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第十六回 午燎原の戦い




 しんてんすうたちはその後、どうなったか。




 初日の戦闘では司令官のおうようしんが逃げ出し、快勝を収めた。


かんほうていねん、よくやった。酒を用意してあるから、兵に振る舞ってやれ。初戦を勝ったしゅくえんだ」


 秦典枢は上機嫌で二人をねぎらう。


「しかし頭領、欧陽信は逃げただけでまだ兵力は残しています」


 二人が心配すると、秦典枢は小さな声で言った。


「なるべく派手に宴会してろ。欧陽信のせっこうに見えるようにな」




 一方で、秦典枢の陣営が祝宴をしていると聞いた欧陽信は、大笑いして言った。


「あれくらいで勝ったつもりか、せいぜい浮かれていろ。今夜のうちに決着を付けてやる」


 欧陽信は夜襲をかけようと、準備を整えている。今はまだ夕方なので、戦の前にゆっくり夕食を取ろうとしていた。


おうようどの、大変です。夜襲の兵が勝手に移動しています」


 副官が慌てて飛び込んできた。欧陽信は不機嫌に言う。


「何が起きた?」


いつわりの命令が出され、兵は方々へ分散してしまいました。夜襲は読まれていたようです」


「なんだと、小癪こしゃくな。すぐ兵を集め直せ」


 欧陽信がそう言って食事をしようとすると、また別な副官が来て言った。


「お逃げ下さい。秦典枢が騎馬隊で突撃して来ました。本陣の真後ろです」


 そのとき、ばくえい(テント)が大きく揺れ、たくさんの悲鳴が聞こえた。


「欧陽どの、幕営が燃やされて、兵が混乱しています。ご指示を」


 一度にたくさんのことが起きて、欧陽信も混乱した。


「これ以上退けるか。兵はここへ集めて、本陣を守らせろ」


「そうさせていますが、兵の脱走が相次いでいます」


「なんだと。もういい、俺の退路だけでも確保しろ!」


 そう言って欧陽信が幕営を飛び出したとき、おんがぬっと現れた。


「司令官にあるまじき無責任。恥を知れ」


 そう言って盧恩は刀のつかで欧陽信を殴り倒し、部下に捕らえさせた。


「欧陽どのを救え、逃げるな!」


 副官が叫んだが、官軍兵たちは我先に逃げていく。盧恩は部下に命じて、副官も捕らえさせた。




 燃え落ちた幕営で、秦典枢は引っ立てられた欧陽信を笑いもせずに見た。逆に欧陽信は、へつらいの笑いを見せる。


「秦典枢、見逃してくれ。いいことを教えてやる。ここの北のえいしゅうに、大軍勢がひかえている。しかも、率いているのはかくしょうぐんだ。許してくれたら、兵を退くよう頼んでやる」


