初日の戦闘では司令官の
「
秦典枢は上機嫌で二人をねぎらう。
「しかし頭領、欧陽信は逃げただけでまだ兵力は残しています」
二人が心配すると、秦典枢は小さな声で言った。
「なるべく派手に宴会してろ。欧陽信の
一方で、秦典枢の陣営が祝宴をしていると聞いた欧陽信は、大笑いして言った。
「あれくらいで勝ったつもりか、せいぜい浮かれていろ。今夜のうちに決着を付けてやる」
欧陽信は夜襲をかけようと、準備を整えている。今はまだ夕方なので、戦の前にゆっくり夕食を取ろうとしていた。
「
副官が慌てて飛び込んできた。欧陽信は不機嫌に言う。
「何が起きた?」
「
「なんだと、
欧陽信がそう言って食事をしようとすると、また別な副官が来て言った。
「お逃げ下さい。秦典枢が騎馬隊で突撃して来ました。本陣の真後ろです」
そのとき、
「欧陽どの、幕営が燃やされて、兵が混乱しています。ご指示を」
一度にたくさんのことが起きて、欧陽信も混乱した。
「これ以上
「そうさせていますが、兵の脱走が相次いでいます」
「なんだと。もういい、俺の退路だけでも確保しろ!」
そう言って欧陽信が幕営を飛び出したとき、
「司令官にあるまじき無責任。恥を知れ」
そう言って盧恩は刀の
「欧陽どのを救え、逃げるな!」
副官が叫んだが、官軍兵たちは我先に逃げていく。盧恩は部下に命じて、副官も捕らえさせた。
燃え落ちた幕営で、秦典枢は引っ立てられた欧陽信を笑いもせずに見た。逆に欧陽信は、へつらいの笑いを見せる。
「秦典枢、見逃してくれ。いいことを教えてやる。ここの北の
秦典枢は興味を引かれて訊いた。
「
「潁州の
「へえ。どうせお前を逃がしたら、そっちへ合流する気だろう」
「まさか、ははは」
欧陽信の目が泳いだ。秦典枢は、笑って立ち上がる。
「よし。その副官は放してやれ。郭子儀を呼んで来させろ」
「なんだと。どういうつもりだ、秦典枢」
欧陽信が叫んだ。秦典枢は、目を見据える。
「どういうつもりもない。ただ郭子儀と戦ってみたくなったのさ。
だがな、欧陽信。お前みたいなクズ野郎には、その戦いを見る資格もない。じゃあな」
そう言って秦典枢は出て行った。
欧陽信は、己の危機を察して泣き叫んだが、その場で盧恩に斬り捨てられた。
逃げた副官は直ちに潁州に急行し、事態を告げた。欧陽信が斬られたと知った太守は、援軍を送ることを決定した。
「鶏を
太守はすでに勝った表情で笑った。反対に郭子儀は、
「いえ。兵の少なさを生かした
太守は不安顔になる。
「まさか、勝てぬと?」
「こちらは兵が多すぎ、動きは遅い上、目立ちます。それに私には
郭子儀の口調は、真剣だった。
◇
途中で歩き疲れ、
「李秀ではないか。お前、
堂々とした
「
郭子儀は乗っている馬を指さして
「とにかく乗れ。食事でもして話そう」
二人は
食事をしながら、李秀はこれまでの経緯を話した。
「ほう、
郭子儀は優しかった。李秀はほほ笑んで
「師父はどうしてこちらに?」
郭子儀は、じっと黙ってから、厳しい目つきで告げた。
「
「えっ」
李秀は、茶碗を取り落とした。
◇
萍鶴がその様子を見ていると、歩兵部隊が近づいて来た。
「あんた、
声をかけた隊長は、秦典枢だった。
「森に迷って、離ればなれになってしまったの」
萍鶴が答えたとき、兵卒が叫んだ。
「頭領、官軍の斥候隊が来ます。見つかるとやばい」
秦典枢は舌打ちし、
「官軍を奇襲するのは無理そうだな。退こう。あんたも来い、亥衛山への道を教えてやる」
そう言って、本陣へ撤収した。
萍鶴は一人部屋をあてがわれ、そこで食事を出された。森を歩き続けて空腹だったのでほっとしていると、秦典枢が現れた。
「飯は済んだかい」
「ええ、ごちそうさま。助かったわ」
「
「……私、お金は」
萍鶴が困っていると、秦典枢は笑って
「金じゃなくていい。ちょっと、俺の話し相手になって欲しくてね」
と、食卓の向かいにドスンと腰掛けた。
「私でいいの?」
萍鶴は不思議そうに訊く。
「部外者だから楽に話せる。軽く聞き流してくれ」
秦典枢はいたずらっぽく笑った。萍鶴は黙って頷く。
「――ただのごろつきだった俺たちが、
「あれから、官軍と戦ったのね」
「ああ。間抜けな連中だったんで、さっさとやっつけた。だが北に援軍がいて、それを率いてくるのが、なんとあの郭子儀将軍だと言うんだ」
「……ごめんなさい。私、知らないの」
記憶を失っている萍鶴は、時事のことにも
「八公山の地形を利用すれば、大軍が来ても戦える。だが、天気や風向きによっては危ない」
萍鶴は黙って聴いている。
「勝てるものなら勝ちたい。だが、もし負けるんなら、名のある武将に討たれて死にたい。郭子儀は、俺たちにとってまたとない相手なんだ」
