒士に向いてると思う。
「やらなきゃ気が済まないみたいだね。オウガ様……リリィ姉様は胸にばかり栄養がいき頭は空ですが、その魔力は強大です。一応お気をつけ下さい」
「あぁ、分かってる」
「分かってる!? 誰の頭が空ですって!?」
オウガ様の『分かってる』はそっちのことじゃないと思うんだけど!
憤慨したリリシアが二人に巻き付いた蔓を締め上げている。
「ぐああぁぁッ」
「グエエぇぇ……なんでボクまでッ──」
「うるさい妹たちね。大人しく姉の勇姿を見てなさい」
むむむ、A・Sとは思えない闘争心。自分のA・Sに対する認識が間違ってるんじゃないかと思えてきた。
「さぁ、待たせたわね」
「さっきも言ったが、ここで暴れられては仲間に被害が出る。場所を変えよう」
「いいわ、好きな場所を選びなさい。そこがあんたの墓場よ」
「うーん、そうだなぁ。向こうにレヴェナントが陣取ってる場所がある。そこにしようか?」
「はぁ? レヴェナントが邪魔になるでしょ」
「レヴェナントは俺が処理するよ。君は構わず攻撃を仕掛けてくれていい」
「はぁ? はぁ〜〜!? レヴェナントを倒しながらあたしの相手をするつもり!? なめるんじゃないわよ!!」
「それもそうだな。じゃあまずは二人でレヴェナントを処理してから、それから戦うってことでどうだい? 何ならどちらが多く倒すか競争してもいい」
「望むところよ! あたし一人で掃除してやるわ!!」
そう言い残して猛ダッシュで駆けていくリリシア。ヒールでよくあそこまで早く走れるなぁ。ヒールが折れちゃうんじゃ……あッ、転けた。
「じゃあ行ってくる。ついでに地獄炉も潰しておくから、撤退の準備をしておいてくれ」
オウガ様もリリシアの後を追いかけて行ってしまった。
「オウガ様……姉様の扱い上手だなぁ」
「っていうかボク達縛られたままなんだけど……」
遠くから轟音が聞こえる。リリシアが暴れまくっているのが目に浮かぶようだ。
「だ、大丈夫かなぁ」
「問題ない。フラウエル、気になるなら見に行ってもいいぞ。巻き込まれないようにな」
オウガ様を信頼しているからなのか、ガウロンさんは気にすることなく行ってしまった。
流石に怪我とかが心配だし、私も後を追いかけることにしよう。
「ま、待ってフラウ! 私達を先に解放してくれぇ!!」
「お、おしっこ行きたい……」