 秦典枢は興味を引かれて訊いた。


かくだと。なんでこんなところに」


「潁州のたいしゅ(知事)が、お前たちに備えるために呼んだそうだ。この国で随一といわれる名将だぞ」


「へえ。どうせお前を逃がしたら、そっちへ合流する気だろう」


「まさか、ははは」


 欧陽信の目が泳いだ。秦典枢は、笑って立ち上がる。


「よし。その副官は放してやれ。郭子儀を呼んで来させろ」


「なんだと。どういうつもりだ、秦典枢」


 欧陽信が叫んだ。秦典枢は、目を見据える。


「どういうつもりもない。ただ郭子儀と戦ってみたくなったのさ。


 だがな、欧陽信。お前みたいなクズ野郎には、その戦いを見る資格もない。じゃあな」


 そう言って秦典枢は出て行った。


 欧陽信は、己の危機を察して泣き叫んだが、その場で盧恩に斬り捨てられた。




 逃げた副官は直ちに潁州に急行し、事態を告げた。欧陽信が斬られたと知った太守は、援軍を送ることを決定した。


「鶏をくのに牛刀を用いる、といいますが、まさに今のこと。郭将軍なら造作もないでしょうが、お願いいたします」


 太守はすでに勝った表情で笑った。反対に郭子儀は、けわしい顔を見せた。


「いえ。兵の少なさを生かしたびんしょうな用兵、秦典枢はあなどれませぬ。それに、官軍の将を斬ったからには決死の覚悟のはず」


 太守は不安顔になる。


「まさか、勝てぬと?」


「こちらは兵が多すぎ、動きは遅い上、目立ちます。それに私にははっこうざんかんもない。勝負は五分と五分です」


 郭子儀の口調は、真剣だった。




 ◇




 とんこうの森は、かなり広い森であった。今は怪異は消えたが、収星陣しゅうせいじんは散り散りになったまま、合流できずにいた。


 李秀りしゅうは、がくせいかれていた少年と森を出て、彼の家に送り届けた後、一人でがいえいざんを目指していた。


 途中で歩き疲れ、ぼうに腰掛けて休んでいると


「李秀ではないか。お前、ちょうあんにいたのではなかったか」


 堂々とした偉丈夫いじょうふに声をかけられた。李秀は、驚いて飛び上がる。


! 郭子儀師父じゃないですか。こんなところで会うなんて」


 郭子儀は乗っている馬を指さして


「とにかく乗れ。食事でもして話そう」


 二人はえきてい(街道に設けられた宿泊所)まで移動した。


 食事をしながら、李秀はこれまでの経緯を話した。


「ほう、たいかんの仕事で魔星とやらを、な。にわかには信じられぬが、お前のたびしょうぞくを見ると、嘘ではないのだな。早く仲間と合流できることを祈るぞ」


 郭子儀は優しかった。李秀はほほ笑んでうなずき、師に訊く。


「師父はどうしてこちらに?」


 郭子儀は、じっと黙ってから、厳しい目つきで告げた。


とうばつだ。お前たちが出会った、秦典枢の」


「えっ」


 李秀は、茶碗を取り落とした。




 ◇




 へいかくは、半日かけて森を脱出した。しかし方角を見失い、八公山のふもとへ逆戻りして来てしまった。付近では、官軍を迎え撃つための陣営を布いている。


 萍鶴がその様子を見ていると、歩兵部隊が近づいて来た。


「あんた、らいせんの仲間だろ。まだこんなところにいたのか?」


 声をかけた隊長は、秦典枢だった。


「森に迷って、離ればなれになってしまったの」


 萍鶴が答えたとき、兵卒が叫んだ。


「頭領、官軍の斥候隊が来ます。見つかるとやばい」


 秦典枢は舌打ちし、


「官軍を奇襲するのは無理そうだな。退こう。あんたも来い、亥衛山への道を教えてやる」


 そう言って、本陣へ撤収した。


 萍鶴は一人部屋をあてがわれ、そこで食事を出された。森を歩き続けて空腹だったのでほっとしていると、秦典枢が現れた。


「飯は済んだかい」


「ええ、ごちそうさま。助かったわ」


めしだいをもらおうか」


「……私、お金は」


 萍鶴が困っていると、秦典枢は笑って


「金じゃなくていい。ちょっと、俺の話し相手になって欲しくてね」


 と、食卓の向かいにドスンと腰掛けた。


「私でいいの?」


 萍鶴は不思議そうに訊く。


「部外者だから楽に話せる。軽く聞き流してくれ」


 秦典枢はいたずらっぽく笑った。萍鶴は黙って頷く。


「――ただのごろつきだった俺たちが、みんを受け入れているうちに、いっぱしの山賊になっちまった。今さら良民に戻ろうなんて気はないし、みんなで相談して、やれるだけやろうって決めたんだ」