萍鶴は、驚いて秦典枢を見る。少年のような笑顔が、そこにあった。
◇
翌日の朝、
秦典枢は、山の北側に広がる
「速い戦法で行くって言ってたけど、本当にそうしたわね」
萍鶴は、人気のない丘に登って戦況を見ていた。秦典枢から教えられた脱出経路の途中である。
そのうちに、誰かが近付いてきた。李秀だった。
「萍鶴? 良かった、無事だったんだね。鋼先たちは?」
「李秀……」
萍鶴は笑顔になったが、静かに首を振った。李秀は寂しそうに笑う。
「そっか。とりあえず、二人で亥衛山を目指そう」
萍鶴は頷いたが、視線は丘の下に向けたまま、ぽつりと言った。
「秦典枢の相手、郭子儀という人よ。とても強いらしいわ」
李秀も、ぽつりと答える。
「知ってる。昨日会ってきた。あたしの師匠よ」
「えっ」
萍鶴が驚いた。李秀は、淡々と戦況を見ている。
風が、官軍の弓隊にとって追い風で吹いていた。甘豊武の投石機部隊が、矢で撤退させられていく。
「師父が言ってた。秦典枢は山賊ながら立派な好漢だって。でも、官軍の将を斬ってしまったから、もう見逃せないんだって。あたしもさすがに、何も言えなかった」
二人の
「私、道に迷って秦典枢に保護されていたの。彼の胸中を、聴かせてもらったわ」
萍鶴が言った。李秀は黙って聴いている。
「――高名な将軍と戦えて、満足しているそうよ。精一杯生きることができて、本当に楽しかったって。とてもいい笑顔をしていたわ」
「そっか」
李秀の握りしめた拳が、震えていた。
「じゃああたしたち、今、いいものを見てるんだよね」
八公軍の本陣に、火の手が上がっていた。悲鳴も聞こえてくる。
「秦典枢が、謝っていたわ。
「そうだったね。忘れてた」
二人の目は、もう
「でもね李秀、私は思うの。彼らの魔星は、とてもおとなしかった。それは、魔星が彼らの
「うん」
「だから、もし……彼らに何かあっても、魔星は彼らの意志に従うんじゃないかしら」
「うん、そうだね。
ごめん、萍鶴。
あたし、……もう、見ていられない」
李秀は、うな
◇
郭子儀は、馬軍を十騎ずつに分けて、機動性を高める作戦を取った。騎兵は山岳で戦うには向いていなかったが、火計をうまく使って、相手を山から追い出すのに成功した。八公軍は、平地での戦いを余儀なくされてしまう。
この戦略と、風の向きとが、勝敗の
「さすがだな、郭子儀将軍。……よし、最後の最後に、やりてえことをやってみるか!」
秦典枢は悪童のように笑うと、たった一人で郭子儀の本隊に迫り、彼に対して一騎打ちを申し入れた。
郭子儀は、報せを聞いてほほ笑む。
「ふふ、いかにも山賊だな。……好いぞ、受けてやろう。一騎打ちも久しくしていなかったな」
郭子儀は馬上で、一本の
秦典枢も愛馬に
郭子儀はこれを正面から受け止め、力いっぱい
「やるな、頭領」
「そちらもな、将軍」
いったん距離を取り、お互いに笑う。
かくして、二人は渡り合うこと二十数合。両軍の兵が、まばたきもせずに見守っていた。
しかし、戦いの場数がものを言ったか、郭子儀がわざと矛で空を切って隙を見せ、秦典枢が胸元めがけて打ち込むところを、矛の石突きで素早く払った。
朴刀は天高く跳ね上げられ、秦典枢が驚いた隙を逃さず、郭子儀の矛先が、彼の
「ぐおっ!」
激痛で飛び上がった秦典枢は、そのまま落馬し、動けなくなった。
「ちくしょう、痛てて。もう立てねえ。へへへ、やっぱ強いな。ありがとうよ、郭将軍。いい勝負だったぜ」
秦典枢は、痛みに顔を
「そちらも、良い腕だったぞ。
郭子儀は、静かに笑いながら、秦典枢に手を差し伸べて起こした。
主将を討たれた八公軍は、郭軍の勧めで次々と武器を捨てて投降する。
秦典枢と四人の宿将は、郭子儀の前に縄をかけられて座らされた。
郭子儀は、彼らを一人一人見て、
「いい
それが嬉しかったのか、秦典枢が笑って答えた。
「郭将軍、じたばたする気はねえ。だが、一つだけ頼みがある」
「安心しろ、降伏した兵の命は助ける」
「それもそうなんだが、俺たち五人を、この場で斬ってくれ。都へ護送なんて、退屈でたまらねえ」
秦典枢があっさりと言うと、四人の宿将も笑って彼に同意した。
郭子儀は、彼らの意を
「私は、勝った気はしていない。矢が風に乗るという幸運があっただけだ。罪は犯したが、お前たちは義士であった。――せめて葬儀は、礼を尽くしてやる」
郭子儀に心意気を察せられて、秦典枢は座したまま礼をする。
「感謝するぜ、郭将軍。こんな嬉しい言葉はない。――さあ、遠慮はいらねえ」
秦典枢たちは、心からの笑みを見せた。
郭子儀は、礼をして、すぐに後ろを向く。
やがて、李秀と萍鶴が空を見ている中、五つの光が