「あれから、官軍と戦ったのね」


「ああ。間抜けな連中だったんで、さっさとやっつけた。だが北に援軍がいて、それを率いてくるのが、なんとあの郭子儀将軍だと言うんだ」


「……ごめんなさい。私、知らないの」


 記憶を失っている萍鶴は、時事のことにもうとかった。秦典枢はいいんだ、と手で示して続ける。


「八公山の地形を利用すれば、大軍が来ても戦える。だが、天気や風向きによっては危ない」


 萍鶴は黙って聴いている。


「勝てるものなら勝ちたい。だが、もし負けるんなら、名のある武将に討たれて死にたい。郭子儀は、俺たちにとってまたとない相手なんだ」


 萍鶴は、驚いて秦典枢を見る。少年のような笑顔が、そこにあった。




 ◇




 翌日の朝、はっこうぐんと官軍は開戦した。


 秦典枢は、山の北側に広がる午燎原ごりょうげんという平野に本陣を置いた。甘豊武に投石機で攻撃させる一方で、丁子稔の馬軍と廬恩の歩軍に突撃を掛けさせた。


「速い戦法で行くって言ってたけど、本当にそうしたわね」


 萍鶴は、人気のない丘に登って戦況を見ていた。秦典枢から教えられた脱出経路の途中である。


 そのうちに、誰かが近付いてきた。李秀だった。


「萍鶴? 良かった、無事だったんだね。鋼先たちは?」


「李秀……」


 萍鶴は笑顔になったが、静かに首を振った。李秀は寂しそうに笑う。


「そっか。とりあえず、二人で亥衛山を目指そう」


 萍鶴は頷いたが、視線は丘の下に向けたまま、ぽつりと言った。


「秦典枢の相手、郭子儀という人よ。とても強いらしいわ」


 李秀も、ぽつりと答える。


「知ってる。昨日会ってきた。あたしの師匠よ」


「えっ」


 萍鶴が驚いた。李秀は、淡々と戦況を見ている。


 風が、官軍の弓隊にとって追い風で吹いていた。甘豊武の投石機部隊が、矢で撤退させられていく。


「師父が言ってた。秦典枢は山賊ながら立派な好漢だって。でも、官軍の将を斬ってしまったから、もう見逃せないんだって。あたしもさすがに、何も言えなかった」


 二人のがんでは、多数の官軍にされて八公軍がかいらんしていた。『秦』の旗が、次々と倒れていく。


「私、道に迷って秦典枢に保護されていたの。彼の胸中を、聴かせてもらったわ」


 萍鶴が言った。李秀は黙って聴いている。


「――高名な将軍と戦えて、満足しているそうよ。精一杯生きることができて、本当に楽しかったって。とてもいい笑顔をしていたわ」


「そっか」


 李秀の握りしめた拳が、震えていた。


「じゃああたしたち、今、いいものを見てるんだよね」


 八公軍の本陣に、火の手が上がっていた。悲鳴も聞こえてくる。


「秦典枢が、謝っていたわ。しゅうせいさせてやれなくて済まないって」


「そうだったね。忘れてた」


 二人の目は、もううつろだった。


「でもね李秀、私は思うの。彼らの魔星は、とてもおとなしかった。それは、魔星が彼らの心意気こころいきを、気に入ってるからかもしれない」


「うん」


「だから、もし……彼らに何かあっても、魔星は彼らの意志に従うんじゃないかしら」


「うん、そうだね。


 ごめん、萍鶴。


 あたし、……もう、見ていられない」


 李秀は、うなれて膝を突いた。八公軍が、散り散りになって逃げていく。




 ◇




 郭子儀は、馬軍を十騎ずつに分けて、機動性を高める作戦を取った。騎兵は山岳で戦うには向いていなかったが、火計をうまく使って、相手を山から追い出すのに成功した。八公軍は、平地での戦いを余儀なくされてしまう。


 この戦略と、風の向きとが、勝敗のかなめとなった。八公軍は、徐々に兵力を削られ、脱走する者も相次いで来る。


「さすがだな、郭子儀将軍。……よし、最後の最後に、やりてえことをやってみるか!」


 秦典枢は悪童のように笑うと、たった一人で郭子儀の本隊に迫り、彼に対して一騎打ちを申し入れた。


 郭子儀は、報せを聞いてほほ笑む。


「ふふ、いかにも山賊だな。……好いぞ、受けてやろう。一騎打ちも久しくしていなかったな」


 郭子儀は馬上で、一本のぼう(穂先がうねった刃状になっている矛)を手に、秦典枢を迎え撃つ。


 秦典枢も愛馬にまたがり、身の丈よりやや長いぼくとうを振りかざし、突進した。


 郭子儀はこれを正面から受け止め、力いっぱいぎ払う。秦典枢も力負けせず、あぶみを踏ん張って脇の下を目がけて切り上げた。郭子儀はぱっと身体を開いてかわし、それを戻す勢いで矢のように蛇矛を突き込む。すると、秦典枢は逆に突進し、首の動きだけで矛を躱して、朴刀を突き込んだ。郭子儀は、胸に迫った朴刀を篭手こてで叩いてらす。しかし、鎧の一部に当たって、肩当てが吹っ飛んだ。一方、秦典枢も、蛇矛が少しかすめて、かぶとを吹っ飛ばされた。


「やるな、頭領」


「そちらもな、将軍」


 いったん距離を取り、お互いに笑う。


 かくして、二人は渡り合うこと二十数合。両軍の兵が、まばたきもせずに見守っていた。


 しかし、戦いの場数がものを言ったか、郭子儀がわざと矛で空を切って隙を見せ、秦典枢が胸元めがけて打ち込むところを、矛の石突きで素早く払った。


 朴刀は天高く跳ね上げられ、秦典枢が驚いた隙を逃さず、郭子儀の矛先が、彼のひだりももとらえる。


「ぐおっ!」


 激痛で飛び上がった秦典枢は、そのまま落馬し、動けなくなった。


「ちくしょう、痛てて。もう立てねえ。へへへ、やっぱ強いな。ありがとうよ、郭将軍。いい勝負だったぜ」


 秦典枢は、痛みに顔をゆがめながらも笑い、手を振って降参を示す。


「そちらも、良い腕だったぞ。山賊風情さんぞくふぜいの手並みではなかった」


 郭子儀は、静かに笑いながら、秦典枢に手を差し伸べて起こした。




 主将を討たれた八公軍は、郭軍の勧めで次々と武器を捨てて投降する。


 秦典枢と四人の宿将は、郭子儀の前に縄をかけられて座らされた。


 郭子儀は、彼らを一人一人見て、おごそかに言う。


「いいつらがまえだ。死ぬのは怖くない、と顔に書いてある」


 それが嬉しかったのか、秦典枢が笑って答えた。


「郭将軍、じたばたする気はねえ。だが、一つだけ頼みがある」


「安心しろ、降伏した兵の命は助ける」


「それもそうなんだが、俺たち五人を、この場で斬ってくれ。都へ護送なんて、退屈でたまらねえ」


 秦典枢があっさりと言うと、四人の宿将も笑って彼に同意した。


 郭子儀は、彼らの意をんで頷く。


「私は、勝った気はしていない。矢が風に乗るという幸運があっただけだ。罪は犯したが、お前たちは義士であった。――せめて葬儀は、礼を尽くしてやる」


 郭子儀に心意気を察せられて、秦典枢は座したまま礼をする。


「感謝するぜ、郭将軍。こんな嬉しい言葉はない。――さあ、遠慮はいらねえ」


 秦典枢たちは、心からの笑みを見せた。


 郭子儀は、礼をして、すぐに後ろを向く。


 とっに流れ出た涙を、そうやって隠した。




 やがて、李秀と萍鶴が空を見ている中、五つの光が上清宮じょうせいぐうの方向へ飛んでいった。

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